« 2020年12月 | トップページ | 2021年2月 »

2021年1月30日 (土)

田中将大、菅野智之両投手の決断は賢明だった(NO.1430)

 2021年1月28日、ヤンキースからフリーエージェントになっていた田中将大投手が8年ぶりに楽天に復帰することが決まりました。

 田中投手は2007年から7年間楽天で活躍し、2013年に楽天が日本一になるのに貢献した後、2014年ニューヨーク・ヤンキースに移籍しました。そして7年間活躍、1昨年までは6年間連続2桁勝利の実績を残しました。

 今年は7年契約が切れたため、フリーエージェントとなって移籍先を探していましたが、楽天に復帰することに決めたのです。今年は東日本大震災から10年目となります。田中投手の仙台楽天復帰は楽天や東北のファンにとっては喜ばしいことです。

 読売ジャイアンツの菅野智之投手は今年からメジャーリーグで活躍する予定で移籍先を探していましたが、自分の希望する条件に合う球団が見つからず、今年もジャイアンツと契約することを選びました。

 私の独断ですが、両投手とも賢明な判断だったと確信しています。

 昨年のメジャーリグはコロナのため、無観客で1チーム年間60試合しか開催できませんでした。世界のコロナ感染者の4分の1を出しているアメリカでは当然の処置でした。そのため田中は昨年は3勝3敗の成績しか残せませんでした。

 昨年日本から新たにメジャーリーグに移籍した、筒香外野手、秋山外野手、山口投手なども満足な活躍ができませんでした。

 今年もアメリカのコロナ感染はトランプの感染抑制の無策もあってダントツの世界一で、スプリングキャンプの日程さえ決まっていません。

 菅野投手がメジャーをあきらめたのも、田中投手が日本復帰を選んだのも当然と言えると思います。賢明でした。

 両投手が日本シリーズで対決することを願っています。

| | コメント (0)

2021年1月28日 (木)

コロナの世界の感染者が1億人を超えた(NO.1429)

 アメリカのジョンズ・ホプキンス大の集計によると世界の新型ウィルス感染者の累計が、1月26日(日本時間27日)ついに1億人を超えました。

 世界の人口から換算すると77人に1人が感染したことになります。また死者数は215万人を超えました。

 アメリカが最も多く2544万人以上で世界の約4分の1を超えています。次いでインド、ブラジル、ロシア、イギリスの順となっています。ここ1週間をみるとアメリカ、イギリスは減少傾向にありますが、世界全体ではまだまだ予測はつきません。

 日本は1月27日現在感染者は37万4017名、死者は5387名です。ここ数日は感染者は減りつつありますがまだ予断は許せません。おそらく2月7日の緊急事態宣言解除は先に延ばす必要があると思います。

 WHOによるとワクチンの接種が約50か国で始まっています。日本では早くて2月下旬からとのことですが、ここでも日本政府の対応の遅さが目立ちます。なんで遅くなったのかは知りませんが、すべてにおいて対応の遅さが出ているので今更文句を言っても仕方がないでしょう。

 ただこれからはオリンピック、パラリンピックが控えているので遅れを取り戻すようしっかりと対応してもらいたいと思います。

| | コメント (0)

2021年1月26日 (火)

大学入学共通テストの地理Bをやってみた(NO.1428)

 2021年1月16,17日に大学入学共通テストが行われました。これは昨年までの大学入試センター試験に代わるもので、思考力や判断力をより必要とする試験に変えたのです。

 ステイホームで時間があるため、17日の新聞に出ていた試験問題から「地理B」を選んでやってみました。以前2010年の大学入試センター試験の英語と国語の問題をやったことがあります。それについては手賀沼通信第144号に書きましたが、英語は受験生の平均点を上回りましたが、国語は平均点以下でした。

 今回は比較的なじみのある地理を選んでみました。テレビの旅番組や各地を取材した番組を見るのが好きで、その際は世界地図や日本地図を見ながら楽しんでいます。

 地理なら平均点は取れると思っていました。とんでもない思い違いでした。試験問題は地理の知識だけではなく、国情、文化、歴史、経済、などの知識も要求されていました。問題の出し方が工夫されていて、文章や表や図形や写真の読解力とともに判断力、想像力が必要となっていました。時間は1時間でしたが、オーバーしてしまいました。

 これは実際の試験とは別問題ですが、新聞に細かい字で記載されていたので、ところどころ虫眼鏡で見る必要がありました。

 採点をしてみると100点満点で55点しか取れませんでした。1月20日に半数の人数の採点の中間結果が発表されましたが、地理Bの平均点は62.5点と出ていました。私の得点は平均点以下でした。しかしちょっとだけ若がえった気分になりました。

