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2019年5月27日 (月)

四国の実家がなくなったー続き(NO.1238)

 先日の続きです。5月24日解体工事が完了しました。その写真が甥から送られてきたのでまたブログに残します。

 解体前の実家の店舗の写真です。

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 1階は荒物屋「山丈商店」の店舗、ポストが立っているのは切手やはがきの販売を行っているためです。2階は物置になっていましたが、私が高校を卒業するまでは、寝室や勉強部屋がありました。両親の寝室も2階でした。

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 解体後はポストと灯篭が残りました。灯篭の前には小さな池があったのですが、埋められました。ポストの後方は右側が妹一家の住まい、左側は隣家の建物です。間口が狭かったのが実感できます。敷地はもっと広いと思っていましたが、意外と狭いのがわかりました。

 奥行きの長さは写真からはわかりませんが、私がいたころは玄関から延々と店舗、住まいの部屋、食堂、台所、風呂場、便所(トイレとは言いませんでした)、作業場、倉庫、小さな畑がつながっていました。それらは向かって右側の1本の土間の通路でつないでいました。歴史の感じられる建物でした。

 店を守ってきた妹一家には心から感謝感謝です。

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2019年5月25日 (土)

四国の実家がなくなった(NO.1237)

 2019年5月愛媛県伊予市にあった実家の建物が取り壊されました。

 実家は山丈商店という店舗名で主に竹製品、台所用品、掃除道具、ロープなどのいわゆる荒物を扱っていました。私の妹が4代目店主として守ってきましたが、大正時代に山崎丈三が愛媛県伊予郡郡中町で創業したという歴史があります。2代目は創業者の息子です。私の父の義理の兄になります。サラリーマンだった父が3代目を継いだのは昭和13年、今から80年前です。そして父が亡くなったあとを妹が継いだのです。

 郡中町は戦後の市制改革で伊予市となりましたが、家は創業時代のまま、築100年は超えていました。郡中町は戦災に遭っていません。郡中町の町家は歴史的にも珍しい建て方になっていました。間口が狭く奥行きが長いというウナギの寝床のような商家が立ち並んでいたのです。家と家との間隔はなく、お互い支え合って立っていたのです。 

 我が家は間口4間(約7.3メートル)、奥行きは25間(約45メートル)くらいあったようです。築100年を超えていたのは、街道側の店舗に使っていた表側で、奥のほうは妹の家族が住むため改築していました。今回取り壊すことになったのは、店舗の部分です。片側の家はすでに取り壊されて駐車場になっていました。

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 今回反対側の家を壊したので家が傾き、改築が必要になったのです。しかし家が古いため改築も多額の費用が掛かり、妹も80歳近い高齢、後継者のいないため思い切って店をやめ、取り壊すことになりました。

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 古い家をなくすのは大変だったようです。父や2代目の持ち物がかなり残っており、それを廃棄するには、妹と同居している三男が大汗をかいたようです。

 私は遠く離れているため何もできず、申し訳ない思いでした。その苦心談を聴くと、自分の終活も本気で考える必要があると感じた次第です。

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2019年5月21日 (火)

ありがとう上原浩治投手(NO.1236)

 2019年5月20日巨人の上原浩治投手が現役を引退しました。現役最年長の44歳21シーズン目でした。

 上原投手は大阪体育大出身、1998年のドラフト会議で長嶋監督の巨人を逆指名で1位で入団しました。松阪大輔選手と同じ年です。

 当時は大学又は社会人の選手に限って選手が球団と合意すると1名または2名、抽選でなく選手が希望する球団に入団できました。この制度は2006年を最後に廃止されましたが、上原投手はこの制度で巨人に入ったのです。

 そして入団1年目は20勝4敗の成績を挙げ、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手4部門のタイトルを独占、沢村賞、新人王、ベストナイン、ゴールデングラブの各賞を獲得しました。自分自身を「雑草魂」と唱えた言葉はその年の流行語大賞にも選ばれました。

