2024年7月12日 (金)

高校野球千葉大会が始まった(NO.1830)

 2024年7月7日、全国高校野球選手権千葉大会の開会式がマリンスタジアムで行われ、7月10日から試合が県下11球場で始まりました。予定通り進めば決勝戦は7月27日となっています。

 148チーム(160校)が参加します。優勝するまでは7回か8回戦う必要があります。甲子園で優勝すには5回か6回勝てばいいのに比べるとはるかに大変です。そのため「戦国千葉」と言われています。

 私は子供2人と孫3人の出身校5校と我孫子市にある中央学院高校のあわせて6校を応援しています。

 中央学院は今年の春のセンバツに出場し、甲子園でベスト4まで進みました。

 長男の出身校の専大松戸は最近9年間に3回優勝した強豪校です。中央学院と共にAシードになっています。

 長女の出身校の我孫子高校は、県立ながら1978年と1991年に2度優勝しています。1991年には妻とともに我孫子発の特別列車で甲子園まで応援に駆け付けました。

 最近では県立高校が優勝することはなくなりました。孫3人の高校はすべて県立高校なのでどこまで勝ち進めるかが応援のしどころです。

 孫の1人は今は社会人ですが、柏の葉高校在学中は野球部員でした。3年生の時試合に応援に行きました。初戦は突破したのを覚えています。

 この夏は、専大松戸か中央学院が甲子園に進めるよう願っています。

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2024年7月10日 (水)

Face Bookのメッセージが突然削除された(NO.1829)

 2024年7月7日、Face Bookに載せている「手賀沼通信ブログ」掲載のお知らせがすべて削除されました。何の通告もないので理由はわかりません。

 以下は私の推測です。最近SNSを使った犯罪や偽の広告などが話題になっています。それを防ぐため、WEBアドレスが入ったおしらせは削除するように決めたのではないかと思います。

 私はココログのプロバイダーを使って「手賀沼通信ブログ」を書いています。月に10回ほど書きますが、書くたびにFace Bookに、「「〇〇〇…」を手賀沼通信ブログに書きました。」というメッセージとブログのWebアドレスを載せていました。

 そのアドレスを書いているのが削除の原因になったようです。アドレス抜きのメッセージはそのまま残っています。使いにくい世の中になったものです。

 以前にも似たような経験をしました。私は月に1回「手賀沼通信」を書いています。ワードで作ったA4の4ページの新聞ですが、10年ほど前は約300人の読者にメールに添付してBCCで一括して送っていました。

 ところがWINDOW 7のライブメールで受けとっている人には、メールは届いても添付の「手賀沼通信」ははがされて届かなかったのです。

 ライブメール使用者が20人ほどいたので、その方には数人ずつ別に送ることになったのです。そうすればはがされることなく届きました。なぜはがされるのか理由はわかりませんでした。

 Net社会はわからないことが多すぎます。

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2024年7月 9日 (火)

イギリス、日本、フランスで行われた3つの選挙(NO.1828)

 2024年7月4日、イギリス下院議員の総選挙が行われ、労働党が定数650のうち410議席以上を獲得する勝利をおさめました。その結果14年ぶりに労働党のキア・スターマー首相が誕生することになりました。

 7月6日の読売新聞は労働党の大勝の原因を次のように述べています。

・保守党政権が主導した国民投票によってEUを離脱したが、社会の分断と混乱は深まり国民の多くは成果を実感できずにいる。

・EU離脱によって財政や政策の自由度が高まるとしていたが、景気低迷や物価高に歯止めがかからず、英国独自の移民受け入れ規制も、深刻な人手不足を招いている。

・保守党のジョンソン、トラス元首相やスナク首相の稚拙な統治が保守党離れを加速した。

・労働党のスタマ-党首は急進左派的な公約を取り下げ中道的な姿勢を示した。

 いま世界はいろいろな問題を抱えています。スタマ-首相がどう政権のかじ取りをするか見守りましょう。

 7月7日には東京都知事選挙が行われ、現職の小池百合子氏が3選を果たしました。

 小池さん約292万票、石丸さん約166万票、連舫さん約128万票の大差でした。

 小池さんの言葉によれば8年間の実績が認められたとのことです。石丸さんは無党派層の支持が多く善戦しました。20代、30代の投票数は3人の中で一番多かったようです。連舫さんは共産党との共闘が裏目に出たようです。

