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2009年8月11日 (火)

フジヤマのトビウオの思い出

 平成21年8月2日、国際水泳連盟副会長で元日本オリンピック委員会会長の古橋広之進氏がローマで死去しました。出発時間になっても姿を現さないので、関係者が部屋を訪ねたら、ベッドでなくなっている古橋氏を発見したと読売新聞に出ていました。

 まだまだ活躍してほしいことは多かったと思いますが、高齢者の一人としてはすばらしい死に方だったのではないかととうらやましく思いました。

 ここで私の記憶に残っている若き日の古橋選手の活躍の思い出を、NHKの「スポーツ大陸」と講談社の「日録20世紀」を見ながらまとめてみたいと思います。

 古橋選手は昭和3年静岡県生まれで、水泳は浜名湖の手作りのプールで覚えました。戦時中動員された工場の旋盤で左手中指の先端を失い一時は水泳をあきらめました。

 その後日本大学に進み生涯のライバル橋爪四郎選手と猛練習に明け暮れました。一日に3万メートルも泳いだそうです。

 昭和22年の全日本水泳選手権大会の400メートルの決勝で、4分38秒4の世界記録を出しました。ところが日本は国際水泳連盟から除名されていたため認められませんでした。

 翌昭和23年はロンドンで戦後初のオリンピックが開催されましたが、日本は参加が認められませんでした。日本水泳連盟はロンドンオリンピックの水泳大会と同じ時期にぶつけて全日本大会を開催しました。

 1500メートルでは古橋と橋爪両選手がデッドヒート、古橋選手が18分37秒、橋爪選手が18分37秒8でした。オリンピックの優勝者は19分18秒5、実に40秒以上の差で日本選手が勝ったことになりました。

 私は当時小学校6年生でした。映画館のニュースで日本選手権の様子をみて感激したことを覚えています。

 翌昭和24年、日本選手はロサンゼルスで行われた全米水泳選手権大会に招待されました。外務省からは国交が回復していないので生命の保証はできないといわれて出かけました。

 当時のロスの対日感情は悪く、「ジャップのプールはアメリカより短い」「日本の時計はゆっくり動いているに違いない」などといわれていました。

 日本選手団はホテルにも泊まれず日系人のフレッド和田氏の家に宿泊しました。

 1500メートル予選A組では、橋爪選手が18分35秒7で1位、予選B組では古橋選手が18分19秒で1位、2位のアメリカ選手に180メートルの差をつけました。陸上の5千や1万メートルでは周回遅れというのがありますが、水泳で周回遅れというのは聞いたことがないと元アメリカ選手が述べていました。

 翌日から新聞の論調は「ジャップ」から「ジャパニーズ」になり、古橋は「Flying Fish of Fujiyama]といわれました。

 「生命の保証はできない」から「日の丸を掲げたパレード」に変わったのです。日系人は大喜び、日本国内でも号外が発行され、臨時ニュースが流れました。フジヤマのトビウオは敗戦後の日本を奮い立たせるとともに、すばらしい民間外交を果たしたのです。

 古橋広之進さんのご冥福をお祈りいたします。

 

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