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2020年12月31日 (木)

住んだ場所の思い出-その13 千葉県我孫子市若松(NO.1420)

 1984年(昭和59年)5月、我孫子台マンションから若松の2世帯住宅に引っ越しました。そして今も住んでいます。

 引っ越した時は妻と長女と長男と妻の両親と愛犬の6人と1匹の家族でしたが、今は2人です。47歳でしたが、83歳となりました。

 若松は我孫子駅から歩くと18分くらい、今は歩くのが遅くなったので30分近くかかります。駅まで坂東バスが頻繁に出ています。バス停までは2分くらいです。

 若松は手賀沼を埋め立てて造られた住宅団地です。1区画60平米以上あります。今は住人が高齢化しているので、若松ではなく老松などと言われることもあります。空き家になって売却されると1区画に2軒建てられることが多くなっています。

 手賀沼ふれあいラインに沿っているため、沿線にスーパー、ドラッグストア、100円ショップ、コンビニ、ファミレス、飲食店、その他のお店がいろいろあって、駅からはちょっと離れていますが、我孫子では一番便利といわれています。若松の裏側には手賀沼遊歩道があり、手賀沼や手賀沼公園にも近く、環境にも恵まれています。散歩やサイクリングは景色を楽しめながらできます。手賀沼エコマラソンや手賀沼花火や手賀沼トライアスロンも開催されます。ここで妻に看取られながら逝くのが願いです。

 若松に来て36年になりました。2人の子供は結婚して家を出ましたが、同じ我孫子市に住んでいます。長女の子供は、社会人と大学生、長男の子供は中学生です。妻の両親は87歳と94歳で亡くなりました。

 若松で一番頑張ったのは妻です。自分も働きながら子育て、両親の介護と看護、勤めを辞めてからは、孫たちの面倒を見たりの大活躍でした。今も新田ファミリーの大黒柱として、子供や孫たちに頼りにされて存在感を放っています。何かあるたびに我が家で食事会をして料理の腕をふるっています。私も妻には頭が上がりません。

 仕事は別として、私が若松で楽しんだのは、妻と二人での旅行と孫たちとの交流です。旅行は海外と国内を体が言うことをきかなくなるまで行きました。孫の運動会や野球大会やピアノや琴の発表会にもほとんど出ています。男の孫2人のポケモンスタンプラリーには毎年付き合いました。孫娘が小学校に入学した年は1年間集団下校を見守りました。

 また若松地区のためには防犯パトロールと小学生の下校見守りを週1回10数年やっています。

 「住んだ場所の思い出」はこれでおしまいですが、次に「学校の思い出」シリーズを書きたいと思っています。またお付き合いください。

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2020年12月29日 (火)

住んだ場所の思い出-その12 仙台市中山ニュータウン(NO.1419)

 1975年(昭和50年)7月、宮城県仙台市中山ニュータウンの「中山ヒルハウス」に引っ越しました。日本アイ・ビー・エム仙台営業所への転勤のためです。私は6月に引っ越していましたが、家族は長女の小学校が夏休みになるのを待って移りました。

 中山ニュ-タウンは仙台市の中心から北西部の小高い丘の中腹の開発された住宅地です。中山ヒルハウスは1棟だけの集合住宅で、その2階の1軒を借りました。

 3DKで我孫子台マンションよりは狭くなりました。眺めがよく、仙山線や仙台市街の一部や宮城球場などが見られ、はるか先には太平洋も見渡せました。ただ壁に断熱材が入っていない感じで、冬の寒さに弱く、結露で家具がやられたのを覚えています。石油ストーブ1台と炬燵で暖を取りましたが、とにかく寒い建物でした。

 当時の仙台市は、まだ新幹線や地下鉄ができる前で、仙台駅も改築前の平屋建の目立たない駅でした。市内の一部にはまだ市電が走っていました。

 JRの仙山線も今は新しい駅が多くできてダイヤも通勤用になっていますが、当時は完全なローカル線で最寄り駅だった北仙台駅は通勤には使えませんでした。中山ニュータウンから市内の中心部にある営業所まではバスで20分~30分、徒歩で10分くらいでした。

 仙台の営業所は東北6県をカバーしていたので、お客様のある山形、秋田、福島、郡山への出張はしょっちゅうでした。秋田や東京への出張は泊りがけでした。東京へは航空機もよく使いました。

