住んだ場所の思い出-その6 千葉県東葛飾郡我孫子町(NO.1404)
1962年(昭和37年)4月小平町から千葉県東葛飾郡我孫子町の三井生命独身寮に引っ越しました。
25歳のときです。この年から三井生命でも内勤社員のため何ヵ所か独身寮を設けたのです。我孫子寮は木造2階建てのかなり年季の入った建物でした。
入居者は60年、59年、58年入社の8名でした。その後入る独身寮は2人1部屋でしたが、ここは1人1部屋でプライバシーを気にする必要はありませんでした。逆にお互いの部屋で一緒に飲んだり、マージャンをしたり、初めて寮生活の楽しさを満喫しました。寮を出た後も同じ釜の飯を食ったということで親しく付き合いました。
当時の我孫子駅は常磐線の中距離電車や急行も止まるほどの駅で駅弁も売られていました。今は千代田線が乗り入れる各駅停車の路線がありますが、当時は今の常磐線しかなく、取手発の電車は各駅に止まっていました。1日に1往復だけ東京から成田までSLが運行されており、東京駅を夕方に出るため通勤の帰りによく利用しました。
上野直通の早朝の成田線は担ぎ屋のおばさんたちが占める専用車両がありました。土浦や水戸方面まで行く中距離電車は上野駅ではラッシュアワーには窓から乗り込む人も多く、初めて都心に通う私たちを驚かせました。
我孫子寮には2年足らずしかいませんでしたが、強烈なインパクトを感じる出来事がありました。
我孫子寮に引っ越した翌月の5月3日、常磐線の三河島駅付近で貨物列車と上下常磐線電車が衝突脱線する事故があり死者160名、負傷者296名を出しました。知っている限りの最大の列車事故でした。
大火事にも遭いました。夜中に寮の風呂場から出火し、風呂場と台所が焼けたのです。火事だという声に起こされて、身の回りの物を担いで飛び出したのを覚えています。幸いなことに寮生の部屋まで延焼することはありませんでしたが、しばらく不便な生活を強いられました。
また電車をよく乗り越しました。最悪の乗り越しは、クリスマスイブに都内で飲んだ帰りに中距離電車に乗ったのが失敗、我孫子駅に気づかず終点の土浦まで乗り越しました。同じような酔っ払いが数人いて一緒に土浦駅で夜を明かしました。親切な駅員の人が豆炭入りのコンロを貸してくれました。
思い出のこもった我孫子寮は家族寮に建て直すことになり、東横線の学芸大学駅の寮に引っ越しました。
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