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2020年11月 4日 (水)

住んだ場所の思い出ーその2 横浜市磯子区根岸(NO.1395)

 1955年(昭和30年)高校3年の3月大学受験のため叔父の家に約1か月間やっかいになりました。叔父の家は横浜市磯子区根岸にありました。美空ひばりの家がもう少し先にあると聞きました。

 当時の大学受験は全国の国立大学を1期校と2期校にわけ、1期校は3月初旬、2期校は3月下旬に入学試験が行われました。2期校の試験は1期校の合格発表の後行われたので、国立大学2校を受験できるチャンスがありました。叔父が両方の試験が終わるまで泊めてくれたのです。

 わずか1か月しかいなかっただけですし、しかも受験という大仕事があったため横浜市内を歩き回ることはできませんでしたが、横浜という都市の魅力に取りつかれた記憶が今も残っています。それまで都会というと松山市しか知りませんでした。横浜は大都会でしたし、何か異国情緒が感じられる都市でした。東京を知るのはその半年後のことです。

 当時の京浜東北線は桜木町駅が始発駅であり終着駅でした。今の根岸線はありませんでした。横浜駅は東海道線の通過駅という感じで、横浜駅周辺はにぎわっていなかったように思います。市の中心は米軍に接収されていて立ち入れなかったように記憶しています。

 叔父の家から少し歩くと磯の香りのする海岸に行くことができました。受験勉強に疲れると海を眺めに行きました。今は広大な埋め立て地に石油タンクが立ち並んでいて、海ははるか遠くになっているようです。

 桜木町駅に行くには市内電車を利用しました。2系統あったように思います。途中当時横浜市一番の繁華街伊勢佐木町を通るのが楽しみでした。叔父や叔母から元町や中華街やいくつかの公園などの話は聞きましたが、行くチャンスはなく、次の機会に行ってみようと思いました。

 大学は1期校は一橋大学、2期校は東京外国語大学を受けましたが、落第し浪人生活になりました。横浜はそれ以後は住む機会はありませんでした。横浜市はその後大変貌し、さらにワクワクさせる憧れの都市となりましたが、昔の横浜もなつかしい思い出深い都市でした。

 

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