 仙台では家族で仙台市内や近くの旅行によく出かけました。松島、山形花笠踊り、気仙沼大島、山寺立石寺、鳥の海の潮干狩り、秋保、作並温泉、泉ヶ岳、中尊寺、鳴子温泉、面白山スキー、裏磐梯と会津、などに行きました。仙台球場は当時金田監督のロッテがフランチャイズでしたので家族で野球を見に行きました。

 個人では下手なゴルフや海釣りを楽しみました。ゴルフ場は東京近辺よりかなり安く、釣り好きの仲間と女川によく出かけました。おそらく釣り宿は東日本大震災で流されたと思います。

 長女は中山小学校で4年生になり、長男は中山ヒルハウスの隣にあった幼稚園で2年間を過ごしました。

 2年7か月の短い期間でしたが、初めての東京以外の赴任期間を家族や仲間と楽しみました。そして1978年3月に我孫子台マンションに戻りました。

 仙台はその後私の家族とつながりました。私の弟が仙台に転勤になり、単身赴任で勤務しました。弟の長男は東北福祉大学を卒業しました。私の長男一家は仙台に転勤になり、在任中東日本大震災に遭いました。そしてそれを機に東京に復帰しました。不思議につながっている感じです。

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2020年12月27日 (日)

住んだ場所の思い出-その11 千葉県我孫子市「我孫子台マンション」(NO.1418)

 1974年(昭和49年)8月、立川市のけやき台団地から、千葉県我孫子市の「我孫子台マンション」に引っ越しました。

 我孫子台マンションに住んだのは、

・1974年8月~1975年7月 11か月間

・1978年3月~1984年5月 6年2か月間

です。2回に分かれているのは仕事で仙台に赴任していた期間があるためです。初めて自分の持ち家に住むこととなりました。初めて住宅ローンを組みました。

 我孫子台マンションは常磐線の我孫子駅から徒歩7分くらいで、我孫子市では初めての本格的なマンションでした。けやき台団地は5階で階段の上り下りが大変でしたので、今度はエレベーターはついていましたが1階を選びました。3LDKで広さはけやき台団地の45平米から73平米と広くなりました。団地では階段ごとに縦のお付き合いがありましたが、マンションでは階ごとの横のお付き合いとなりました。

 徒歩1分の所に手賀沼と手賀沼公園がありました。子育てには恵まれた環境でした。

 振り返ってみると、我孫子台マンションに越してからマンションを出るまでは仙台の時代も含めて10年間でしたが、この期間は仕事は別として家庭的には子育ての10年間だったように思います。ただ子育ては実際は妻が行ったことで、私はそばで見ていただけだったようにも思います。

 我孫子台マンションでの新しい生活が始まって間もなく、翌年の6月初めに日本アイ・ビー・エム仙台営業所への転勤が決まりました。仙台での家探しなどもあり、最初の我孫子台マンションでの思い出はあまり記憶に残っていません。長女の7歳の七五三のお祝いを近くの子の神権現で行った記憶くらいです。長女は1974年9月に我孫子第四小学校に転校しましたが、1年後にはまた転校が待っていました。

 私は6月に仙台へ行き、家族は夏休みが始まると同時に仙台に引っ越しました。

 そして2年8か月後の1978年3月にまた我孫子台マンションでの生活が始まったのです。長女は我孫子四小の5年生に戻ってきました。長男は四小に1年生として入学しました。そしてマンションを出るときには長女は我孫子高校2年生、長男は白山中学校1年生になっていました。

 この間、私の職場もいろいろ変わりましたが、それは「職場の思い出」シリーズで書くつもりです。

 我孫子台マンションの周りも大きく変わりました。手賀沼公園が整備されきれいになりました。すぐ近くの道路の両端が延びました。西側は北柏まで道路が作られ最終的には国道16号につながりました。東側は湖北までの道路が作られ布佐につながりました。この道路は「ふれあいライン」と呼ばれています。

 手賀沼遊歩道の桜並木の美しさは驚きでした。今は手賀沼の護岸工事のためその美しさはなくなりました。手賀沼の花火大会にも感動しました。今は柏市が加わり規模が大きくなりました。長男とは手賀沼で鯉釣りをしました。家族でよく旅行を楽しみました。1982年12月には新しい家族が増えました。ヨークシャテリアの子犬「ロッキー」を飼い始めたのです。

