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2021年1月17日 (日)

学校の思い出-その2 郡中中学校(NO.1425)

 1949年(昭和24年)4月、郡中中学校に入学しました。

 郡中中学校は元の旭小学校です。通いなれたところに戻ってきました。歩いて5~6分のところだったので通うのは楽でした。

 中学生になって英語の授業が始まりました。校舎の一部に図書館もできました。校内に子供銀行が生まれました。戦後5年目に入り授業の内容や教育体制にいろいろ新しいものが取り入れられるようになったのだと思います。日本の歴史が「国のあゆみ」という教科書で教えられました。

 中学生の3年間は、戦争から解放され、今のような高校受験の心配もなく、のびのびと過ごすことができました。ただあまり勉強したという記憶はありません。夏休みは家から数分の海でよく泳ぎました。父や弟と伝馬船で釣りに出かけました。伝馬船の漕ぎ方を覚え船に乗るのが楽しみでした。

 私は4人兄弟の長男で母の死後兄弟が別のところで育ちましたが、新しい母が来て4人が一緒の暮らせるようになったのがこのころでした。我が家は荒物の商店でしたが、父の手伝いで、自転車で遠くまで商品を運んだのもこのころでした。

 図書館でパール・バックの「大地」やマーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」などを借りて読みふけったのを覚えています。ちょっとませた子供だったのかもしれません。

 近所に同学年のK君という人気者がいました。勉強がよくでき、野球部のエースピッチャーで3年のときは生徒会長になりました。そのK君の後をなんとか追っかけて行こうと努力しました。

 受験する高校は決まっていました。当時は学区制が厳しく、県立では普通高校は松山南高校しか受験できませんでした。あとは松山商業、松山工業、伊予農業の県立高校か私立新田高校でした。受験すればほとんど合格という時代でした。中学卒業で就職する生徒が少なくない時代でした。

 

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