住んだ場所の思い出-その4 東京都練馬区富士見台(NO.1400)
1955年(昭和30年)9月東京都久留米村から同じ西武池袋線の富士見台の2食付きの下宿に引っ越しました。3月の大学受験のときにお世話になった叔父一家が富士見台にできた公団住宅に抽選で当たったため引っ越していました。その叔父の家族は叔母と祖母の3人でした。その世話で近くの下宿が見つかったのです。
当時は自宅の余った部屋を貸して朝夕の食事付きで下宿屋を始めるお宅が多かったのです。下宿代は食費込みで6000円か7000円だったと思います。盛そば25円、ラーメン40円、コッペパン10円、牛乳1ビン10円の時代でした。
松山南高で同級生だった竹田祥一君と一緒の部屋で下宿しました。二人なら部屋代が安くなるためです。竹田君もやはり東京での大学受験に失敗して浪人生活でした。余談ですが竹田君はその後中央大学に入学、松山に帰ってガソリンスタンドを経営しながら愛媛県の県会議員、県会議長、愛媛県の自民党幹事長を務めました。
私は富士見台から高田馬場の予備校に通いました。当時の富士見台も周りは畑が多く、地名通り富士山が望めました。浪人生活は味気ないものでしたが、2人住まいなのでお互い励まし合いながら勉強に没頭したのを覚えています。叔父宅が近くだったので、気晴らしに話に行ったり、食事をごちそうになるのが何よりの楽しみでした。そこでの浪人生活は半年余りでした。
翌1956年(昭和31年)4月に一橋大学に合格し、しばらくそこから通いましたが、バスと電車を2つ乗り継いで通うのが大変なので、大学近くの小平の下宿に引っ越しました。ところが4年後にまた富士見台に戻ってきたのです。
1960年(昭和35年)大学を卒業、三井生命に就職しました。就職先は日本橋の三越本店の隣です。今度は小平から通うのが大変なので、富士見台の以前と違うお宅に下宿しました。浪人生活の弟と一緒に同じ部屋に住みました。
1年ほどそこから通ったのですが、弟がどうしても小平の下宿に戻りたいというので一緒に戻ることにしました。弟がわざわざ通学に遠くなる小平の下宿に戻りたいと言った秘密は、次の「住んだ場所の思い出」で明かしたいと思います。
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