 1983年に突然妻の両親と一緒に暮らすことが決まりました。我孫子台マンションと妻の両親の国立の家を売って、我孫子に2世帯住宅を作りました。9月に建築が始まり翌1984年5月完成、引っ越しました。我孫子市若松、我孫子台マンションから歩いて10分くらいのところです。マンション暮らしから1戸建て住宅に住むことになるとは思いもよりませんでした。

 

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2020年12月23日 (水)

日本ではコロナの感染者が20万人を超え、イギリスでは感染力の強いコロナ変異種が生まれた(NO.1417)

 令和2年12月23日、日本国内での新型コロナウィルスの感染者(クルーズ船と空港検疫などを除く)が20万人を超えました。

 今の感染は第3波と言われていますが、最高波と言ってもいいと思います。

 11月19日に1日あたりの感染者が初めて2000人を超えました。それ以後12月23まで日の35日間、1000人台に減ったのは7日間だけで、残りの28日間は2000人を超えています。そのうちの2日間は3000人を超えました。第1波、第2波をゆうに超えまさに最高波になっています。

 政府や地方自治体はいろいろな対策を考えていますが、果たしてそれで感染拡大や医療崩壊を防ぐことができるのでしょうか。国民一体となってもっと真剣に考えたほうがいいのではないかと思っています。

 イギリスで感染力の強い新型コロナウィルスの変異種の流行が報じられています。

 ヨーロッパでは今まで、イタリア、スペイン、イギリス、フランスの順番でコロナの流行が広がり、首位を交代してきました。10月ごろからフランスの感染が急速に拡大して、ダントツの首位となりましたが、今はイギリスの感染者が急速に増えて再度首位に復帰する勢いです。

 ここ1週間で見ると1日平均の感染者がフランスの14177人に対しイギリスの29259人と2倍以上になっています。両国の人口はフランスの66百万に対してイギリスの68百万とほぼ同じくらいですから、変異種の感染力が際立っています。

 イギリスからの入国制限は日本を含め40か国に達しました。日本ではまだ変異種は確認されていませんが、イギリス以外から入ってくる可能性もありますので注意が必要です。

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2020年12月22日 (火)

住んだ場所の思い出-その10 東京都立川市「けやき台団地」(NO.1416)

 1966年(昭和41年)12月三鷹市のアパートから立川市の「けやき台団地」に引っ越しました。

 当時のサラリーマン憧れの公団住宅です。ここで7年8か月暮らしました。私のサラリーマンとしての基礎がかたまり、また新田ファミリーが誕生したのがけやき台団地でした。

 けやき台団地は立川市でしたが最寄り駅は国立駅です。国立駅からけやき台団地行のバスが頻繁に出ていました。片道10分くらいでした。バスは立川駅からも数は少ないですが出ていました。

 かなり大規模な新設の団地で、バス停の前にはスーパーがあり、五日市街道側には小さな商店街もできていました。我が家は5階建ての5階で、目の前には大きな公園があり、日当たり風通しがよく、眺めも素晴らしく遠くに富士山が見えました。3DKでバストイレ付、電話も申し込みました。それまでのアパートとは比べ物にならない便利な暮らしになりました。ただ妻は子供ができた後は子供を抱っこしての5階の上り下りが大変だったようです。今のマンションのようにエレベーターはありませんでした。

 1968年1月長女が誕生しました。妻は引っ越した後会社は退職していました。3年後の1971年には長男が誕生しました。

 2人の誕生には妻の実家に大変助けてもらいました。つわりがひどかったため、つわりが始まってから子供が生まれた後しばらくの間、妻は実家でお世話になりました。

 1972年には近くの自動車学校に通い車の免許を取りました。そして三井生命の後輩が使っていた車を譲り受けました。ダイハツで乗り心地のいい車ではありませんでしたが、その車で家族で箱根や富士スバルラインなどに出かけました。

 そのころから将来のことを考えてもう少し広いマンションに引っ越すことを考え始めました。けやき台団地は45平米でしたので、子供が大きくなると狭い感じでした。当時はマンションブームでマンションの購入もくじ引きでした。それも建築した物件を見て購入するのではなく、建築プランやカタログを見て購入するのです。

