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2020年11月27日 (金)

今年の日本シリーズは野球ファンをがっかりさせた(NO.1405)

 令和2年11月25日巨人とソフトバンクとで争われた日本シリーズはソフトバンクの4連勝で幕を閉じました。昨年から連続するとソフトバンクの8連勝です。

 今年の4連戦で巨人の取った点数は合計4点しかなく、ソフトバンクの26点とは大違いです。巨人のふがいなさは巨人ファンだけでなく、野球ファンや勝ったソフトバンクファンさえもがっかりさせたことと思います。私は時々得点経過を見るだけで試合は全く見ませんでした。

 巨人はペナントレース終盤から勝てなくなっていました。原因は打てない、守れないためでした。満塁になるまでは攻めるのですが、バッターはそこで三振かダブルプレー打しか打てませんでした。ピッチャーは四球を出しまくっていました。

 もしパリーグのようにクライマックスシリーズがあったらおそらく巨人は日本シリーズに出られなかったと思います。セリーグで優勝できたのは前半戦で大差をつけたからです。終盤の戦いを見た時、これでは間違いなくソフトバンクに勝てないと確信していました。

 巨人の弱さはここというときの精神力の弱さと、本当の技術というか実力がないことだと思います。猛練習をするしかありません。王や長嶋や松井にならって猛練習をする必要があります。ピッチャーは完投能力を付けることです。コロナに関係なく、長嶋監督時代の地獄の伊藤キャンプを再現してほしいと思います。

 私の忘れられない日本シリーズがあります。1983年西武対巨人の対戦で、西武が4勝3敗で勝ったシリーズです。西武は広岡監督、巨人は藤田監督でした。

 Wikipediaには次のように出ていました。

 「西武ライオンズと読売ジャイアンツの激突となったこの日本シリーズは、サヨナラゲームが3試合、第3戦以降第7戦まで先制したチームが負けるなど、逆転に次ぐ逆転の連続で延長戦もあり屈指の名勝負となった。視聴率は連日40パーセントを集めた。

 あまりの激闘ぶりに、監督、選手たちは『ここまでやればもうどちらが勝ってもいい』(西武・広岡監督)『第6戦を終えたあたりで、正直言って勝ち負けはもうどうでもいいやという気分になったよ』(巨人・中畑清選手)という境地になったと振り返った」

 私も同じ気分でした。応援していた巨人が負けましたが、本当に楽しめた日本シリーズでした。今から37年前のことでした。それ以後こんなに素晴らしい日本シリーズにはお目にかかっていません。

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2020年11月25日 (水)

住んだ場所の思い出-その6 千葉県東葛飾郡我孫子町(NO.1404)

 1962年(昭和37年)4月小平町から千葉県東葛飾郡我孫子町の三井生命独身寮に引っ越しました。

 25歳のときです。この年から三井生命でも内勤社員のため何ヵ所か独身寮を設けたのです。我孫子寮は木造2階建てのかなり年季の入った建物でした。

 入居者は60年、59年、58年入社の8名でした。その後入る独身寮は2人1部屋でしたが、ここは1人1部屋でプライバシーを気にする必要はありませんでした。逆にお互いの部屋で一緒に飲んだり、マージャンをしたり、初めて寮生活の楽しさを満喫しました。寮を出た後も同じ釜の飯を食ったということで親しく付き合いました。

 当時の我孫子駅は常磐線の中距離電車や急行も止まるほどの駅で駅弁も売られていました。今は千代田線が乗り入れる各駅停車の路線がありますが、当時は今の常磐線しかなく、取手発の電車は各駅に止まっていました。1日に1往復だけ東京から成田までSLが運行されており、東京駅を夕方に出るため通勤の帰りによく利用しました。

 上野直通の早朝の成田線は担ぎ屋のおばさんたちが占める専用車両がありました。土浦や水戸方面まで行く中距離電車は上野駅ではラッシュアワーには窓から乗り込む人も多く、初めて都心に通う私たちを驚かせました。

