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2021年4月27日 (火)

コロナでの日本国内の死者が1万人を超えた(NO.1461)

 2021年4月26日新型コロナウィルスによる日本国内(クルーズ船、空港検疫などを除く)の死者が1万9人となり、1万人を超えました。

 読売新聞に載っているアメリカ・ジョンズ・ホプキンス大の集計によると、日本は新聞に出ている33か国中23番目に多い数です。

 世界では、アメリカが約57万2千人、ブラジル約39万1千人、インドが約19万5千人で3大死者の多い国です。メキシコが3番目とテレビには出ていましたが、メキシコの数字は最初から読売には出ていません。少ないほうは台湾12人、シンガポール30人、ベトナム35人がベストスリーです。南北アメリカとヨーロッパが多く、アジアはインドを除いては少ない傾向が出ています。

 私は昨年4月1日から、読売新聞に出ているいくつかの国と東京都、千葉県を選んでエクセルで作った表に書き込んでいます。最初は日本を含む7か国が対象でしたが、今は12か国を取り上げています。

 日本国内は毎日の新規感染者と新規死者の数が都道府県単位に出ていますが、日本を除く各国の数字は累計だけで新規の数字は出ていません。エクセルの表では新規の数字を計算させて作っています。

 いろいろなことがわかりました。

 死者の数字は日本は1桁か2桁で、100名を超えたのは10日間、1月11日の121名が最高でした。あまり増減はありません。

 ところが増減の激しい国があります。私の表にはヨーロッパは、フランス、イギリス、イタリア、スペインの4か国ですが、感染者が一番なのはフランス、死者はイギリスです。イギリスの死者の累計は12万7681人です。一番多い日は1日あたりの死者が1800人を超えていました。ところが最近は激減しています。少ない日は6人でした。昨日は11人です。3月下旬からずっと2桁に減ってきました。

 ワクチンの接種が進んでいるのはイギリスはイスラエルに次いで2位と聞いています。やはりワクチンが死者を減らす一番の要因ではないでしょうか。日本でも一刻も早いワクチンの普及が望まれます。

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2021年4月24日 (土)

3回目の緊急事態宣言が出ることになった(NO.1460)

 令和3年4月23日、東京都、大阪府、京都府、兵庫県に緊急事態宣言が発令されることに決まりました。

 3回目となります。期間は4月25日から大型連休が終わる5月11日までです。

 新型コロナウィルスの感染拡大が止まりません。大阪では連日1000人以上の感染者で東京をはるかに超える日が続いています。東京も前週の同じ曜日の感染者数を超える日が続いています。大型連休中の人出を抑制するため、急遽3度目の制限が出たわけです。

 2回目と比べて今回は厳しい要請となっています。酒やカラオケを提供する飲食店は休業、デパートやショッピングセンターなどの大型の商業施設は生活必需品を除いて休業、テーマパークや映画館も休業、野球やサッカーなどのスポーツは原則無観客となります。

 今回宣言の対象にならなかった首都圏の神奈川、埼玉、千葉の各県では、まん延防止措置対象の市が追加されました。千葉県では4月20日から対象になっていた5市に加えて、7市が4月28日ころから対象に加わります。わが我孫子市も感染者数はそんなに多くないのですが、将来拡大する恐れがあるということで対象になりました。

 感染拡大は、病院の対応能力や3か月後に迫ったオリンピックのことなどを考えると、今回の宣言でぜひ抑え込まなくてはなりません。

 悪い例えかもしれませんが、太平洋戦争を知っている世代は、戦争中、鬼畜米英に勝つため、軍部に騙されながら、国民一丸となって戦争に協力しました。みんな同じ方向を向いていました。戦争を知らない世代は、戦後の自由を重んずる教育を受けたせいか、コロナに勝つために同じ方向を向いているようには思われません。ここは自分の楽しみを忘れてもコロナの感染を抑える方向に向く必要があると思います。コロナに勝てばまた自由を楽しめるのです。ぜひ一時的な楽しみを犠牲にして自粛の協力してほしいと思っています。

 戦争には負けましたが、コロナには勝たねばなりません。

 また、「政府は(読売新聞の社説を借りれば)、宣言期間を有効に使い、ワクチン接種や病院間の連携強化、病床や医療従事者の確保、検査体制の充実など、包括的な政策を急ぐことが肝要である」と思います。

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2021年4月22日 (木)

職場の思い出-その5 日本アイ・ビー・エム 仙台営業所(NO.1459)

