職場の思い出-その1 三井生命(NO.1443)
思い出シリーズの3は「住んだ場所」「学校」に続いて「職場」です。
1960年(昭和35年)4月、大卒内勤社員として三井生命に入社しました。業界6位の生命保険相互会社でした。同期入社は42名でした。当時生命保険会社は、新卒として、大卒内勤社員、大卒外務員幹部候補社員、高卒事務職社員を採用していました。大卒は男性のみ、高卒は女性のみでした。
どの生命保険会社は初任給はほぼ1万4千円、たしか都市銀行は1万5千円だったので、銀行に差をつけられていました。
本社は日本橋にありました。1年後大手町に三井生命ビルが完成しそちらに移りました。配属は月掛保険部月掛料金課数理係で、主な仕事は保険に関する毎月の統計を取ったり、年1回の決算をすることでした。
最初のころはIBMのパンチカードシステムのいろいろな機械を使っていましたが、新しい本社に移ってからはIBM650やIBM1401などのコンピュータを利用するようになりました。データもパンチカードと磁気テープになりました。
IBM650は真空管を使ったコンピュータで記憶容量は3Kワード(容量は間違っているかもしれません)、機械の上には直接大きな空調機がかぶさっていました。今のパソコンやスマホしか知らない人には想像もつかないと思います。
三井生命時代の記憶は、仕事よりも、労働組合と山登りのほうが残っています。組合の執行部には入りませんでしたが、退職時には本社地区の地区部長をやらされていました。
山登りは入社2年目にハイキング部に入り、春から秋まで月に2回は仲間と通っていました。ハイキング部は冬にはスキー部に変わり、スキーも楽しみました。私の登った百名山は30幾つですが、三井生命時代がほとんどです。
そして1964年9月三井生命を退職しました。4年9か月足らずの在職でした。日本アイ・ビー・エムにいた叔父から転職を勧められたためです。日本アイ・ビー・エムは急拡大中で、広く中途入社の人材を募集していました。
三井生命は日本アイ・ビー・エムの大ユーザーだったため迷いましたが、直属の上司が「アイ・ビー・エムに行って勉強してその分三井生命のために尽くしてくれればいい」と言って快く退職を認めてくれました。その言葉通り、1年後にはシステム・エンジニアとして三井生命を担当することになりました。
三井生命勤務は短かったですが、楽しいことばかりでした。私の妻は三井生命のキー・パンチャーでした。ハイキング部で知り合いました。また、42名からかなり減りましたが、三井生命の同期会には出席しています。
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