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2020年8月29日 (土)

安倍首相の功績は長く政権を続けたことか(NO.1376)

 令和2年8月28日安倍首相が首相官邸で記者会見し、持病の潰瘍性大腸炎の悪化を理由に首相を辞任することを表明しました。

 安倍首相は2012年12月の衆議院選挙で民主党に圧勝、政権を奪回しました。そして今月の24日には佐藤栄作元首相を抜いて連続在籍最長の7年8か月となったばかりでした。コロナ禍の中でやめることになるのは他の主要国のリーダーにはいません。病気がよほど悪いのでしょう。

 私も病名は大腸憩室出血で首相とは違いますが、3度入院しています。腸の炎症は日常生活にSTOPがかかります。ある日突然出血し、絶食、止血止めの点滴の毎日でした。首相の潰瘍性大腸炎は大腸の粘膜に炎症が起こってただれ、血便や下痢、腹痛が続く病気で、原因不明の難病です。難しい時期の政治と治療の両立はできません。治療に専念していただき、早期の回復を祈っています。

 安倍首相は政権を安定させたことが第1の功績でしょう。それまでは国のリーダーがくるくる変わっていました。大統領制の国は大統領の任期が決まっています。アメリカは4年または8年、韓国は5年です。中国は10年でしたが習近平がもっと長くしました。ロシアもプーチンが勝手に居座れるようにしました。イギリスは日本と同じ議院内閣制ですが、2大政党があるため比較的長期政権です。日本だけが長続きしない状態でした。

 ただ安倍さんが長続きしたのはほかにリーダーとなるべき人材がいなかったせいもあります。以前は「三角大福中」とか、「安竹宮」などといった、首相候補者が順番を競っていました。ところが近年は安倍1強でした。野党がどうしようもないためもありました。安倍さんにはこれといった功績はありませんが、安定した政治を続けられたのが功績と言えるかもしれません。海外とは韓国を除いて比較的良好な関係を保てました。韓国はだれがなっても向こうがその気にならない限りダメでしょう。

 今はとにかくコロナを封じ込めることが大事です。誰が次に来るかわかりませんが、みんなが力を合わせて政治家が泥をかぶるつもりで、この難局を乗り切ってほしいものです。

 そして次の日本を背負っていける人材を育ててほしいと願っています。

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2020年8月26日 (水)

今年の暑さで思い出すこと(NO.1375)

 今年は異常な暑さが続いています。8月17日には静岡県浜松市で41.1度と2年前に埼玉県熊谷市で出た記録に並びました。私の住んでいる我孫子市でも猛暑日が続きました。8月に入って雨が降ったのは23日に数時間降っただけでまた暑さがぶり返しました。

 熱中症で運ばれる人や亡くなる人の数字が連日報道されています。

 そこで暑さについての記憶をたどってみました。思い出すのは今から60年~70年前の中学生から大学生のころです。

 私が育ったのは愛媛県伊予市です。瀬戸内海に面した人口3万くらいの田舎町でした。大学は東京でしたが、夏には帰省して伊予市で過ごしました。

 小学生から高校の低学年のころまでは夏は毎日海に通っていました。家から水着のままで海に行き何時間か泳いではそのまま家に戻りました。

 夏は暑いのが当たり前、暑さをとことん楽しんでいました。海と言っても海水浴場ではなく、堤防と小さな港があるだけでしたが、そこで泳いでいたのです。いつも仲間と一緒でした。たまには一人で2キロほど離れた海水浴場に泳いで往復しました。

 暑さを感じたのは家にいるときです。町中の商家でしたので、家が隣家とくっついて建っており、風通しは悪く、特に朝夕は海沿いのため、朝凪、夕凪で風は全くなくなりました。当時はエアコンなどはなく、冷蔵庫もありません。

 夜は蚊を防ぐため、蚊帳を吊ります。この蚊帳の中が暑いのです。とてもふとんの上では寝られず、ござを敷いて寝ていました。窓は玄関を除いては開けっ放しでしたが、とにかく暑かったのを覚えています。

 でも熱中症で亡くなったという話は聞いたことはありませんでした。水分を取れと言われたこともなく、のどが渇くと井戸から汲んだ水を飲んでいました。今のようにペットボトルの飲み物はなく、遠足などでは水筒を持っていきましたが、普段は水筒を持つこともありませんでした。