 休日になるとマンションを捜し歩きました。近くには手ごろな物件は見つかりませんでした。やっと見つけたのが三井生命の独身寮のあった我孫子市の「我孫子台マンション」でした。

 1973年8月、購入の契約をしました。抽選でした。建物はまだ建築中で入居は1年後です。ところがこの年日本経済を揺るがす大事件が発生しました。

 オイルショックです。1973年10月第4次中東戦争が勃発、OPECが原油価格を70%値上げするとともに、原油産出を減らしたのです。日本に原油が入らなくなりました。日本の物価も上がりました。主婦がトイレットペーパーを買いに走り、身の回りの物の品切れが続出しました。ガソリンスタンドが休日を増やしたり、建物が消灯したり、デパートやスーパーが営業時間を短縮したりの大騒ぎとなりました。

 調べてみると1974年の物価上昇率は23%と出ていました。我孫子台マンションも1年後には数百万円値が上がりました。我が家は購入ずみでしたので難を逃れました。

 1974年4月長女がけやき台小学校に入学しました。そして1学期だけで転校することになったのです。

 1974年8月我孫子台マンションに引っ越しました。

 けやき台団地では私も妻も子供たちもそれぞれの友人ができました。広々とした遊び場があり、いろいろなイベントがあって子供を育てるには絶好の環境でした。同じような年代の人が集まって、同じような家族構成で、楽しく過ごした7年8か月でした。たくさんの思い出を残しての引っ越しとなりました。

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2020年12月20日 (日)

2020年海外10大ニュース(NO.1415)

 2020年12月20日、読売新聞の読者が選んだ「2020年海外10大ニュース」が決まりました。

1 米大統領選、バイデン氏が当選

2 WHO、新型コロナウィルスのパンデミック表明

3 米国で警官に拘束された黒人男性が死亡、抗議デモ世界に

4 英国がEU離脱

5 香港の国家安全維持法が施行

6 米トランプ大統領、新型コロナに感染

7 米トランプ大統領、WHO脱退を表明

8 英ヘンリー王子夫妻、公務引退

9 アルゼンチンのマラドーナ氏が死去

10 核兵器禁止条約の発効決定

 読売新聞が用意した11月までの50項目から10項目を選んで応募する方法です。

 有効応募総数は昨年の11848通より少し増えて12157通でした。年代別では19歳以下が最も多く31%、それに次いで70歳以上が23%でした。

 全項目的中者は昨年は1人でしたが、今年は6人に増えました。

 全体では6項目的中者が最も多く28.1%でした。昨年は5項目的中者が最も多かったので、今年はやや選びやすかったと言えます。

 私も応募しました。6項目の的中でした。

 外した中にはイギリスヘンリー王子とマラドーナがあります。日本人は英王室が大好きなようで英王室のニュースが項目に含まれると必ず選ばれています。またマラドーナが入ったのは19歳以下の世代の投票が多かったからかもしれません。

 私は、6,7,8,9の代わりに、

14 北朝鮮、南北共同連絡事務所を爆破

21 南シナ海をめぐり米中対立が激化

30位以下 台湾総督選で蔡英文氏が再選

30位以下 米民主党の副大統領候補にハリス氏

を選びました。国内の10大ニュースに比べると海外の10大ニュースは世界で何が重大かという価値観の違いが現れます。的中率を上げるのは難しいです。

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2020年12月19日 (土)

2020年日本10大ニュース(NO.1414)