 我孫子寮には2年足らずしかいませんでしたが、強烈なインパクトを感じる出来事がありました。

 我孫子寮に引っ越した翌月の5月3日、常磐線の三河島駅付近で貨物列車と上下常磐線電車が衝突脱線する事故があり死者160名、負傷者296名を出しました。知っている限りの最大の列車事故でした。

 大火事にも遭いました。夜中に寮の風呂場から出火し、風呂場と台所が焼けたのです。火事だという声に起こされて、身の回りの物を担いで飛び出したのを覚えています。幸いなことに寮生の部屋まで延焼することはありませんでしたが、しばらく不便な生活を強いられました。

 また電車をよく乗り越しました。最悪の乗り越しは、クリスマスイブに都内で飲んだ帰りに中距離電車に乗ったのが失敗、我孫子駅に気づかず終点の土浦まで乗り越しました。同じような酔っ払いが数人いて一緒に土浦駅で夜を明かしました。親切な駅員の人が豆炭入りのコンロを貸してくれました。

 思い出のこもった我孫子寮は家族寮に建て直すことになり、東横線の学芸大学駅の寮に引っ越しました。

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2020年11月21日 (土)

見応えのある山下清展(NO.1403)

 令和2年11月21日、我孫子市生涯学習センターアビスタへ山下清展を見に行ってきました。

 これは我孫子市市制施行50周年記念事業の目玉と言ってもいい展覧会です。今日から12月20日までアビスタで午前10時から午後4時30分の間開催されます。会期中は無休、入場料は700円、小学生~高校生は300円です。

 10時半ころ着いたのでゆっくり見ることができました。山下清は我孫子と縁があります。いただいたチラシに次のように書かれていました。

 「放浪を始めた清は、働き口を探して松戸や柏を転々としましたが、人の紹介で駅弁販売をしていた我孫子の弥生軒(現在我孫子駅ホームにあるそば店)に住み込んで働き始めました。弥生軒では、野菜の下準備や弁当運びのほかにも、アイスクリームを食べるさじをふだに貼ったり、クリやみかんを売ったりする仕事をしました。画家として有名になってから、当時の感謝の気持ちを込めてお弁当の包み紙のために絵と文章を書きました」

 展覧会の絵の中に手賀沼公園の絵もありました。この展覧会では134枚の貼絵、鉛筆画、ペン画、油彩、水彩画、版画、石版画と6個の陶器、5個の遺品が展示されています。どの絵も素晴らしい作品でした。

 また山下清の生涯の物語が、いくつものテーマに分かれてわかりやすく掲示されていました。展示は2階のフロアと全室を使っています。そのためこの期間はこれらの部屋を使っていたイベントはすべて中止となりました。

 この山下清展は大変見ごたえのある展示会でした。またみられる機会は少ないと思いますので、近くの方はぜひご覧いただくようお勧めします。

 2階は撮影禁止です。1階の入口と写真だけ撮影してきました。

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2020年11月20日 (金)

「プリニウスの動物たち」の写真を撮る(NO.1402)

 令和2年11月19日、我孫子市市制移行50周年記念事業の1つ「我孫子市動物彫刻展 島田忠幸 プリニウスの動物たち」の写真を撮りに行きました。19日が最終日でした。

 我孫子市は1970年(昭和45年)に我孫子町から我孫子市になりました。それから50年たち、今年いろいろな記念事業が行われています。

 「プリニウスの動物たち」とは初めて聞く言葉だったので、ネットで調べてみました。プリニウスは古代ローマの博物学者で、自然界を網羅する百科事典「博物誌」を書いています。彫刻家島田忠幸氏はそれを参考に動物たちを作品にしたのではないかと思われます。我孫子市の何カ所かに置かれていました。

 