 今回の選挙は56人が立候補するなど異常でした。同じ党から何人も立候補したり、候補者名の立て看板に選挙と関係のないことが掲載されたようです。

 私は千葉県民なので実際に見ることはありませんでしたが、選挙管理委員会も想定外のことだったのではないでしょうか。次回はぜひ対策を考えてほしいと思います。

 フランスでは7日に国民議会の決選投票が行われました。左派政党連合が1位、マクロン大統領の与党連合が2位、極右政党「国民連合」が3位でした。

 1回目投票で1位となっていた極右政党は3位に下がりました。フランスは大統領制なので、これで国家元首が変わることはありませんが今後の政局運営は難しさを増すことでしょう。

 これからは自民党の総裁選挙、アメリカ大統領の選挙が控えています。両方とも問題を含んでいます。日本が、世界がどう変わるか、頭の痛いことばかりです。

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2024年7月 5日 (金)

老人の独り言-6 野球を楽しんだ人生(NO.1827)

 1945年(昭和20年)8月15日、日本は太平洋戦争に敗れました。この年私は国民学校3年生、8歳でした。戦争に敗れた後、国民学校は小学校と中学校に変わりました。中等学校は高校に変わったのです。

 プロ野球の記録をひも解いてみると、さすが敗戦の年は試合をやっていません。野球どころではなかったのです。ところが、1944年までは試合を開催していました。1944年は35試合戦っています。

 そして敗戦の翌年の1946年には試合を再開し105試合行っています。私の記憶では敗戦の年、敗戦が決まってから、愛媛県の郡中町のグラウンドでプロ野球の選手が練習をしていたのをかすかに覚えています。郡中町は空襲を受けなかったためグラウンドが使えたのです。選手の名前はわかりませんが、愛媛県出身の選手だったのでしょう。

 一方高校野球のほうはもう少し長く休んでいます。戦前・戦中は中等学校の大会でしたが、1941年(昭和16年)夏の大会から、戦後の1946年(昭和21年)春の大会まで中止しています。1946年夏から高校野球甲子園大会が再開されました。

 私の野球に対する興味も敗戦後です。プロ野球は巨人ファンとなり、高校野球は地元愛媛県の高校を応援することとなりました。

 遊びとして野球を始めたのも敗戦後です。町中の道路で三角ベースをした記憶があります。セカンドベースのないゴムまりを使った野球もどきの遊びでした。ゴムまりは手で打ちました。また海岸の砂浜で布で作ったボールと棒切れのバットを使って遊んだのも覚えています。

 ところがその後は私にとって野球はやるスポーツから見るスポーツになりました。短距離走と水泳は得意でしたが、球技は何をやっても人並み以下でした。

 野球は見るスポーツとして10代から80代まで人生を通して楽しんでいます。

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2024年7月 3日 (水)

新しい紙幣が発行された(NO.1826)

 2024年7月3日、20年ぶりに新紙幣が発表され流通が始まりました。

 新しいお札のデザインは次のように変わりました。

         旧      新

・1万円札 表 福沢諭吉 → 渋沢栄一

      裏 平等院鳳凰像 → 東京駅

・5千円札 表 樋口一葉 → 津田梅子

      裏 燕子花図 → 藤の花

・千円札  表 野口英世 → 北里柴三郎

      裏 富士山と桜の花 → 富岳三十六景「神奈川沖浪裏」

 渋沢栄一は「日本近代社会の創造者」「日本資本主義の父」と称される実業家です。生涯に約500の企業、約600の教育機関や医療機関の設立運営に携わり、社会の発展に大きく貢献しました。

 津田梅子は6歳の時に日本最初の女子留学生として岩倉使節団と渡米しました。帰国後いくつかの女子校で教授などを務めたのち、女子英学塾(現津田塾大学)を創設、女性の地位向上と女子高等教育に尽力しました。