 2020年12月19日、読売新聞の読者が選んだ「2020年日本10大ニュース」が決まりました。

1 新型コロナ感染拡大、緊急事態宣言発令

2 東京五輪・パラリンピックが延期に

3 菅首相誕生、新内閣が発足

4 安倍首相、持病悪化を理由に辞任表明

5 志村けんさんが新型コロナで死去。著名人の死去相次ぐ

6 アニメ映画「鬼滅の刃」、国内最速で興行収入100億円突破

7 新型コロナで政府が全国小中高の休校要請

8 高校野球が春夏中止。プロスポーツ界でも延期や中止相次ぐ

9 将棋の藤井聡太七段が最年少タイトル

10 九州豪雨、死者77人

 読売新聞が用意した11月までの64項目から10項目を選んで応募する方法です。

 今年は募集した後に発生した1項目が番外として選ばれました。

番外 はやぶさ2カプセル帰還

 有効応募総数は昨年の18368通より少ない17120通でした。年代別では19歳以下が最も多く29%でした。それに次いで多かったのは70歳以上で24%でした。

 全項目的中者は昨年の65人をはるかにしのいで286人でした。

 全体では8項目的中者が一番多く25.8%でした。昨年は7項目的中者が一番多かったので、今年は目立つ大きな事件が絞られたのではないかと思います。

 私も応募しました。9項目の的中でした。

 8の代わりに

11 レジ袋有料化スタート を選びました。

 明らかな凡ミスで、8の高校野球春夏中止を見落としたのです。項目をしっかり追いかけていれば、今まで高校野球についてブログを2つも書いているくらいなので、この項目を入れないはずはありません。最近高齢化のせいか、物忘れや見落としが多くなって情けない次第です。

 

 

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2020年12月15日 (火)

「GO TO トラベル」はコロナ終息が見えるまで延期すべきだ(NO.1413)

 令和2年12月14日政府は新型コロナウィルス感染症対策本部で、「GO TO トラベル」事業について見直し28日から来年1月11日まで全国一斉に停止することに決めました。政府がやっと重い腰を上げたのです。

 コロナを抑えるには人と人との接触をできるだけ減らすことが第一です。政府は国民に対して、三密を避けること、マスクをすること、手洗いや消毒をすることなどを唱えながら、人と人の接触を間違いなく増やす「GO TO トラベル」事業を進めてきました。明らかに矛盾した政策でした。

 経済を活性化するため、観光関連の業者を救うために進めた政策なのでしょうが、感染が広がってしまえばますます観光業者を苦しめます。心配していた通り、感染の拡大は過去最大になりました。政府はそんなこともわからない無能力者ばかりなのでしょうか。

 もう一つ理解できないのは、医療体制がひっ迫してきているのに、政府は医療関係者に対する配慮が全く見られないことです。病院や医師や看護師などは、コロナが広がり始めてから大変な努力を積み重ねています。病院や医院の経営も苦しくなっています。医師や看護師の体調も苦しくなっており、その家族などは理由のない差別に苦しんでいます。

 飲食店や観光業者に金銭的な補助はありますが、医療従事者に対する金銭的な補助は見えてきません。政府や役人は医療の現場を訪問し、実情を理解しているのでしょうか。

 とにかく今は何が何でもコロナの感染を抑え込むことが最優先です。コロナが収まれば政府がおせっかいを焼かなくても、人々は安心して一斉に旅行に行くでしょう。

 「GO TO トラベル」は一時的に停止するのではなく、コロナが収まるまで延期すべきと考えます。

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2020年12月13日 (日)

住んだ場所の思い出-その9 東京都三鷹市(NO.1412)

 1966年(昭和41年)5月国立市から同じ中央線の三鷹市に引っ越しました。

 新婚家庭を築くためでした。新婚生活はできれば住宅公団のアパートで始めたかったのですが、何度申し込んでも抽選に当たらず、民間のアパートを借りました。

 婚約者と中央線沿線の不動産屋をあたり、何軒もの住宅を見て歩きました。そして地名は三鷹市ですが、中央線武蔵境駅から歩いて10分足らずのところにまずまずのアパートを見つけました。木造新築の2階で六畳一間ですが台所と水洗トイレがついていました。新築で水洗トイレ付というのが気に入りました。それまで住んだ場所には水洗トイレはありませんでした。お風呂は近所に公衆浴場がありました。

 結婚式は5月15日、赤坂の健保会館で行いました。妻は三井生命勤務、三井生命では1年後輩ですが、学歴の関係で6歳の年の差がありました。三井生命のハイキングクラブで知り合いました。そのため結婚式には三井生命と日本アイ・ビー・エムの上司や友人が来てくれました。

 武蔵境での共稼ぎの生活はその年の12月まで約半年間続きました。中央線で私は四谷まで、妻は神田まで通いました。妻は帰宅後家事が待っているので大変だったと思います。振り返ってみるとあっという間の生活だったためか、あまり印象に残っていません。夢の中で過ごしたような半年間でした。