「動物彫刻制作のマケット」 手賀沼公園

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「存在の不条理 イノシシ」 楚人冠庭園

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「草原の貴婦人 シマウマ」 アビシルベ

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「カモノハシ」 千葉銀行

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「タコ壺の兵士 プレーリードッグ」 千葉銀行

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「恋するゴリラ」 市役所

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「見上げればアフリカ キリン」 手賀大橋のたもと

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「追うプリ二ウス 逃げるプリニウス」 親水広場

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2020年11月18日 (水)

住んだ場所の思い出ーその5 東京都北多摩郡小平町(NO.1401) 

1956年(昭和31年)5月、富士見台から東京都北多摩郡小平町に引っ越しました。小平町は1962年小平市になっています。

 同じ松山南高から一橋大学に入学した白方遠洋君が見つけて住んでいた下宿にお世話になることにしたのです。大学の小平分校までは20分とかかりません。下宿から歩いて10分の西武多摩湖線の青梅街道駅から2つ目の駅が一橋大学駅でした。

 下宿は新築で学生のために3畳の部屋が3部屋用意されていました。堀キヨさんという私の母と同じ年代の女性が下宿のあるじで、2人のおばあさんと暮らしていました。堀さん宅は家の南には広い庭とにわとり小屋があり、北側には広い畑を持っていました。家の周りは畑ばかりで、冬には水道が凍り付き、冬休みが終わって帰って来た時は部屋中に土ぼこりがたまっているという状態でした。

 堀さんは初めて下宿屋を始めたため勝手がわからず、最初は自分の部屋で私たち2人の夕食を食べさせるなど戸惑っていました。そのうちこれはおかしいと感じたらしく、台所のそばの2畳の部屋で堀さんと一緒に夕食をとるようになりました。

 下宿からは青梅街道まで幅1メートルほどの土の道を1分ほど歩き、青梅街道にでて駅まで歩きました。土の道は冬には霜が立ち、霜解けになると靴が土まみれになりました。青梅街道は道幅が広く、中央部は舗装されていましたが両端は砂利が敷かれていました。道の両側は大きな木がうっそうと茂っていました。その後何十年かたって訪ねた時、木々は伐採され歩道を備えた立派な街道に生まれ変わっていました。

 大学は最初の2年間は小平分校で教養課程を学び、あとの2年間は国立キャンパスで学びました。国立までは多摩湖線で国分寺に出て、中央線を1駅国立まで通いました。小平分校は1996年に廃止されました。当時の多摩湖線は電車のドアは自動ではなく手で開けました。東京にこんな不便な電車があるのに驚きました。中央線の西国分寺駅はまだありませんでした。多摩湖線の一橋大学駅と小平学園駅は300メートルしか離れていませんでした。のちに両方の駅がなくなり、その真ん中に一橋学園というおかしな名前の駅ができました。

 堀さんの下宿には4年間お世話になりました。2年目からは浪人の弟新田慎二が加わり、弟の早稲田大学2年が終わるまで白方君と3人でお世話になりました。

 堀さんとは下宿の主と下宿人という関係ではなく、東京のお母さんとその子供たちという関係に変わりました。そして堀さんが74歳でなくなるまで、我が家も弟一家も家族ぐるみのお付き合いをすることになりました。堀さんは私たち一家にとって忘れられない人となっています。

 堀さん宅に下宿したのは卒業までの4年間だけではありませんでした。私と白方君が大学を卒業したとき、3人とも堀さん宅も卒業し、前回述べたように私と弟は富士見台に引っ越しました。富士見台で1年過ごしましたが、大学4年になった弟は堀さん宅で暮らした楽しさが忘れられず、堀さんと話し合ってもう1年間お世話になる了解を得たのです。私も通勤には不便になりますが喜んで一緒に移りました。堀さんもまた家族が増えたかのように喜んでくれました。

 そして弟が大学を卒業し大正海上福岡支店に勤務することになって堀さん宅を出たのです。私は三井生命我孫子寮に引っ越しました。

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2020年11月14日 (土)

住んだ場所の思い出-その4 東京都練馬区富士見台(NO.1400)

