学校の思い出-その5 一橋大学(NO.1438)
1956年(昭和31年)4月、1年浪人をして一橋大学経済学部に入学しました。
当時の一橋大学は1学年の定員が、経済学部120名、商学部120名、法学部100名、社会学部100名の少人数の大学でした。現在は2倍近くの1学年約1000名ほどになっているようです。
私たちの学年は全員男性で、4年間の在学中別の学年に1名の女性がいただけでした。今は女性の数は大幅に増えています。
当時は教養過程の2年間は小平キャンパス、あとの2年間は国立キャンパスで学びました。教養課程の小平キャンパスは1996年に廃止され、今は全員国立で学ぶようになりました。小平分校の後は小平国際キャンパスとなっているようです。
一橋大学に入ってまず心を躍らせたのは、当時中労委の会長をされていた中山伊知郎、学生に人気絶大だった高島善哉、上原専禄などの諸先生の講義を聴くことができたことです。
西武多摩湖線の一橋大学駅から2つ目の青梅街道駅近くに下宿を見つけて通いました。下宿については「住んだ場所の思い出-その5」に詳しく書いています。
教養課程のクラス分けは第2外国語によって分けられました。私たちはドイツ語のクラスの1つでした。このクラス会は今年はコロナで集まれませんでしたが今も続いています。
同好会を選ぶのは迷いました。体力的にスポーツは自信がありませんでした。いろいろ考えた末、親父が尺八をやっていたのでなじみがあった尺八の「一竹会」に入りました。東京女子大の琴の会との交流というおまけがついていました。一竹会の師範はのち人間国宝になって65歳で亡くなられた山口五郎先生でした。まだ結婚されたばかりの若手バリバリのころでした。
後半の専門課程の2年間はゼミナール単位で学ぶのが一橋大学の特徴でした。近代経済学の関恒義先生のゼミを選びました。関先生はマルクス経済学にも精通されていたまだ30代の新進気鋭の先生でした。ゼミの同期は10名でした。関先生は大の酒豪、勉強よりもお酒を楽しむことを学んだと言ってもいいと思います。先生のお宅や飲み屋やゼミ旅行でよく飲んだのを覚えています。関ゼミの集まりは、各年代のゼミテンも入れて先生の傘寿のお祝いまで続きました。卒論には当時はやっていた「ゲームの理論」を選びました。
大学の4年間はあまり勉強に励んだ記憶はありませんが、先生、同級生、先輩、後輩、下宿のおばさんとの交流などその後の人生を豊かにしてくれた4年間だったと言えると思います。
それに何より感謝することは、あまり経済的に豊かでなかった両親が、浪人時代も含めて、学費だけでなく毎月1万円を送ってくれたことです。就職してもらった最初の給与が1万4000円だったのでその金額の大きさがわかります。弟も東京で一緒だったので、同じ期間同じ負担をかけました。さぞ大変だったことと思います。自分が子供を持った時、それがよくわかりました。両親に感謝してもしきれない学生生活でした。
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