 なぜ半年で終わったかとというと、間もなく公団住宅の抽選に当たったのです。たしか15回以上落選すると、当選率が10倍に上がるというルールがあったように覚えています。そのルールで当選したのです。しかも幸運にも同じ中央線沿線で、妻の実家に近い「けやき台団地」に当たりました。最寄り駅は国立駅です。

 ほかの団地の抽選のとき当たらなくて幸いでした。そして12月にけやき台団地に引っ越しました。

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2020年12月11日 (金)

「反日種族主義との闘争」を読んで(NO.1411)

 令和2年12月11日李栄薫編著の「反日種族主義との闘争」を読み終わりました。

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 昨年韓国で「反日種族主義」という本が出版されました。この本は日本語に翻訳されて日本でも出版されました。そして両国でベストセラーになり大きな反響を巻き起こしました。

 その読後感を今年の7月14日のブログに書きましたが、李栄薫氏は「韓国の民族は日本を永遠の仇と捉える種族である」と定義し、国民も政治も「嘘をつく」と書きました。

 韓国内では当然のことながら猛烈な反発がありました。李栄薫氏は「反日種族主義との闘争」の序文で次のように述べています。「大学と言論の周辺を彷徨する種族主義の群像からは、強烈な抵抗と罵倒がありました。(中略)この本は、この1年我々に降り注いだ批判に誠意をもって答え、加えて、前作では説明の足りなかったところを補充したものです。どうかこの本が、我々を支持する読者の皆さんに大きな開放と自由の喜びとして迎えられることを願ってやみません」

 「反日種族主義との闘争」は

・日本人慰安婦

・戦時動員(徴用工)

・独島(日本では竹島)

・土地/林野調査

・植民地近代化

の章に分けて各界からのいろいろな批判に対し、詳細かつ冷静に客観的に反論しています。歴史的な事実や経過なども具体的に述べられています。よく理解できました。

 ところが今の文在寅政権は反日で愛国主義を扇動し、司法改革を名目に保守陣営に圧力をかけています。文政権は親北朝鮮、親中国で、今の韓国は危機的状況になっていると言ってもいいのではないでしょうか。

 日本と韓国の関係を以前のような正常の状態に戻せるのか、考えてしまいました。

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2020年12月 9日 (水)

住んだ場所の思い出-その8 東京都国立市(NO.1410)

 1964年(昭和39年)9月15日に三井生命を退職し、10月15日に日本アイ・ビー・エムに入社しました。そのため三井生命都立大学駅の寮から東京都国立市に借りたアパートに引っ越しました。

 退職から入社までに1か月の休みがありました。この1か月の間に日本では記録的な出来事がありました。10月1日に東海道新幹線が開業しました。そして10月10日には東京オリンピックが開幕したのです。

 10月2日には開業したばかりの新幹線で大阪まで行き、愛媛県の実家に帰省しました。10月1日の新幹線に乗りたかったのですが、切符が取れず2日になったのです。帰りも新幹線を利用しました。

 10月10日のオリンピックの開会式も神宮の国立競技場で見たかったのですが、残念ながらチケットが取れませんでした。三井生命の退職金で急遽購入した白黒テレビでアパートで見ることになりました。

 アパートは国立市の一橋大学の国立キャンパスの向かい側にある理容店の2階でした。2階には六畳と四畳半と三畳の部屋があり、私の部屋は北側の三畳でした。六畳には夫婦が、四畳半には独身男性が住んでいました。トイレと洗面所は共用でした。現在のサラリーマンの住む部屋からはおそらく想像できませんが、55年前の住宅事情からすると珍しいことではありませんでした。

 国立に決めたのは将来妻となる女性の家が国立にあったためでした。それに大学の後半の2年間が国立だったので土地勘がありました。

 はっきりした日にちは覚えていませんが、引っ越した後正式に婚約しました。アパートでは食事は外食でしたが、土曜や日曜には、よく婚約者の家に食事に呼ばれました。

 職場は最初の半年間は永田町の本社勤務、その後神田の営業所に移りました。中央線で国立駅から四谷駅と神田駅に通いました。オリンピック期間中は電車から国立競技場の聖火が見えたのを懐かしく覚えています。アパートから国立駅までは広い駅前通りを待っすぐ5分くらいでした。駅前通りは桜の季節には両側に満開の桜が楽しめました。

 部屋は小さく味気ないところでしたが、国立の街は大好きで、結婚するまでの1年8か月間最後の独身生活を過ごしました。

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2020年12月 7日 (月)