 この年私が強烈に記憶していることがあります。すでに中日の優勝が決まっており、勝敗は関係のないヤクルトの最終戦でヤクルトのペタジーニが42本、巨人の松井が41本とホームラン王を争っていました。松井は敬遠気味の四球で全打席歩かされていました。ペタジーニの第3打席で上原に歩かせるよう指示が出たのです。それまでペタジーニは打ち取っており、上原には20勝がかかっていました。上原は指示に従いましたが、悔しさのためピッチャープレート上で涙を見せました。勝負できなかった悔しさからです。

 それから10年間巨人で活躍、数々の賞を獲得しました。2006年にはWBCで王監督のもと日本代表の初優勝にも貢献しました。

 2008年にはFA権を獲得、それを活かして2009年に大リーグのオリオールズに移籍しました。ところが怪我で移籍当初は思うような活躍はできませんでした。

 上原が大リーグで陽の目を見たのはレッドソックスに移ってからです。特に2013年にはクローザーに指名され、ワールドシリーズで胴上げ投手になるなど大活躍をしました。上原投手も野茂投手と同じく、ストレート(フォーシーム)とフォーク(スプリット)の球種だけですが、この2つの球種で三振の山を築くのは見ていて胸のすく思いでした。

 上原投手長い間ありがとう。これからも日本野球界のため頑張ってください。期待しています。

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2019年5月15日 (水)

「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に(NO.1235)

 2019年5月14日文化庁はユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議(イコモス)が「百舌鳥・古市古墳群」(大阪府)を世界文化遺産に登録するようユネスコに勧告したと発表しました。6月30日からアゼルバイジャンで開かれる世界遺産委員会で正式に登録されます。

 同古墳群は過去3回世界遺産の国内候補を見送られてきただけに、地元では「4度目の正直」と盛り上がっているようです。

 同古墳群は古墳時代最盛期の4世紀後半~5世紀後半、政治の中心地の1部だった大阪平野南部に作られました。

 国内最大規模の前方後円墳の仁徳天皇陵古墳(長さ486メートル、大山古墳)は、私が子供だったころから教科書に載っており、その形や広大さをよく覚えています。

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 世界遺産にはその仁徳天皇陵古墳から長さ20メートル台の方墳まで、規模も墳形も多様な49基の古墳が含まれています。堺市に百舌鳥エリアの23基の古墳、古市エリアの古墳は藤井寺市に16基、羽曳野市に9基、両市にまたがって1基となっています。

 勧告では、同古墳群は「傑出した古墳時代の埋葬の伝統と社会政治的構造を証明している」として世界遺産に登録される価値があると高く評価し、保存や管理体制についても適切であるとしています。

 ただ29基ある陵墓古墳は基本的には研究者も立ち入れません。私は古墳群には行ったことがないので語る資格はありませんが、観光資源として利用するなら、エジプトや中国の例も参考に、ある程度の開示や見学を考えてみることも必要ではないでしょうか。

 これで日本の世界遺産は、文化遺産が19、自然遺産が4となります。

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2019年5月11日 (土)

その後購入したもの、取り換えたもの(NO.1234)

 2019年2月8日の手賀沼通信ブログで、昨年取り換えた器具に続いて、今年取り換えたり修理したものを書きました。昨年は6種類,今年は電気ストーブ2台の購入とガス給湯器の修理でした。

 ここではその後購入したものと修理したものを書いてみます。我孫子市若松に家を新築してから35年が経ちました。器具や道具も何度か取り替えましたが、今回初めて取り換えたものがあります。網戸の一部と妻の部屋のふすまと義父母が住んでいた部屋の障子です。

 網戸は前回取り換えなかった6枚を張りなおしました。

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 ふすまは5枚を張りなおしました。

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 障子は義父母の部屋の10枚と他の部屋の10枚と合わせて20枚を張り替えました。

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 2世帯住宅として建てたため、しかも和室が多いため、取り換えたふすまや障子や網戸は全部ではありません。傷みのひどいものに限りました。