 1975年6月、日本アイ・ビー・エム仙台営業所へ転勤となりました。家族は長女が小学校2年の1学期を終了した後7月25日に引っ越しました。

 仙台営業所は仙台市の中心の芭蕉の辻の安田生命ビルにありました。向かいは日銀の仙台支店、藤崎デパートのすぐ近くでした。

 私はフィールドSEマネージャーとして、七十七銀行、山形銀行、秋田相互銀行、大東相互銀行その他、東北地方の金融機関を担当することになりました。

 それまで担当した生命保険会社と証券会社では、本格的なオンラインシステムはまだでしたので、初めて銀行を担当する仙台営業所でバンキングオンラインシステムの厳しさを知ることになりました。当時は都市銀行や地方銀行にはオンラインシステムが導入されており、第二地銀の相互銀行や信金などはオンラインシステムが普及し始めていました。

 バンキングオンラインシステムは店頭やATMで直接顧客と結びついており、システムダウンが起こると大きな影響が出ます。最近のみずほ銀行のシステムダウンは社会問題となりました。

 七十七銀行では開発中の次期システムが思うようにいかず、経験者のサポートで軌道修正しました。私の知識不足、経験不足を痛感しました。

 秋田相互銀行はSEのリーダーシップで無事オンラインシステムが始まりました。大東相互銀行はオンラインシステムが動き出したばかりで初期トラブルもありましたが、SEその他関係者の献身的な努力もあって解決しました。

 当時エクセレントカンパニーと言われていたアイ・ビー・エムは、システムに必要なハードウェアを自社でカバーしようと、店頭で使われる端末やATMをすべて開発していました。他の優秀なメーカーの製品を組み合わせてシステムを作ることは考えられなかったのです。例えばIBM製のATMはアメリカでの防犯のため大型で大変重いものになっていたため、導入に際して床の補強が必要なところもありました。全国の銀行の店頭用に開発した端末は結局あまり採用されませんでした。

 仙台営業所では山形、秋田、郡山、福島、東京などによく出張しました。当時は東北新幹線や秋田、山形新幹線もなかったため、出張には時間がかかり、ホテルに泊まることもしょっちゅうでした。SEも出張が多く、顔をそろえるのは土曜日が多かったため休日出勤が増えました。

 仕事以外にも楽しみがありました。ゴルフ場の料金が関東に比べると格段に安かったため営業所の仲間でよく行きましたが、最後まで上達しませんでした。釣りには好きな仲間で女川に通いました。おそらく東日本大震災で女川のあの釣り宿も流されたのではないでしょうか。スキーにも何度か行きました。家族で出かけることも増えました。地方の営業所生活もまた楽しかったと思っています。

 1978年3月、3年弱の勤務を終えて、新入社員研修の部門に転勤になり新宿の住友生命ビルに戻ることになりました。

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2021年4月18日 (日)

職場の思い出-その4 日本アイ・ビー・エム 証券・地銀・信金担当営業所(NO.1458)

 1974年(昭和49年)7月、証券・地銀・信金担当の営業所に異動となりました。

 この営業所に所属したのは1年弱で、1975年6月には仙台営業所への転勤となりました。また1974年8月には我が家をけやき台団地から我孫子台マンションに引っ越しました。1974年にはオイルショックが始まり日本経済も大打撃を受けた年でもありました。

 新しい営業所では証券会社担当のフィールドSEマネージャーになりました。1974年にSEの組織変更がありました。それまでのSE課長を、部下を管轄するラインとしてのBOSEマネージャーと、部下はBOSEマネージャーに所属するが実質的には部下としてSEを率いるスタッフのフィールドSEマネージャーに分けたのです。

 私は証券会社担当SEのリーダーになりました。なぜか松本市にある松本信金も担当することになりました。証券会社や信金の業務やシステムは全く知りません。まずは担当SEから業務やシステムについて教わることから始めました。

 大和証券と日興証券は新しいオンラインシステムへの移行、山一證券はコンピュータ売込みでユニバックとの激しい競争になっていました。営業所全体の業績は好調でしたが、証券グループはオイルショックも重なり厳しい状態でした。

 証券担当SEグループのリーダーとして営業所長とぶつかることが何度かありました。もっと証券グループの抱えている問題に関心を持ってほしいと注文を付けたこともあります。

 それが原因かどうかはわかりませんが、赴任した翌年の6月突然仙台営業所への転勤が決まりました。何のために証券担当としてその営業所に呼ばれたのか理解できず、仕事をしたという充実感も味わう時間がありませんでした。

