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2019年10月 7日 (月)

巨星金田正一元投手死去(NO.1276)

 令和元年10月6日、投手として数々の記録を残した剛腕金田正一元投手が敗血症で亡くなりました。86歳でした。

 金田投手は長嶋選手や王選手らとともに私たちの世代を共に生きた英雄でした。

 金田投手は投手として不滅の記録を残しています。通算勝利400勝、通算完投365回、通算投球回数5526と3/2回、連続シーズン20勝以上14年、通算奪三振4490、連続無失点64と3/1回、などです。投手の分業制が増え、完投が少なくなり、シーズン20勝投手がほとんど出なくなった現在、金田投手の記録が破られることはまず考えられません。沢村賞に3回輝き、完全試合とノーヒットノーランも各1回やっています。

 金田投手にはいろいろなエピソードや思い出があります。まず語られるのが長嶋選手が新人として金田投手に対戦した時、4打数4三振で打ち取られたことです。私は当時大学3年生、下宿でラジオを聞いていました。当時下宿の部屋にはテレビなどはありませんでした。巨人ファンだったので悔しい思いをしたのを覚えています。

 王選手には超山なりのスローカーブを投げた記憶もあります。当時のピッチャーは球種が限られていました。金田投手は直球とカーブで400勝を成し遂げたのです。今の投手のようにスライダー、フォーク、カットボール、ツーシームなどは投げませんでした。

 金田投手は1950年愛知県の享栄商業から弱小球団だった国鉄スワローズに入団、15年スワローズで活躍し、1965年巨人に移籍しました。すでに盛りを過ぎており巨人在籍は5年でしたが、巨人での最初の1勝がV9の始まりとなったのです。そして400勝をとった年引退しました。

 金田投手は打者としても1流でした。通算ホームランは38本、そのうち2本は代打ホームランです。代打ホームランの1本は私も覚えています。敬遠されたのは8回、代打で登場し敬遠されたこともありました。

 引退後ロッテの監督を経験しました。私は1975年から78年まで仙台に赴任していましたが、当時仙台の宮城球場はロッテが本拠地を構えていました。そして監督は金田監督でした。何度か家族で宮城球場に応援に行きました。1974年にはロッテが優勝し金田監督が胴上げされましたが、私のいた3年間は優勝できませんでした。

 その後200勝投手と2000本安打の選手からなる名球会を設立しました。プロ野球の発展に尽くした功績は国民栄誉賞ものと考えています。心からお悔やみ申し上げます。

 

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