 日本史と世界史にも挑戦するつもりでしたが、問題を見て無理と諦めました。

| | コメント (0)

2021年1月22日 (金)

バイデン米大統領が誕生(NO.1427)

 2021年2月20日正午、ワシントンの連邦議会議事堂前で就任式が行われ、民主党のジョー・バイデン氏(78)が第46代アメリカ大統領に就任しました。

 トランプ大統領は昨年11月の大統領選で不正があったとして敗北を認めず、就任式に欠席しました。副大統領にはアメリカ史上初めて女性のカマラ・ハリス氏が就任しました。

 就任式の行われた連邦議会議事堂まえは新型コロナウィルス感染防止のため出席者が大幅に制限され、またトランプ支持者の暴動などを防ぐためバリケードが設けられて州兵によって監視されました。すべてトランプのせいといっても過言ではありません。

 バイデン大統領は就任演説で「私は国家と国民を団結させることに全霊をささげる」と誓いました。

 トランプ前大統領は就任演説で「アメリカファースト」を掲げ、4年間で国家の分断と保護主義をもたらしました。読売新聞社説には「国際秩序と民主主義はこの4年間で深く傷ついた。バイデン大統領に引き継がれる『負の遺産』はあまりにも大きい」と書かれていました。私の4年前に書いたブログには、トランプ大統領は就任後早速公約にした「オバマケア」を廃止、TPP(環太平洋経済連携協定)離脱の大統領令に署名したと書いていました。

 バイデン大統領は「ぐずぐずしている時間はない。すぐに仕事に取り掛かる」と、地球温暖化対策の「パリ協定」への復帰、WHOへの復帰を含む大統領令15本に署名しました。バイデン大統領はトランプの残した負の遺産を克服するという大きな課題があります。

 私の独断ですが、米国内の団結は日韓関係の修復とよく似ていると感じています。トランプが韓国で、バイデンが日本です。米国内も、日韓関係も、両方ともよくなってほしいと願っています。

| | コメント (0)

2021年1月20日 (水)

学校の思い出-その3 松山南高校(NO.1426)

 1952年(昭和27年)4月、松山南高校へ入学しました。

 松山には普通高校は南高校以外に東高校と北高校がありましたが、学区制により郡中中学校の生徒は普通高校は南高校に進学することに決まっていました。松山南高校は戦前は県立女学校でした。夏目漱石が先生だったり、坂の上の雲の秋山兄弟が学んだ松山中学は松山東校となりました。

 松山南高は我が家から数分の伊予鉄郡中駅から乗車時間25分の松山市駅で下車、歩いて5分の所にありました。当時はあまり有名ではありませんでしたが、今は観光地となっている正岡子規の子規堂が近くにありました。

 高校生活3年間は個性豊かな多くの先生に会ったこと、多くの友人に恵まれたこと、大学受験を目指して懸命に勉強したことが記憶に残っています。

 優しかった英語のH先生、厳しく指導してくださった国語古文の女性のI先生、ユーモアあふれる漢文のY先生、本名が思い出せないあだ名のタコ先生などが印象的でした。特にお世話になったのは3年生の時のクラス担当のM先生でした。何人かでご自宅にお邪魔したのを覚えています。

 高校では他の中学出身の友達も多くなりました。今でも付き合っている友人は高校時代の同級生が一番多い感じです。南高同級生の関東地区の会は80歳でやめましたが、有志は年1回集まっています。あこがれた女性もいましたがあこがれだけに終わりました。

 小学校の修学旅行は愛媛県内の宇和島市、中学の修学旅行は京阪神で、高校の修学旅行は関東でした。神戸まで関西汽船に乗り、三宮から急行列車に乗りました。修学旅行の専用列車や指定席などはなく、一般乗客と一緒で途中からやっと座れるといった状態でした。箱根、江ノ島、東京、日光などに行った記憶があります。どこも初めての場所だったので大変楽しい思いをしたのを覚えています。当時は前もって米原まで米を送っておき、米原で駅弁を調達するという時代でした。たぶん今の中年以下の人にはわかってもらえないと思います。

 大学受験は今以上に大変でした。一橋大学と東京外語大学を受けましたが予想通り落ちました。浪人生活に入りましたが、当時は1年の浪人は当たり前という感じでした。

 楽しくもあり、苦い思いもした3年間でした。

 

| | コメント (0)

2021年1月17日 (日)

学校の思い出-その2 郡中中学校(NO.1425)

 1949年(昭和24年)4月、郡中中学校に入学しました。

 郡中中学校は元の旭小学校です。通いなれたところに戻ってきました。歩いて5~6分のところだったので通うのは楽でした。

 中学生になって英語の授業が始まりました。校舎の一部に図書館もできました。校内に子供銀行が生まれました。戦後5年目に入り授業の内容や教育体制にいろいろ新しいものが取り入れられるようになったのだと思います。日本の歴史が「国のあゆみ」という教科書で教えられました。