 短い間でしたが一緒に仕事をしたセールスやSEはとてもいい仲間でした。一緒に飲みに行ったのは保険担当のときより多かったと記憶しています。六本木や新橋のバーが証券グループのたまり場になっていました。今も証券グループの集まりには必ず参加しています。

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2021年4月15日 (木)

職場の思い出-その3 日本アイ・ビー・エム 保険担当営業所(NO.1457)

 1966年(昭和41年)に製造業担当営業所から生命保険会社を担当する営業所に変わりました。通勤も神田から新宿の安田生命ビルになりました。

 当時の主な生命保険会社と損害保険会社はパンチカードシステムからのつながりで、IBMのコンピュータが大きなシェアを占めていました。ところが日本のコンピュータメーカー急速に力をつけてきて、競争が激しくなっていました。

 三井生命にはIBM7070という大型コンピュータが導入されていましたが、その後継機種の導入をめぐってNECと激しい競争をしていました。そのため三井生命とつながりある人物を探し出して担当SEにしたのだと思います。

 システム/360モデル40の売り込みに成功したあと、7070のシステムからシステム/360へのシステム移行をサポートしました。退職をこころよく受け入れてくれた上司の言葉に応えた形となりました。

 しばらくして第一生命にもシステム/360モデル65が導入されることになり、第一生命担当SEに変わりました。

 第一生命は本社機能を日比谷のGHQに使われたビルから、神奈川県の大井松田に新築した大井本社に移していました。みかん山を買い取って本社ビルと独身寮を建設し、家族持ちの内勤社員は山のふもとに建設された家族寮に移るという画期的な本社移転でした。

 コンピュータもそこに導入されました。IBMは第一生命の独身寮の1部屋を借り、SEが泊まり込みで数か月の社員教育を行ったり、サポートをしたりしました。

 保険担当営業所は新宿から住友生命八重洲ビルに変わっていました。1972年からはSE課長として三井生命や第一生命を含めて5つの生命保険会社を担当しました。この年35歳にして自動車の運転免許を取りました。

 今のIBMの業務内容は知りませんが、当時はコンピュータなどのハードウェアをレンタルするか売却することが主な収入源でした。顧客ごとにセールスマンがアサインされ毎年クオータ(わかりやすく言えばノルマ)を達成しようと頑張っていました。

 SEにはクオータはありませんが、SE課長になるとクオータが割り当てられます。そしてクオータが達成できると、海外で行われるコンベンション(祝賀会のようなもの)に出席できます。1973年は香港に出席しました。1974年はシンガポールの予定がオイルショックのため海外に行けなくなり、京都に変わりました。

 1973年4月には営業所が八重洲から六本木の本社ビルの隣のアネックスビルに引っ越しました。そして1974年7月SE組織の変更にSE組織の変更に伴い、保険担当の営業所から証券担当の営業所に所属変更になりました。同じアネックスビルの1階違いです。

 保険担当営業所には8年半ほどでしたが、SEとして、途中からはSE課長として大変充実した時代でした。良い上司、良い同僚、良い部下に恵まれました。お客様ともよい関係ができ、今でもお付き合いしている方がいます。

 SE時代に印象に残っていることは1969年に韓国IBMから望まれて、韓国IBMの三星物産(今のサムソングループの前身)系列の東邦生命へのシステム/360モデル20の売り込みのサポートに行ったことです。本来の業務とは関係ありませんが、たまたま体が空いていたため白羽の矢が立った感じでした。

 当時は1ドル360円時代、円をドルに換えるには相手方のサポート依頼のテレックスを添えて申請する必要がありました。パスポートは1回限り、出入国には伝染病予防注射の証明書が必要でした。韓国は朴正煕の軍事政権で夜12時から朝4時までは外出禁止でした。入国時には持参した週刊誌を税関で1ページづつチェックされました。

 韓国IBMの売り込みは成功し、2年後にはシステム設計のお手伝いで再度訪韓しました。1回目は15日間くらい、2回目は25日間くらいソウルに滞在しました。

 なおそのころは、従軍慰安婦や強制労働などの問題は一切ありませんでした。

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2021年4月13日 (火)

松山英樹選手、マスターズ優勝おめでとう(NO.1456)

