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2020年11月18日 (水)

住んだ場所の思い出ーその5 東京都北多摩郡小平町(NO.1401) 

1956年(昭和31年)5月、富士見台から東京都北多摩郡小平町に引っ越しました。小平町は1962年小平市になっています。

 同じ松山南高から一橋大学に入学した白方遠洋君が見つけて住んでいた下宿にお世話になることにしたのです。大学の小平分校までは20分とかかりません。下宿から歩いて10分の西武多摩湖線の青梅街道駅から2つ目の駅が一橋大学駅でした。

 下宿は新築で学生のために3畳の部屋が3部屋用意されていました。堀キヨさんという私の母と同じ年代の女性が下宿のあるじで、2人のおばあさんと暮らしていました。堀さん宅は家の南には広い庭とにわとり小屋があり、北側には広い畑を持っていました。家の周りは畑ばかりで、冬には水道が凍り付き、冬休みが終わって帰って来た時は部屋中に土ぼこりがたまっているという状態でした。

 堀さんは初めて下宿屋を始めたため勝手がわからず、最初は自分の部屋で私たち2人の夕食を食べさせるなど戸惑っていました。そのうちこれはおかしいと感じたらしく、台所のそばの2畳の部屋で堀さんと一緒に夕食をとるようになりました。

 下宿からは青梅街道まで幅1メートルほどの土の道を1分ほど歩き、青梅街道にでて駅まで歩きました。土の道は冬には霜が立ち、霜解けになると靴が土まみれになりました。青梅街道は道幅が広く、中央部は舗装されていましたが両端は砂利が敷かれていました。道の両側は大きな木がうっそうと茂っていました。その後何十年かたって訪ねた時、木々は伐採され歩道を備えた立派な街道に生まれ変わっていました。

 大学は最初の2年間は小平分校で教養課程を学び、あとの2年間は国立キャンパスで学びました。国立までは多摩湖線で国分寺に出て、中央線を1駅国立まで通いました。小平分校は1996年に廃止されました。当時の多摩湖線は電車のドアは自動ではなく手で開けました。東京にこんな不便な電車があるのに驚きました。中央線の西国分寺駅はまだありませんでした。多摩湖線の一橋大学駅と小平学園駅は300メートルしか離れていませんでした。のちに両方の駅がなくなり、その真ん中に一橋学園というおかしな名前の駅ができました。

 堀さんの下宿には4年間お世話になりました。2年目からは浪人の弟新田慎二が加わり、弟の早稲田大学2年が終わるまで白方君と3人でお世話になりました。

 堀さんとは下宿の主と下宿人という関係ではなく、東京のお母さんとその子供たちという関係に変わりました。そして堀さんが74歳でなくなるまで、我が家も弟一家も家族ぐるみのお付き合いをすることになりました。堀さんは私たち一家にとって忘れられない人となっています。

 堀さん宅に下宿したのは卒業までの4年間だけではありませんでした。私と白方君が大学を卒業したとき、3人とも堀さん宅も卒業し、前回述べたように私と弟は富士見台に引っ越しました。富士見台で1年過ごしましたが、大学4年になった弟は堀さん宅で暮らした楽しさが忘れられず、堀さんと話し合ってもう1年間お世話になる了解を得たのです。私も通勤には不便になりますが喜んで一緒に移りました。堀さんもまた家族が増えたかのように喜んでくれました。

 そして弟が大学を卒業し大正海上福岡支店に勤務することになって堀さん宅を出たのです。私は三井生命我孫子寮に引っ越しました。

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