 購入した一番の大物は電気冷蔵庫でした。ここに越してきて3台目です。最近のものは大型化しています。昔の大型と同じものを探すのに苦労しました。ちょうど私が入院中でしたので妻と長男が探し出しました。

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 パソコンは妻と私のものと2台購入しました。妻のPCは壊れたのでヒューレットパッカードのノートにしました。

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 私のPCは来年1月にウィンドウズ7がサービス停止になるため思い切って新しくしたのです。デルのノートです。

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 台所の天井の照明がつかなくなりました。蛍光灯の電球を買ってきて取り替えましたがつきません。本体が壊れたと判断し再度ケーズデンキに行きましたが蛍光灯の本体はもう売っていないとのこと、電球を返却し本体を取り替えました。LEDになり明るくなりました。

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 最後に取り換えたのは車のタイヤです。1年に千キロも乗らないため、ほおっておいたのですが、経年変化でひび割れができていました。

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 モノや道具は取り換えれば新しくなり性能が良くなりますが、人の体は取り換えるわけにはいきません。衰えるばかりです。寂しいですね。

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2019年5月 7日 (火)

10連休が終わった(NO.1233)

 平成31年4月27日から令和元年5月6日までの10連休が終わりました。

 史上初、これからもあるかどうかわからない10連休です。私たち高齢者は毎日が連休なのでどうということはありませんが、サービス業などを除くサラリーマンや小中学生などは10連休を満喫したことと思います。

 その間に元号が平成から令和に代わりました。若者の一部やマスコミなどは大騒ぎでした。連休前半は雨の日や気温の低い日が続きましたが、後半は晴天で温かいというより暑い日が続きました。我が家の玄関のつつじも初日は咲き初めでしたが、連休が終わった今日は満開を過ぎ散り始めていました。

 咲き初めのつつじ。

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 連休が終わって散り始め。

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 庭の花も連休中ににぎやかになりました。

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 手賀沼公園の花も一斉に咲きました。

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2019年5月 2日 (木)

平成から令和へ(NO.1232)

 平成31年(2019年)4月31日平成の天皇陛下が退位されて平成時代が終わり、翌、令和元年5月1日新天皇が即位されて令和の時代が始まりました。

 4月31日は午前中、天皇陛下は皇居・宮中三殿で「退位礼当日賢所大前の儀」などに臨まれました。儀式のテレビ中継はなく、装束「黄櫨6染御袍」に身を包まれた陛下が裾を持つ侍従を従えて回廊を進むところが放映されました。

 午後5時からは皇居松の間で「退位礼正殿の儀」に臨まれ、両陛下、皇族がご出席、安倍首相の「国民代表の辞」に続いて、陛下が「天皇陛下のお言葉」を述べられました。この様子はテレビ中継がありました。

 両陛下は退位されて心から安堵されたのではないでしょうか。本当に素晴らしい両陛下でした。退位されて天皇は上皇、皇后陛下は上皇后になられました。

 5月1日は10時半から皇居・宮殿で即位の儀式「剣璽等継承の儀」が行われ皇太子殿下が第126代の天皇に、皇太子妃の雅子さまが皇后になられました。

 11時12分からは両陛下は、皇族12人とともに「即位後朝見の儀」に臨まれ、新天皇としての「天皇陛下のお言葉」を述べられました。新天皇と新皇后には、新しい世代としての若々しい力と行動力を期待したいと思います。

 私の日記で昭和天皇崩御とそれ以後を追ってみました。

 ・昭和64年(1989年)1月7日「昭和天皇崩御。1日中特別放送(コマーシャルなし)。皇居前記帳13万人」。

 ・1月8日「平成元年今日から」。

 ・平成元年2月24日「大葬の礼。162か国28機関代表来日。ブッシュ、ミッテラン、エジンバラ公など。金曜日だが休日となる」。

 ・平成2年11月12日。「天皇陛下即位の式典。祝賀パレード」と記していました。

 今回の退位と即位の儀式や平成から令和に変わるについての世の中のお祭り騒ぎとは大違いです。今後高齢で退位というこの方式がいい先例になるかもしれません。

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