 中学生の3年間は、戦争から解放され、今のような高校受験の心配もなく、のびのびと過ごすことができました。ただあまり勉強したという記憶はありません。夏休みは家から数分の海でよく泳ぎました。父や弟と伝馬船で釣りに出かけました。伝馬船の漕ぎ方を覚え船に乗るのが楽しみでした。

 私は4人兄弟の長男で母の死後兄弟が別のところで育ちましたが、新しい母が来て4人が一緒の暮らせるようになったのがこのころでした。我が家は荒物の商店でしたが、父の手伝いで、自転車で遠くまで商品を運んだのもこのころでした。

 図書館でパール・バックの「大地」やマーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」などを借りて読みふけったのを覚えています。ちょっとませた子供だったのかもしれません。

 近所に同学年のK君という人気者がいました。勉強がよくでき、野球部のエースピッチャーで3年のときは生徒会長になりました。そのK君の後をなんとか追っかけて行こうと努力しました。

 受験する高校は決まっていました。当時は学区制が厳しく、県立では普通高校は松山南高校しか受験できませんでした。あとは松山商業、松山工業、伊予農業の県立高校か私立新田高校でした。受験すればほとんど合格という時代でした。中学卒業で就職する生徒が少なくない時代でした。

 

| | コメント (0)

2021年1月14日 (木)

全国に緊急事態宣言を発令すべき(NO.1424)

 令和3年1月13日緊急事態宣言が、大阪府、京都府、兵庫県、愛知県、岐阜県、福岡県、栃木県にも出され、1月7日に出された1都3県に加えて11都府県に拡大されました。

 これも各県の知事から要請されてやっと政府が出したのです。13日夜菅首相の記者会見が行われました。読売新聞には「政府要請『明確さ』欠く」「今まで以上の危機感が必要だ」などの言葉が紙面に出ていました。

 日本国内(クルーズ船、空港検疫を除く)の感染者は30万1848人、死亡者は4275人となりました。下記のように急増しています。私は新型コロナウィルスを抑え込むには全国に緊急事態宣言を出すべきと考えます。

 コロナ統計を分析してみました。(単位:人)

             感染者  死亡者

・1月8日-14日   44,528 445

 緊急事態宣言後の1週間

・1月1日-7日    28,115 378

 それ以前の1週間

・12月7日-13日  17,243 254

 1か月前(新聞休刊日のため1日ずれ)

 これを見ても今の感染が生半可なものでなく、まさに爆発です。

 政府はやることが遅すぎます。やることがちぐはぐです。経済への影響を考えて「GO TO トラベル」をやりましたが、本気でコロナの感染を抑えるならもっと人出を少なくする政策を取らなければいけなかったのです。政府の関係者は想定外の感染爆発だというかもしれませんが、何を想定していたのでしょう。

 今問題とされているのが、30歳以下の若ものが街や飲み屋に繰り出し、感染を広げているのではないかということです。今こそ全国に緊急事態宣言を出すべきと考えます。国の指導者が若者に届くメッセージを発し、具体策を考えるべきだと思います。医療体制がひっ迫しつつあります。死者が増えています。危機的状況にあると考えられます。

 週刊誌に出ていましたが、国会議員が会食を続けるときではないでしょう。

| | コメント (0)

2021年1月11日 (月)

学校の思い出-その1 旭国民学校、旭小学校、郡中小学校(NO.1423)

 私の「住んだ場所の思い出」シリーズの次は「学校の思い出」シリーズです。

 学校に行く前に幼稚園に通いましたが、記憶が定かでないので省略します。

 1943年(昭和18年)4月、旭国民学校(正確な名前は不明)の1年生になりました。入学式だったかどうかは不明ですが、校長先生が教育勅語を読み上げ、最後の言葉が「御名御璽」だったのを記憶しています。クラスは当然のことですが男女別々でした。

 1941年12月に始まった太平洋戦争はそのころ転機を迎えていたのではないかと思います。調べてみると1943年4月18日に山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗していた飛行機が撃墜され死亡しています。戦争が終わったのは3年生の8月でした。

 3年生の1学期と2学期は肺門リンパ腺炎のため休学していたので、終戦までに学校に通ったのは1年生と2年生の期間でしたが、勉強した記憶はほとんどありません。1年生の国語の教科書(ヨミカタ)が「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」だったように覚えています。運動場に目と耳をふさいで横たわる避難訓練をした記憶があります。そのうち運動場はサツマイモ畑に変わりました。