 家の日よけにはすだれを使っていました。家の前の道には時々水を撒いていました。家の中は暑いので、家の前に縁台を出して、蚊取り線香を焚いて涼んでいました。

 そのころは夏の気温は今ほど高くなかったのでしょう。熱中症で死ぬ人が少なかったのは、今ほど長生きではなかったので、高齢者も少なかったためかもしれません。

 日中は今のようになるべく家の中で過ごすよりは、外に出て海につかっていたほうが楽しかったのがそのころでした。

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2020年8月15日 (土)

私の戦後75年と原爆投下(NO.1374)

 令和2年8月15日は「戦後75年」の終戦記念日です。まず感じたことは自分は長生きしたなということです。おそらく5年後の「戦後80年」の記念日を迎えることはないでしょう。そこで75年前のことを振り返ってみたいと思います。

 終戦の年昭和20年(1945年)は8歳、国民学校3年生でした。10年早く生まれていたら戦争を戦っていた年代です。もしかしたら特攻で命をなくしていたかもしれません。10年遅く生まれていたら団塊の世代でした。

 私たちの世代は戦争の苦労とまともに戦ったわけではありませんが、人によっては戦争の被害をまともに受けて人生が変わった世代ではなかったのではないかと思います。空襲で家を焼かれたり、父母や兄弟を戦争で亡くしたり、外地から引き揚げてくる途中で親とはぐれたりした世代です。

 私の場合は恵まれていました。愛媛県の松山市から10キロほど離れた田舎町に住んでいたため空襲には遭いませんでした。学童疎開もありませんでした。漁港や農家も近くでしたので食べ物も粗末でしたが飢えることはありませんでした。

 太平洋戦争が始まった昭和16年12月8日は4歳でしたので記憶にありません。国民学校に入った後、12月8日が「大詔奉戴日」として記念行事が行われたのをかすかに覚えています。戦争を身近に感じたのはアメリカの飛行機が日本に飛んで来るようになって、灯火管制が行われるようになってからです。今でも空襲警報のサイレンの音を覚えています。

 近くの飛行場から飛び立った日本の戦闘機と米軍機が空中戦になり、海に飛行機が落ちたのであとで見に行ったら、落ちたのは日本機で、プロペラが木でできていたのを見たこともありました。松山市が空襲で焼けた時は近くの神社の森に避難しました。調べてみると昭和20年7月26日、広島に原爆が落ちる11日前のことでした。広島に原爆が落とされたのは、友達が「ピカドンが落ちたそうよ」と言っていたので知りました。広島は瀬戸内海を隔てた隣の県です。

 終戦は母からラジオ放送があったと教えられました。私の実の母は昭和19年3月に4人の子供を残して結核でなくなり、翌年の20年3月に新しい母が来てくれたのです。私は母の病気が感染したのか、肺門リンパ腺炎で昭和20年4月から12月まで学校を休んでいました。戦争が終わったのは学校を休んでいる時期でした。私が長男で子供は小さかったので親せきや知り合いに預けられていました。私の戦後75年の記憶は戦争より、母や兄弟の記憶が大きく残っています。

 「戦後75年」は新聞やテレビで色々な角度から取り上げられました。その1つ、今年の8月6日に放送されたNHKスペシャル「証言と映像でつづる原爆投下・全記録」を見ました。

 今まで見たことのないような原爆投下後の悲惨な映像でした。そこには原爆の被害の記録だけでなく、原爆投下に至るまでのアメリカやソ連や日本のやりとりの経緯が記録されていました。そこで見たのは、アメリカの残虐さ、ソ連の狡猾さ、日本軍部のバカさです。

 アメリカは投下後の被害の悲惨さを知りながら、アメリカ人の兵士の死を1人でも早くなくすようアメリカ議会からの抗議を避けるため原爆を2発も日本の都市に投じたのです。原爆の効果を知るため、それまで空襲をしていなかった都市を選びました。

 ソ連は日ソ中立条約がありながら、戦勝国としての利得を得るためスターリンが原爆投下の日に合わせるように日ソ国境から進撃を始めたのです。

 日本軍部は沖縄戦の敗北、原爆の投下の後も、本土決戦を目指してポツダム宣言受諾に反対したのです。

 見終わったあと、やりきれない気持ちになりました。戦争は人の心をこんなにも変えてしまうのでしょうか。

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2020年8月13日 (木)

コロナの日本の感染数の合計は1か月後には中国の合計を上回る(NO.1373)

