住んだ場所の思い出-その12 仙台市中山ニュータウン(NO.1419)
1975年(昭和50年)7月、宮城県仙台市中山ニュータウンの「中山ヒルハウス」に引っ越しました。日本アイ・ビー・エム仙台営業所への転勤のためです。私は6月に引っ越していましたが、家族は長女の小学校が夏休みになるのを待って移りました。
中山ニュ-タウンは仙台市の中心から北西部の小高い丘の中腹の開発された住宅地です。中山ヒルハウスは1棟だけの集合住宅で、その2階の1軒を借りました。
3DKで我孫子台マンションよりは狭くなりました。眺めがよく、仙山線や仙台市街の一部や宮城球場などが見られ、はるか先には太平洋も見渡せました。ただ壁に断熱材が入っていない感じで、冬の寒さに弱く、結露で家具がやられたのを覚えています。石油ストーブ1台と炬燵で暖を取りましたが、とにかく寒い建物でした。
当時の仙台市は、まだ新幹線や地下鉄ができる前で、仙台駅も改築前の平屋建の目立たない駅でした。市内の一部にはまだ市電が走っていました。
JRの仙山線も今は新しい駅が多くできてダイヤも通勤用になっていますが、当時は完全なローカル線で最寄り駅だった北仙台駅は通勤には使えませんでした。中山ニュータウンから市内の中心部にある営業所まではバスで20分~30分、徒歩で10分くらいでした。
仙台の営業所は東北6県をカバーしていたので、お客様のある山形、秋田、福島、郡山への出張はしょっちゅうでした。秋田や東京への出張は泊りがけでした。東京へは航空機もよく使いました。
仙台では家族で仙台市内や近くの旅行によく出かけました。松島、山形花笠踊り、気仙沼大島、山寺立石寺、鳥の海の潮干狩り、秋保、作並温泉、泉ヶ岳、中尊寺、鳴子温泉、面白山スキー、裏磐梯と会津、などに行きました。仙台球場は当時金田監督のロッテがフランチャイズでしたので家族で野球を見に行きました。
個人では下手なゴルフや海釣りを楽しみました。ゴルフ場は東京近辺よりかなり安く、釣り好きの仲間と女川によく出かけました。おそらく釣り宿は東日本大震災で流されたと思います。
長女は中山小学校で4年生になり、長男は中山ヒルハウスの隣にあった幼稚園で2年間を過ごしました。
2年7か月の短い期間でしたが、初めての東京以外の赴任期間を家族や仲間と楽しみました。そして1978年3月に我孫子台マンションに戻りました。
仙台はその後私の家族とつながりました。私の弟が仙台に転勤になり、単身赴任で勤務しました。弟の長男は東北福祉大学を卒業しました。私の長男一家は仙台に転勤になり、在任中東日本大震災に遭いました。そしてそれを機に東京に復帰しました。不思議につながっている感じです。
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