 1955年(昭和30年)9月東京都久留米村から同じ西武池袋線の富士見台の2食付きの下宿に引っ越しました。3月の大学受験のときにお世話になった叔父一家が富士見台にできた公団住宅に抽選で当たったため引っ越していました。その叔父の家族は叔母と祖母の3人でした。その世話で近くの下宿が見つかったのです。

 当時は自宅の余った部屋を貸して朝夕の食事付きで下宿屋を始めるお宅が多かったのです。下宿代は食費込みで6000円か7000円だったと思います。盛そば25円、ラーメン40円、コッペパン10円、牛乳1ビン10円の時代でした。

 松山南高で同級生だった竹田祥一君と一緒の部屋で下宿しました。二人なら部屋代が安くなるためです。竹田君もやはり東京での大学受験に失敗して浪人生活でした。余談ですが竹田君はその後中央大学に入学、松山に帰ってガソリンスタンドを経営しながら愛媛県の県会議員、県会議長、愛媛県の自民党幹事長を務めました。

 私は富士見台から高田馬場の予備校に通いました。当時の富士見台も周りは畑が多く、地名通り富士山が望めました。浪人生活は味気ないものでしたが、2人住まいなのでお互い励まし合いながら勉強に没頭したのを覚えています。叔父宅が近くだったので、気晴らしに話に行ったり、食事をごちそうになるのが何よりの楽しみでした。そこでの浪人生活は半年余りでした。

 翌1956年(昭和31年)4月に一橋大学に合格し、しばらくそこから通いましたが、バスと電車を2つ乗り継いで通うのが大変なので、大学近くの小平の下宿に引っ越しました。ところが4年後にまた富士見台に戻ってきたのです。

 1960年(昭和35年)大学を卒業、三井生命に就職しました。就職先は日本橋の三越本店の隣です。今度は小平から通うのが大変なので、富士見台の以前と違うお宅に下宿しました。浪人生活の弟と一緒に同じ部屋に住みました。

 1年ほどそこから通ったのですが、弟がどうしても小平の下宿に戻りたいというので一緒に戻ることにしました。弟がわざわざ通学に遠くなる小平の下宿に戻りたいと言った秘密は、次の「住んだ場所の思い出」で明かしたいと思います。

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2020年11月11日 (水)

コロナは第3波の真っただ中だ(NO.1399)

 2020年11月10日ついにコロナのアメリカの感染者が1千万人を超えました。この6日間の1日あたりの感染者は連日10万人を超えています。死者は死者は23万人を超えています。

 日本では11日現在感染者は10万9170人、ここ6日間で6454人なので明日には11万人を超えるでしょう。

 ヨーロッパも急増しています。フランスは180万人を超えて、ロシアを抜き世界第4位となりました。人口が6千6百万人なので驚くべき感染数です。スペイン140万人、イギリス120万人、イタリア96万人とヨーロッパの感染は一段と広がっています。これらを見るとコロナの第3波が来たことは明らかです。

 今までの感染防御策では防げないのではないでしょうか。東京、大阪、北海道、愛知、神奈川、沖縄など独自の対策が必要かもしれません。特にクラスターを防ぐことが第1です。

 こんな例がありました。私の妹は最近夫を亡くしました。子供が3人いて1人は東京に住んでいます。その東京の子供が葬儀で帰省して介護施設勤務の弟に会うと、その弟は2週間介護施設に勤務できないという決まりになっていました。仕方なく2人は会うことができませんでした。

 これは愛媛県の場合です。愛媛県はコロナを抑え込んでいます。クラスターを防ぐ1つの例かもしれません。

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2020年11月 9日 (月)

坂本勇人選手2000本安打達成おめでとう(NO.1398)

 令和2年11月8日巨人の坂本勇人選手がヤクルト戦で2000本安打を達成しました。

 前日の試合で1999本目を打っていたので、テレビで最初から見ていました。1回の裏3番坂本は2塁打を放ち見事2000本安打となりました。おめでとう坂本選手!と思わず拍手を送りました。