おかえり はやぶさ2(NO.1409)

 令和2年12月6日午前3時「はやぶさ2」から分離されたカプセルがオーストラリアの砂漠に戻ってきました。カプセルは直径約40センチ、重さ16キロで、地球の大気圏に突入すると、明るく輝く火球となりました。

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 その後パラシュートを開いて着地したのです。カプセルは8日に日本に到着します。小惑星リュウグウから持ち帰った石や砂が入っていると思われます。約46億年前の太陽系誕生当時の情報が残っているとみられ、JAXAは国内外の研究機関とともに太陽系の成り立ちや生命誕生の秘密に迫ります。

 はやぶさ2は2014年12月3日鹿児島県の種子島宇宙センターから打ち上げられました。

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 そして6年かけて往復52億キロにも及ぶ旅を終えて戻ってきたのです。今回は初代はやぶさと違いトラブルもなく完璧の旅でした。JAXAプロジェクトマネージャの津田雄一さんは「100点満点で1万点」と自己採点しました。

 コロナで暗いニュースが続く中で、素晴らしい明るいニュースでした。今後はこの成果を研究に生かすとともに、この技術を次世代の人々に伝えてもらいたいと思います。

 初代はやぶさは2003年に打ち上げられました。2005年小惑星イトカワに着地失敗、やり直して何とか成功しますが、機体を損傷して交信不能となり宇宙をさまよいます。JAXAスタッフが絶え間ない交信の試みを継続、やっと行方を突き止めます。ところが今度はイオンエンジンの一部が故障、帰還できなくなる可能性が強くなります。JAXAスタッフは「絶対にあきらめない」を合言葉に様々なアイデアを出し合い、2010年6月7年間60億キロの旅を終え無事オーストラリアの荒野に戻ってきました。

 そのドラマが3本の映画になりました。

「はやぶさ 遥かなる帰還」渡辺謙、山崎努、吉岡秀隆主演、本格的映画でした。

「おかえり、はやぶさ」ホームドラマタッチの3D映画、藤原竜也、三浦友和、中村梅雀主演でした。

「はやぶさ/HAYABUSA」コメディタッチのエンターテインメント映画、竹内結子、西田敏行、高島正弘主演でした。私は3本とも見ました。2012年4月2日の手賀沼通信ブログに書きました。

 今回は完璧すぎて映画にはなりません。津田さんは初代はやぶさチームのメンバーでしたが、「もう映画は作らせない」とコメントしています。

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2020年12月 5日 (土)

読書の終活「播磨灘物語」を読み終え「燃えよ剣」へ(NO.1408)

 令和2年12月4日書棚の司馬遼太郎の小説「播磨灘物語」ハードカバーの3冊を読み終えました。これで司馬遼太郎の11作品を読み終えました。

 昭和50年に出版された第一刷なので、細かい字で上下2段に印刷されており高齢者には読みにくい本でした。

 「播磨灘物語」の主人公は黒田官兵衛です。羽柴秀吉の軍師となった人物です。周りには戦国時代おなじみの織田信長、羽柴秀吉のほかに、官兵衛にかかわる人物が続々登場します。物語は黒田家の成り立ちから、羽柴秀吉が天下人となるまでの官兵衛の活躍までです。徳川家康の出番はほとんどありません。

 この物語で司馬遼太郎が詳細に描いたのは、登場人物の性格やその時なぜその行動をとったかという心理状態などです。時代小説に出てくる華々しい活躍の場面などはあまり描かれていません。戦いについても結果よりもプロセスに重点を置いて書かれています。読みごたえのある大変興味深い作品でした。

 次は幕末の新選組の物語「燃えよ剣」です。主人公は土方歳三です。

 新選組は近藤勇が局長ですが、小説やドラマになるのは土方歳三が断然多いです。近藤は途中で死にますが、最後まで戦ったのは土方歳三だったということと、人物に魅力が感じられたからかもしれません。

 平成11年に出版された文庫本です。「燃えよ剣」は昭和37年に発表されており、同時期には「竜馬が行く」が新聞連載中でした。

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2020年12月 3日 (木)

住んだ場所の思い出-その7 東京都目黒区・東横線学芸大学駅/都立大学駅(NO.1407)

