住んだ場所の思い出-その10 東京都立川市「けやき台団地」(NO.1416)
1966年(昭和41年)12月三鷹市のアパートから立川市の「けやき台団地」に引っ越しました。
当時のサラリーマン憧れの公団住宅です。ここで7年8か月暮らしました。私のサラリーマンとしての基礎がかたまり、また新田ファミリーが誕生したのがけやき台団地でした。
けやき台団地は立川市でしたが最寄り駅は国立駅です。国立駅からけやき台団地行のバスが頻繁に出ていました。片道10分くらいでした。バスは立川駅からも数は少ないですが出ていました。
かなり大規模な新設の団地で、バス停の前にはスーパーがあり、五日市街道側には小さな商店街もできていました。我が家は5階建ての5階で、目の前には大きな公園があり、日当たり風通しがよく、眺めも素晴らしく遠くに富士山が見えました。3DKでバストイレ付、電話も申し込みました。それまでのアパートとは比べ物にならない便利な暮らしになりました。ただ妻は子供ができた後は子供を抱っこしての5階の上り下りが大変だったようです。今のマンションのようにエレベーターはありませんでした。
1968年1月長女が誕生しました。妻は引っ越した後会社は退職していました。3年後の1971年には長男が誕生しました。
2人の誕生には妻の実家に大変助けてもらいました。つわりがひどかったため、つわりが始まってから子供が生まれた後しばらくの間、妻は実家でお世話になりました。
1972年には近くの自動車学校に通い車の免許を取りました。そして三井生命の後輩が使っていた車を譲り受けました。ダイハツで乗り心地のいい車ではありませんでしたが、その車で家族で箱根や富士スバルラインなどに出かけました。
そのころから将来のことを考えてもう少し広いマンションに引っ越すことを考え始めました。けやき台団地は45平米でしたので、子供が大きくなると狭い感じでした。当時はマンションブームでマンションの購入もくじ引きでした。それも建築した物件を見て購入するのではなく、建築プランやカタログを見て購入するのです。
休日になるとマンションを捜し歩きました。近くには手ごろな物件は見つかりませんでした。やっと見つけたのが三井生命の独身寮のあった我孫子市の「我孫子台マンション」でした。
1973年8月、購入の契約をしました。抽選でした。建物はまだ建築中で入居は1年後です。ところがこの年日本経済を揺るがす大事件が発生しました。
オイルショックです。1973年10月第4次中東戦争が勃発、OPECが原油価格を70%値上げするとともに、原油産出を減らしたのです。日本に原油が入らなくなりました。日本の物価も上がりました。主婦がトイレットペーパーを買いに走り、身の回りの物の品切れが続出しました。ガソリンスタンドが休日を増やしたり、建物が消灯したり、デパートやスーパーが営業時間を短縮したりの大騒ぎとなりました。
調べてみると1974年の物価上昇率は23%と出ていました。我孫子台マンションも1年後には数百万円値が上がりました。我が家は購入ずみでしたので難を逃れました。
1974年4月長女がけやき台小学校に入学しました。そして1学期だけで転校することになったのです。
1974年8月我孫子台マンションに引っ越しました。
けやき台団地では私も妻も子供たちもそれぞれの友人ができました。広々とした遊び場があり、いろいろなイベントがあって子供を育てるには絶好の環境でした。同じような年代の人が集まって、同じような家族構成で、楽しく過ごした7年8か月でした。たくさんの思い出を残しての引っ越しとなりました。
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