 令和2年8月13日新型コロナウィルスによる日本国内の感染数が5万人を超え、5万575人となりました。これはクルーズ船や空港での感染者を除いた数字です。

 世界では2000万人を超え、アメリカでは500万人を、ブラジルでは300万人を超え、事態が好転する兆しは見えません。

 日本ではこの30日間で2万8890人が感染しました。直近の15日間では1万9043人です。最初に感染が蔓延した中国は8月13日現在8万4731人ですが、ここ30日間の感染は、1129人、直近の15日間は772人と収まりつつあります。

 15日間の増加傾向が今後続くと仮定すると、15日後ではまだ中国が多いですが、30日後には日本が8万8661人、中国が8万6275人と日本の感染者数の合計が中国の合計を上回ることになります。国の人口は中国が約日本の10倍ですから、人口10万人あたりの感染者数は、日本が中国の10倍以上ということになります。

 日本の感染者数は、30日間、15日間とも、感染者合計30万人を超えるイギリスや25万人を超えるイタリアの感染者を上回っています。日本は感染をコントロールできず、第2波が来ていると言えます。政府の無為無策に怒りと無力感を感じています。

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2020年8月10日 (月)

人口減と東京一極集中の行きつく先は?(NO.1372)

 令和2年8月5日総務省は住民基本台帳に基づく今年1月1日現在の日本の人口を発表しました。

 日本人の人口1億2427人、人口減50万5046人で、人口減は初の50万人超11年連続の減少となっていました。

 その他の数字も昨年12月に厚生労働省が発表した内容とほとんど変わりません。2つの省が同じようなことをやっている効率の悪さと無駄がある割には、コロナで国民に10万円を配布するときに見せたシステムとデータベースのお粗末さを改めて感じさせました。

 でも今日はそのことを話題にするのではありません。少子高齢化も今までに何度も書いてきたのでそれも省きましょう。

 ここで問題にしたいのは東京一極集中です。

 47都道府県のうち人口が増えたのは、東京都、神奈川県、沖縄県の3つだけであとは減少しています。東京都は6万8547人の増加で、最も減少した北海道と兵庫県の減少数を合わせたくらいの数になっています。

 全国の自治体のうち出生数が10人未満の自治体は96町村に上ります。この傾向が進めば全国で廃村や廃町になるところが続出してきます。生徒数の減少で廃校になった学校は数多くありますが、今までは、人がいなくなった町や村は、採れなくなった鉱山や伐採が禁止された山などにある場所でした。今後は人口の自然減でなくなる自治体が出てくるのです。美しい日本が荒れてくるのは悲しいことです。

 日本は国会議員は両議院とも人口割の選挙区から選ばれるという珍しい国です。参議院議員が人口に比例した選挙区から選ばれるのはほかにはイタリアくらいです。選挙をやるたび憲法違反で訴えられるでしょう。日本はそれを正すため、議員定数を減らすのではなく増やしています。人口減少に対して議員増加というバカなことをやっています。

 一極集中は農業や漁業を衰退させます。地方の職場がなくなり、若者はますます首都圏に集まります。教育の集中、雇用の集中につながります。

 一時話題になっていた首都移転も現実問題になってくるかもしれません。私たち高齢者世代は消えゆきますが、若い世代には問題解決に頑張ってもらうしかありません。

 

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2020年8月 9日 (日)

読書の終活「功名が辻」を読み終え「北斗の人」へ(NO.1371)

 令和2年8月8日手元にある司馬遼太郎の小説「功名が辻」の文庫本4巻を読み終えました。これで7作品を読み終えました。

 「功名が辻」は戦国時代の山内一豊とその妻千代を主人公にした痛快な作品です。司馬遼太郎の小説は「竜馬が行く」のように気軽に読める痛快な小説と、「坂の上の雲」のようにちょっと身構えて読むドキュメンタリー的な小説があります。「功名が辻」は前者に属する小説です。

 読んでいて司馬氏は一豊よりも千代を描きたかったのではないかと感じました。司馬遼太郎の数多い作品の中で女性が主人公なのはこれ一つです。それほど能力のない山内一豊が、信長、秀吉、家康の3代の英雄に仕えて、途中挫折することなく、最後は24万石の高知城主となったのは、聡明で先を見通せる妻「千代」のおかげだったことを描いています。楽しく読める作品でした。