 北里柴三郎は「近代医学の父」と呼ばれる細菌学者です。ドイツに留学、帰国後伝染病研究所を設立、ペスト菌を発見したことでも有名です。

 3人とも新しいお札の顔として国民に親しまれることとなります。

 新しいお札には偽造防止のため「3Dホログラム」が採用されています。3Dで表現された肖像画が回転するという最先端の技術です。この技術の銀行券への採用は世界初です。

 今はキャッシュレスの時代になりつつありますが、一方ではお札を機械で読み取る時代でもあります。金融機関をはじめとして、駅、スーパー、コンビニ、自販機など、お金を機械であつかうところでは、新札を読み取れる機械に入れ替える必要があり、手間と時間とコスト負担に大変なことと思います。

 私は利用者の一人として、大きな期待と小さな心配が交差しています。

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2024年6月27日 (木)

あの時あの場所この1枚-27 沖縄のひめゆりの塔(NO.1825)

 今年の6月23日、沖縄では79年目の「慰霊の日」を迎えました。

 太平洋戦争の終盤、1945年4月1日に米軍の沖縄上陸作戦が始まりました。そして6月23日、日本の第32軍牛島司令官をはじめ司令部が自決して沖縄での組織的戦闘が終わりました。日本が沖縄戦で負けたのです。

 沖縄県民は4人に1人が亡くなったと言われています。沖縄ではこの日を「慰霊の日」とさだめています。

 17年前の2007年3月1日から7日まで沖縄旅行に妻と行きました。3度目の沖縄ツアーで、沖縄本土だけ時間をかけて回りました。

 平和祈念公園も訪ねましたが、3月5日には糸満市にある「ひめゆりの塔」を訪れました。沖縄線に動員されたひめゆり学徒隊の死者を慰霊する塔です。

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 2つの女学校から生徒・教師240名が看護要員として動員され、そのうち136名が死亡しました。2校の愛称が「ひめゆり」であったことから、戦後「ひめゆり学徒隊」とよばれるようになったのです。

 沖縄には沖縄戦の悲しい戦争の跡や広大な土地を占めている基地を目の当たりに見た旅でした。

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2024年6月23日 (日)

あの時あの場所この1枚-26 3度目の松本城(NO.1824)

 7年前の2017年6月25日から26日まで、民謡の紀楊美会の仲間と美ヶ原温泉旅行を楽しみました。紀楊美会では最後の旅行でした。

 その際訪れた観光地の1つが26日に行った松本城です。私にとっては3度目の松本城見物となりました。

 松本城は長野県松本市のシンボルとなっており、国宝に指定されています。日本の国宝天守閣は、松本城、姫路城(世界文化遺産)、彦根城、松江城、犬山城の5つです。

 日本には城の数は2万5千から3万ほどあったと言われていますが、天守閣が築城時の姿をとどめているのは、この国宝5城のほか、弘前城、丸岡城、備中松山城、丸亀城、伊予松山城、宇和島城、高知城の7つを加えた12城しかありません。

 私はこのうち9城を訪れています。好きな城は、姫路城は別格として地元の伊予松山城と松本城です。

 松本城の天守・城郭・城下町の整備を行い、今のような形にしたのは、徳川家康の元から豊臣秀吉の臣下に走った石川数正とその子康長です。

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 北アルプスの山々バックに広い堀を前にした天守閣の姿が一番の写真スポットですが、残念ながら今回は曇り空だったため、きれいな庭を前にした1枚としました。

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2024年6月21日 (金)

老人の独り言-5 脊柱管狭窄症と夜間頻尿(NO.1823)

 87歳の老人らしくいくつかの持病を持っています。その中で毎日の生活に大きな影響をもたらしているのが、脊椎間狭窄症と夜間頻尿です。

 最近では難聴もひどくなってきましたが今回は話題から外します。

 脊柱管狭窄症は12年ほど前からいろいろな症状が出て、いくつかの整形外科で低周波、けん引、薬の服用などの治療を受け、最後は手術しかないという宣告を受けました。その時は82歳でしたので、80を過ぎてリスクのある手術は避けたいと通院はやめ、今は特に治療を受けていません。