 戦争が終わって旭国民学校から旭小学校に変わりました。教科書はなく、ノートは黄色い紙で、鉛筆の芯は折れやすく、コウイカの甲を干したものを消しゴム代わりに使っていました。

 幸いなことに郡中は田舎だったため、空襲の被害はなく、校舎が焼けることはありませんでした。空襲で亡くなった子供もいませんでした。

 先生は昨日までは「鬼畜米英」と言っていたのを、「アメリカさん」と言わなければならずさぞ困ったことと思います。戦争直後何を習ったかの記憶はありません。

 1947年5年生の2学期から郡中町の旭小学校と東小学校が合併し、東小学校の校舎に移って、郡中小学校となりました。通うのが約15分となり2倍くらい遠くなりました。児童数も1学年50人の6クラスになったと記憶しています。

 旭小学校の児童は商店や漁師や勤め人の子供たちが多く、東小学校の児童は多くは農家の子供でした。最初は違和感がありましたが、すぐ仲良くなりました。旭小学校にはなかった田植えと稲刈りの時期に農繁休暇というのがあり、もうかったような気持になりました。そのころには勉強の内容や教材も少しずつよくなってきたと記憶しています。

 振り返ってみると小学校時代は戦争による混乱の時代でした。でも田舎のために学童疎開や空襲の被害や外地からの引き上げなどがなかっただけに恵まれていたのかもしれません。

| | コメント (0)

2021年1月 8日 (金)

1都3県に緊急事態宣言が出た(NO.1422)

 令和3年1月7日、東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県に緊急事態宣言が発令されました。昨年4月7日に1都6県に緊急事態宣言が発令されて以来2度目です。

 7日の感染者は時を合わせたかの如く、東京2447名、神奈川679名、埼玉460名、千葉450名、全国で7557名と過去最多を記録しました。大阪、兵庫、京都も緊急事態宣言の要請をしています。

 今回の宣言は2月7日までです。午後8時以後は不要不急の外出自粛、飲食店は午後8時まで、お酒の提供は午後7時まで、出勤者7割減が目標、イベントは上限5000人までか収容人数の50%に少ないほう、などを要請しています。学校の休校は要請せず、大学や高校などの入試は従来通り行うとなっています。

 ただ8時以後は外出自粛のため、デパートやスーパーやお店の一部などは8時以前に店を閉めるところが出ています。

 はたしてこれで感染の増大を止められるのでしょうか。私は疑問に思っています。政府は1都3県の知事が要請するまでは重い腰を上げませんでした。GO TO トラベルなども再開するつもりでした。

 今政府に東京オリンピックやパラリンピックを無事開催するならどこまで感染を抑えればいいという目標があるのでしょうか。そしてその目標をどうすれば達成できるかという方法が見えているのでしょうか。また私を含めて国民にも感染を抑えなければ命が危ないという自覚がないように思います。コロナに慣れたのか甘く見ているのではないかと思います。たしかに長い我慢はもう結構、コロナを忘れて生活を楽しみたいという気持ちはわかりますが、今はとにかくコロナを抑えなければならないのです。

 この1月間の自粛がどこまで効くか、まさに正念場だと思います。頑張りましょう。

| | コメント (0)

2021年1月 3日 (日)

読書の終活「燃えよ剣」を読み終え「菜の花の沖」へ(NO.1421)

 令和2年12月31日書棚の司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」文庫本2冊を読み終えました。これで司馬遼太郎の小説の12作品を読み終えました。

 「燃えよ剣」の主人公は幕末の新選組の副長土方歳三です。新選組の局長は近藤勇ですが、新選組の組織を作り上げ実際に仕切ったのは土方歳三でした。

 近藤勇は戊辰戦争に敗れ北に向かって逃走中に流山で捕らえられ斬首されますが、土方歳三はそのあとも戦い続け、函館の五稜郭で討ち死にします。

 この物語は土方歳三が江戸の郊外の日野から近藤とともに京都に上り新選組を作って活躍するところが中心ですが、その後幕府の没落につれて、京都、江戸、東北、北海道と戦い続けるところも詳細に描いています。

 司馬遼太郎の小説にはストーリーテラーとして面白く描くものと歴史の舞台や背景、主人公の性格や心理などを掘り下げて描くものがありますが、「燃えよ剣」は前者に属するものです。楽しく読むことができました。

 次に選んだのは「菜の花の沖」です。主人公は江戸時代後期に淡路島の貧しい家に生まれ、廻船問屋として成功し、蝦夷、千島の海で活躍、ロシアとの争いに巻き込まれる快男児の物語です。

 文庫本6冊で1996年に購入しています。令和3年1月1日から読み始めました。

| | コメント (0)

« 2020年12月 | トップページ | 2021年2月 »