 野手の2000本安打は投手の200勝と並んで名球会入りの勲章となります。

 2000本安打を初めて達成したのは巨人の川上哲治でした。それから数えて坂本は53人目となります。坂本は31歳10か月で、2000本安打達成者の中では、31歳7か月で達成した東京オリオンズ(現ロッテマリーンズ)の榎本喜八に次いで、2番目の若さです。

 巨人在籍時に2000本安打を達成した打者は、川上哲治、長嶋茂雄、王貞治、柴田勲、落合博満、清原和博、小笠原道大、阿部慎之助、がいますが坂本選手はそれに次いで9人目となります。

 巨人で一番安打数の多いのは王貞治の2786本、日本のプロ野球では張本勲の3085本です。坂本が大きな怪我なく試合に出続けることができれば、おそらく王と張本の記録を抜くことになるのではないでしょうか。

 これからも応援し続けるつもりです。

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2020年11月 8日 (日)

トランプ氏は何かに似ている(NO.1397)

 2020年11月3日に行われたアメリカ大統領選挙は7日になっても決着がついていません。

 民主党のバイデン氏が当選確実と報じられていますが、トランプ氏は法廷闘争で争う模様です。アメリカの大統領選挙は負けたほうが敗北を認め、勝ったほうにエールを送ることで決着がつきますが、トランプ氏は開票が終わってもその気はないと報じられています。

 今回の選挙は今後のアメリカ国内や世界のリーダーとしてのアメリカをどうしていくかという政策論争ではなく、どうしたら自分が勝てるかというトランプ氏の思いから始まったように思います。そのためにはアメリカ国内の分断や新型コロナウィルスへの対策などはお構いなしでした。今の両派のデモ合戦や1日12万人を超えるコロナの新規感染者を産む事態につながっています。

 たまたまですが選挙に並行して文春文庫の「反日種族主義と日本人」を読んでいました。著者は産経新聞編集委員の久保田るり子氏です。久保田氏は李栄薫著「反日種族主義」の日本での出版を実現させた人です。今韓国で進んでいる反日主義と、慰安婦問題、徴用工問題、文在寅政権の目指すところをわかりやすく解説しています。

 そこで偶然にもトランプ氏の選挙の戦い方と結果についての向き合い方が、韓国の反日主義とそっくりだということに気が付きました。韓国も日本に対する訴訟を乱発しています。国民を間違った教育や反日をあおるやり方に終始しています。

 私は51年前の1969年に仕事で韓国に行って以来、韓国には親しみを感じていました。その後1971年、2000年と韓国に行っていますが当時は今のような反日感情は感じられませんでした。

 今の反日はわざと作られた反日です。アメリカの今の現状はトランプ氏によって作られた事態です。両方がよく似ているなと感じました。

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2020年11月 6日 (金)

住んだ場所の思い出-その3 東京都北多摩郡久留米村(NO.1396)

 1935年(昭和30年)大学受験に失敗したあと愛媛県郡中町に帰って浪人生活を過ごしていましたが、7月に東京の予備校に通うため上京しました。

 東京で最初に住んだのが東京都北多摩郡久留米村にあった常盤寮です。久留米村は翌年久留米町になり1970年には東久留米市となりました。常盤寮は愛媛県出身者の大学生のための学生寮です。大学生が夏休みで帰省している間先輩の部屋に一時的に予備校生が住めることになったのです。

 常盤寮は西武池袋線の東久留米駅から徒歩10分くらいのところにありました。駅からの道は舗装されれおらず石ころだらけでした。寮の周りは畑が多く、スイカ畑にはちょうどスイカが実っていました。農家から3個10円で買って食べたのを覚えています。

 当時は食糧事情が悪く、寮のご飯は麦飯でした。そこから高田馬場にあった予備校一橋学院に通いました。途中池袋で山手線に乗り換えます。池袋や高田馬場の都会の風景と久留米村の田舎の風景のギャップに驚きました。