 最初に出た間欠跛行の症状は改善しましたが、今の症状は長く歩けなくなったことと、座ったり寝ている状態から立ち上がるのに手を使う必要があることです。

 夜間頻尿は数年前から自覚するようになりました。10時に寝床に入り6時に起き上がるまで、2回~3回トイレに通います。

 夜間は6畳のカーペットの部屋に、厚手のマットレスを敷いて寝ています。日中はマットレスを2つ折りにしておいてあります。

 トイレに通うにはそのまま立ち上がれるベッドのほうが楽です。隣に息子が以前使っていたベッドの部屋が空いているのに、あえて立ち上がるのに苦労する部屋を使っているのは、今の部屋が南向きで温かく、寝ていて手が届く範囲にいろいろなものがあるからです。テレビやラジカセ、本だな、薬箱、貴重品入れ、眼鏡や飲み物などが寝たままか体を起こしたままで手が届きます。

 乱雑ですが使い勝手がいいのです。パソコン2台とプリンターもあります。着替えもつるしています。

 やせ我慢かもしれませんが、夜間トイレに通うとき、足やひざや手を使って苦労して立ち上がるのが、乏しくなった体の機能を少しでも長く保てるのではないかと思っていることもあります。 

 ところが5月15日の読売新聞に「何度もトイレ 転倒リスク」と題して衝撃的な記事が出ていました。東北大学によると夜間の排尿回数が2回以上の人は、その後5年間に転倒による骨折リスクが2.2倍、死亡リスクが1.91倍に増加するとのことです。気を付けようと思います。

 いつまでこの状態が保てるかわかりませんが、できる間は頑張ろうと思っています。

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2024年6月16日 (日)

老人の独り言-4 好きだった3つの歌(NO.1822)

 歌についての思い出の続きです。

 いろいろな歌を楽しみましたが、その中で一番多く歌ったのが次の3曲です。

 まず1949年に発表された「長崎の鐘」です。

 サトウハチロー作詞、古関裕而作曲で、藤山一郎が歌いました。この歌にはモデルとなる人がいました。原爆症で亡くなった長崎大学の永井隆博士です。哀調のある詞とメロディが心に響きました。カラオケのシステムが出るまえからの愛唱歌でした。

 その次は「無法松の一生ー度胸千両入り」です。

 吉野夫二郎作詞、古賀政男作曲で、1958年に出た村田英雄のヒット曲です。度胸千両の部分で曲調が変わるのが何とも言えず好きでした。

 私が歌い始めてから愛友会の仲間も何人かが好んで歌いました。三味線だけの伴奏で舞台で歌った猛者もいました。

 3っつ目は1980年に発表された、谷村新司作詞作曲、本人が歌った「昴(すばる)」です。詞にも曲にも演歌とは違った格調の高さがありました。

 3曲とも歌うことの楽しみを味わいながら歌いました。

 カラオケを楽しむ機会がなくなったことが残念でなりません。

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2024年6月 9日 (日)

あの時あの場所この1枚-25 我孫子市最後のあやめまつり(NO.1821)

 12年前の2012年(平成24年)6月3日から9日まで第29回あやめまつりが手賀沼公園・水生植物園で開催されました。

 あやめまつりは毎年この時期に開催されていました。水生植物園は手賀沼公園から手賀沼遊歩道を歩いて20分くらいのところにあります。開催期間中には手賀沼公園から植物園まで遊覧船が運行されていました。

 6月9日の土曜日には手賀沼公園でいろいろ趣向を凝らしたイベントが行われました。

 水生植物園にはあやめや花菖蒲やアジサイが咲き誇り、近くの藤棚には藤が満開になっていました。6月8日に水生植物園で撮った1枚です。

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 ところがこの年を最後に翌年からあやめまつりは中止となりました。あやめや花菖蒲を育てる人が高齢化し人手が足りなくなってしまったためです。

 我孫子市の貴重な観光イベントだっただけに残念でした。

 これが最後のあやめまつりとなりました。

 

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