 8作品目は1巻だけの「北斗の人」です。1998年に購入した文庫本です。幕末の剣客で北辰一刀流の千葉道場を開いた千葉周作が主人公です。

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2020年8月 4日 (火)

がんは見つからなかった(NO.1370)

 令和2年7月30日慈恵医大柏病院に、7月22日に行った喉頭白板症の手術結果を聞きに妻の運転で行きました。

 耳鼻咽喉科の中山先生の診察です。2時半の予約で2時20分に受付をしましたが、4時10分前になっても呼ばれません。受付に確認したら、ミスで受け付けられていませんでした。

 すぐに呼ばれて、がんは見つからなかったと聞きました。ホッとしました。「患部はきれいに取れました。変性していたのでほおっておくとがんになる可能性があった」とのことでした。1月14日以来妻と2人でがんセンターと慈恵医大柏病院にせっせと通ったのが報われました。

 次は1か月後に来てくださいと言われました。経過を見るのだと思います。帰宅後早速心配してくれていた子供たちや兄弟たちに知らせました。そして11日間禁酒していた、ビールで祝杯を挙げました。

 ブログに書くのが遅くなりました。うれしかったのでつい忘れたためです。

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2020年8月 1日 (土)

台湾の李登輝と司馬遼太郎(NO.1369)

 2020年7月30日台湾の李登輝元総統が死去しました。97歳でした。

 読売新聞によると「李登輝元総統は民主化を通じて人々に『台湾人』意識を根付かせ、中国から自立した台湾の土台を築いた。第2次世界大戦終結まで、日本統治下の台湾で日本人として生きた世代の代表的存在でもあった。

 李氏は1923年新竹市で生まれた。京都帝国大学農学部に在学中、学徒出陣で陸軍に入った。45年少尉として日本で終戦を迎え、国民党独裁下の台湾に戻った。

 台湾大を卒業後、農業経済専門家としての活躍が認められ、台湾市長、台湾省主席などを歴任した。副総統だった88年蒋経国総統が死去し、台湾出身者として初めて総統に就任した。」とあります。

 司馬遼太郎は「街道をゆく40 台湾紀行」を書きました。出版されたのは1994年11月ですが、記事は1993年1月と4月に訪問した内容です。司馬遼太郎は李登輝と同い年、訪問の都度会って意気投合しています。李登輝は当時台湾の総統でした。

 ここでちょっと歴史をさかのぼります。戦後台湾には共産党に敗れた中華民国の蒋介石がやってきて国民党党首として国を治めました。蒋介石と一緒に台湾にやってきた「外省人」が、元から台湾にいる「本省人(本島人)」を支配したのです。わずか10数%の外省人が支配階級となって、好き放題の政治を行いました。外省人の国民党は当然のことながら反共、反中国でした。今の台湾は国民党が中国のほうを向いていますが、当時は逆でした。

 1971年中華民国は国連から追放され脱退します。1975年に蒋介石が死去、息子の蒋経国が総統を受け継ぎますが、88年死去、副総統の李登輝が後を継いだのです。李登輝は「本省人」ですが国民党だったのです。そこから政治改革が始まります。

 ここからは司馬遼太郎の「台湾紀行」から借りてきた文章です。

 「が、この人は総統になってしまった。61歳のときに、蒋経国晩年の『台湾化政策』によって副総統に指名され、農業経済という学問の世界から、政治にひき入れられたのである。望んだことではなかった。」

 「1990年、国民大会で第8代総統に選出され、その地位は正当なものとなった。この人が2年後の1992年、年頭の祝辞で、『最優先課題として、憲法を改革したい』と演説した。」

 「自分は、とこの人は言う。初等教育以来、先生たちから日本人はいかに素晴らしい心を持っているかという教育を受け続けたんです。たしかに、そういわれてみると、李登輝さんは日本人の理想像に近い人かとも思えてくる。」

 「2人のインタビューで司馬氏の言葉-政治学の学者は李登輝さんをテーマにするといいですね。つまり李登輝さんがおっしゃったように派閥も持たない、金もない、欲もない、ただひとり李登輝博士がいるだけです。この人があと2年半務めていい業績を残したら、世界の政治学のいいテーマになるでしょう。やはり珍しい存在です。」

 司馬遼太郎氏は李登輝さんに会って、その人柄に魅了され、すっかり台湾にはまってしまったようです。

 心からご冥福をお祈りします。





















 

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