 千葉県我孫子町の三井生命我孫子寮から1963年(昭和38年)に三井生命の学芸大学駅の寮に引っ越しました。

 実ははっきりした年月日の記録も記憶もないのですが、前後の事情から推測すると1963年に間違いないと思います。学芸大学駅の寮に住んだのは1年足らずで、1964年には同じ東横線の隣の駅の都立大学駅の寮に引っ越しました。

 都立大学駅に新築の三井生命寮ができたのです。しかし都立大学駅の寮に住んだのも数か月でした。三井生命を退職し日本アイ・ビー・エムに転職することになったためです。転職については「職場の思い出」シリーズで書くつもりです。

 学芸大学駅の寮は東急東横線の渋谷から4つ目の駅で時刻表を見ると乗車時間は8分となっています。駅からも歩いて数分でした。

 三井生命は1961年に大手町の自社ビルに移っていたので、学芸大学駅からは渋谷で地下鉄銀座線に乗り換え、赤坂見附で丸ノ内線に乗り換えて大手町に下車すれば50分ほどでつきました。我孫子寮からの通勤時間と比べると30分くらい短縮されました。都立大学駅の寮からも同じくらいの通勤時間でした。しかも1964年には地下鉄日比谷線が全線開通し、東横線との乗り入れが行われたため、乗り換えが1回減りさらに便利になりました。

 ただ振り返ってみるとこの2つの寮での生活はあまり記憶に残るようなことはありませんでした。覚えているのは学芸大学駅の寮に引っ越した前後から、その後結婚することになる女性と付き合い始めたということです。女性は中央線の国立に住んでいたため、新宿あたりで時々一緒に食事をした記憶があります。また会社の仲間とも新宿の歌舞伎町などでよく飲みましたが、我孫子のように長時間電車に乗ることがなかったので乗り越したことはありませんでした。

 そして1964年9月三井生命を退職し、女性の住む国立に部屋を見つけ引っ越しました。

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2020年12月 1日 (火)

日本政府は新型コロナを本気で抑え込むつもりはあるのか(NO.1406)

 新型コロナウィルスの日本の新規感染者(クルーズ船、空港検疫などを除く)が令和2年11月6日に1000人を超え、11月29日には2670名と過去最高を記録しました。増加傾向は衰えを見せません。

 これに対して日本政府は感染防止対策の強力なリーダーシップを発揮することなく、ひたすら国民の自粛を求めています。経済の活性化を求めて始めた「GO TO トラベル」以後感染は増えていますが、国土交通省はやめるつもりはなく、政府や経済再生相や厚生労働省はあいまいな態度を取り続けています。各県知事任せといった無責任な態度です。

 「GO TO  トラベル」によってどれくらい感染が増えるかという予測や、その結果どれくらい感染が増えたかという分析システムもなく、ただマスクと三密回避と換気等というお題目に頼っているだけです。

 ホテルや旅館や飲食店や交通機関は懸命に考えられる対策を取っていますが、人の動きが感染拡大の最大原因である以上、動きを助長してはいけないはずです。

 12月1日の読売新聞社説では「新型コロナ対策 感染抑止を最優先に取り組め」と題して次のように書かれていました。要約してみます。

「経済を回復させるためにも、新型コロナウィルスの急速な蔓延を食い止める必要がある。政府の対応には、もどかしさを感じざるを得ない。(中略)

 『GO TO』事業は、外出を促す象徴的な対策だ。政府による運用の見直しが小出しになっているのは、政策の失敗という批判を恐れているためではないか。

 感染症対策と経済活動の両立に向け、消費の喚起は重要だが、感染者が急増している局面では、後回しにするのが妥当である。柔軟に施策を変更すべきだ。

 政府は今月15日までを『勝負の3週間』と位置づけ、国民に感染防止策を求めている。感染抑止の瀬戸際であると強調しながら、人の往来を助長していては、国民は戸惑うだろう。

 危機感を共有するため、政府には明確な指針に基づいたメッセージを発出してもらいたい。感染が終息に向かわなければ、経済の再生が遅れるだけでなく、来年の東京五輪への不安が高まろう。政府は当面、感染抑止に最優先で取り組まねばならない。(後略)」

 政府、国会議員、役人よ、しっかりしてほしい。それがあなたたちの今の最大の務めだ。

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