住んだ場所の思い出-その1 愛媛県伊予市(NO.1391)
83年間の思い出をいろいろなシリーズでまとめようと思っています。まずは住んだところ、過ごした場所からです。
私は1937年(昭和12年)愛媛県の松山市で生まれました。そして1歳の誕生日を迎える前に、松山市から10キロほど西の郡中町に引っ越しました。父の姉夫婦がやっていたの荒物屋を引き継ぐことになったからです。その店は郡中町では一番賑やかなところにありました。当時の荒物屋は竹製品、木製品、わら製品、ロープ類、などの日用品を販売する店でした。今はほとんどがプラスチックなどに変わっている商品です。隣は金物屋で鉄やブリキなどの商品を売っている店でした。そこで18歳まで過ごしました。
郡中町は松山平野の西の端、前は瀬戸内海の伊予灘、後ろはあまり高くない谷上山があり、静かな田舎町です。名産品はヤマキやマルトモの花かつおが有名です。
物心ついたときは世の中は大東亜戦争(太平洋戦争)の真っ最中でした。私は4人兄弟の長男、1歳下と5歳下の弟、3歳下の妹がいました。そのころは4人ぐらい子供がいるのは普通だったと思います。
1941年12月8日開戦、1943年に国民学校に入学しました。その前の年には幼稚園に通っていた記憶があります。戦争の記憶は、ラジオの大本営発表、灯火管制、芋と麦飯、父が防空壕を掘ったこと、学校の運動場が芋畑になったことなどです。松山は空襲で焼けましたが、郡中は特に被害はありませんでした。
1944年に母が肺結核でなくなり、翌年には新しい母が来てくれました。私は肺門リンパ腺炎で1945年4月から学校を休んでいました。そして間もなく終戦、郡中の2つの国民学校は、小学校と中学校に変わり、3学期から小学校に復帰しました。3年生でした。
国民学校、小学校、中学校の2年までは勉強した記憶がありません。健康を取り戻してからは遊んだ記憶ばかりです。海のそばだったので、泳いだり砂浜で野球のまねごとをしたりしていました。
高校は松山南高校でした。学区制がはっきりしていて、郡中は普通校は南高と決まっていました。高校受験はほとんどの生徒が希望校に入れた感じであまり苦労した記憶はありません。
大学受験が大変でした。高校3年間は高校生活を楽しんだというより、大学受験の準備のためという感じでした。高校3年の1月、郡中町は近くの3つの村と合併して伊予市となりました。
そして1955年大学受験に失敗浪人となりました。当時は地元の大学は別として、都会の大学は1年浪人が当たり前、東京で浪人生活を送るため伊予市を離れました。
それ以後は故郷を離れて過ごしましたが、歳を重ねると一番心に残っているのは故郷の風景です。しかし今はその風景が変わりました。荒物屋は妹が守って店を続けていましたが、昨年5月建物が老朽化して取り壊すことになったとき廃業しました。妹も80近くなって無理がきかなくなっていました。実家の周りの伊予市の商店街も他の街でよくみられるように廃業する店が増えシャッター通りになってきました。
最近は思い出に残っている昔の町の面影を追っかけています。
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