 わずか1月あまりの仮住まいでしたが、初めての東京生活としては大変印象深いものでした。

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2020年11月 4日 (水)

住んだ場所の思い出ーその2 横浜市磯子区根岸(NO.1395)

 1955年(昭和30年)高校3年の3月大学受験のため叔父の家に約1か月間やっかいになりました。叔父の家は横浜市磯子区根岸にありました。美空ひばりの家がもう少し先にあると聞きました。

 当時の大学受験は全国の国立大学を1期校と2期校にわけ、1期校は3月初旬、2期校は3月下旬に入学試験が行われました。2期校の試験は1期校の合格発表の後行われたので、国立大学2校を受験できるチャンスがありました。叔父が両方の試験が終わるまで泊めてくれたのです。

 わずか1か月しかいなかっただけですし、しかも受験という大仕事があったため横浜市内を歩き回ることはできませんでしたが、横浜という都市の魅力に取りつかれた記憶が今も残っています。それまで都会というと松山市しか知りませんでした。横浜は大都会でしたし、何か異国情緒が感じられる都市でした。東京を知るのはその半年後のことです。

 当時の京浜東北線は桜木町駅が始発駅であり終着駅でした。今の根岸線はありませんでした。横浜駅は東海道線の通過駅という感じで、横浜駅周辺はにぎわっていなかったように思います。市の中心は米軍に接収されていて立ち入れなかったように記憶しています。

 叔父の家から少し歩くと磯の香りのする海岸に行くことができました。受験勉強に疲れると海を眺めに行きました。今は広大な埋め立て地に石油タンクが立ち並んでいて、海ははるか遠くになっているようです。

 桜木町駅に行くには市内電車を利用しました。2系統あったように思います。途中当時横浜市一番の繁華街伊勢佐木町を通るのが楽しみでした。叔父や叔母から元町や中華街やいくつかの公園などの話は聞きましたが、行くチャンスはなく、次の機会に行ってみようと思いました。

 大学は1期校は一橋大学、2期校は東京外国語大学を受けましたが、落第し浪人生活になりました。横浜はそれ以後は住む機会はありませんでした。横浜市はその後大変貌し、さらにワクワクさせる憧れの都市となりましたが、昔の横浜もなつかしい思い出深い都市でした。

 

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2020年11月 1日 (日)

日本国内のコロナ感染者が10万人を超える。アメリカ、ヨーロッパは危機的拡大(NO.1394)

 2020年10月31日、コロナの日本国内(クルーズ船、空港検疫などを除く)の感染者の累計が10万人を超えました。

 感染者はじりじりと増え続けています。31日の全国の感染者は868人、8月27日以来の高い数字を示しました。10月31日までの30日間の感染者は1万6372人で、それ以前の30日間の数字1万4427人を超えています。

 今後、GO TO トラベルの普及やイベントなどの制限人数がゆるむことから、感染者数はさらに増加することが考えられます。官民一体でコロナ感染の抑止を図ることが何よりの急務なのではないでしょうか。

 世界に目を向けると事態はさらに深刻です。世界の数字を日本時間10月31日午後10時現在で見ていきましょう。

 アメリカの感染者は大統領選挙が近づくにつれて増え続け、31日は過去最大の1日あたり10万916人となり、累計は900万人を超えて904万7792人になりました。トランプが選挙運動に専念し、コロナ抑制に何も手を打たなかったことが数字に出ています。

 ヨーロッパも危機的拡大です。フランスは累計約133万人、31日の増加約4万9千人、スペイン約119万と約2万5千、イギリス約99万と約2万4千、イタリア約65万と約3万となっています。そのため国によって外出禁止とか外出制限が、時間や場所を決めて行われ始めています。この4国がワースト4ですが、他の国でも感染と制限が及んでいます。

 今後どうなるか誰にも予測できないのではないでしょうか。

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