 2021年4月11日、アメリカのオーガスタ・ナショナルGCで行われたマスターズ・トーナメントで松山英樹選手が優勝しました。

 ゴルフの4大メジャー大会で日本男子が優勝したのは初めてです。女子では1977年の全米女子プロ選手権で樋口久子が、2019年の全英女子オープン大会で渋野日向子が優勝していますが、男子は4大大会の優勝者はいませんでした。松山はマスターズ10度目の挑戦で見事優勝者が着るグリーンジャケットに袖を通すことができました。

 読売新聞の見出しには、「震災10年『故郷』東北に恩返し」と出ていました。松山は東北福祉大学出身です。アマチュアとしてマスターズ初出場の大学2年のときに東日本大震災が起きました。大学のある仙台市が被災したため出場辞退も考えましたが、出場を後押しするメールや電話に励まされ出場し、アマチュア最高順位の27位になりました。東北は第2のふるさととして、被災地支援にも熱心に取り組んでいます。

 第1のふるさとは私と同郷の愛媛県松山市です。Wikipediaによると、4歳から父親にゴルフの手引きを受け、中学高校はゴルフ部のある隣の高知県の明徳義塾で学んでいます。そこから東北の東北福祉大に行ったのです。

 私は松山選手を知ってからは同郷ということもあってずっと応援していました。マスターズ優勝おめでとう!と言いましょう。

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2021年4月11日 (日)

コロナの日本の感染者の合計が50万人を超え、まんえん防止措置に東京、京都、沖縄が追加(NO.1455)

 令和3年4月10日コロナの日本の感染者の合計(クルーズ船、空港検疫などを除く)が50万人を超え、50万1473人になりました。死者は9389人ですのであと1月もすれば1万人を超えるでしょう。

 日本の感染者は緊急事態宣言が解除された3月21日には1日の感染者数が1518人でしたが、4月10日には3677人となり4日連続で3千人を超えました。大阪の感染者数は918人、東京は570人でした。

 そして政府は緊急事態宣言に準じた対策が可能となる「まんえん防止等重点措置」を、すでに対象となっている大阪府、兵庫県、宮城県に加えて、東京都、京都府、沖縄県に4月12日から適用することに決めました。対象は都府県全体ではなく、感染のまんえんしている都内23区や特定の市に限っています。

 感染が増大したのは「変異型ウィルス」の感染が広がったことです。また国民がコロナ慣れして自粛に飽きてきたこともあるようです。

 一方ワクチンの接種は4月12日から高齢者接種が始まります。やっとという感じです。我が家にも我孫子市から接種券が届きましたが、接種のスケジュールは未定とのことでした。65歳以上の対象者は約3600万人います。全員が受けられるのは、おそらく6月いっぱいはかかるのではないでしょうか。気長に待ちましょう。

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2021年4月 9日 (金)

手賀沼遊歩道の八重桜とコヒガンがほぼ満開(NO.1454)

 令和3年4月8日手賀沼遊歩道の八重桜とコヒガンの写真を撮ってきました。そろそろ満開ではないかと思ったからです。予想通りほぼ満開になっていました。

 昨年は緊急事態宣言が出た後の最初の土曜日4月11日に写真を撮っています。その様子は2020年4月12日の手賀沼通信ブログに載せています。

 今年は昨年より4~5日早い感じです。今年はどの花も咲くのが早くなっているようです。

 八重桜です。

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 コヒガンです。あまり木の数は多くありません。

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2021年4月 5日 (月)

職場の思い出-その2 日本アイ・ビー・エム 営業企画・製造業営業所(NO.1453)

 1964年(昭和39年)10月15日、日本アイ・ビー・エムに転職しました。

 最初の会社三井生命は9月15日に退職していました。休職中の10月10日には東京オリンピックが始まりました。

 日本アイ・ビー・エムの職場は永田町の本社ビルの営業企画部でした。地下鉄の赤坂見附駅から徒歩5分くらいのところにありました。職場での仕事は特になく、システムエンジニアとしての研修を受けることが仕事でした。

 当時日本アイ・ビー・エムは新しいコンピュータシリーズのシステム/360を発表し、広く人材を募集してました。研修も受講生はいろいろな会社を辞めて入社した中途採用の仲間でした。椎名社長の歓迎のあいさつで「みなさんの中に3千人目の社員がいる」と言われたのを覚えています。日本アイ・ビー・エムは日本経済の高度成長に合わせて急拡大し、入社時3千人だった社員が退職するときには3万人を超えるほどになっていました。

 東京オリンピックは大会の運営に初めてコンピュータによるオンラインシステムがが導入されたオリンピックでした。日本アイ・ビー・エムがそのシステムを作りました。コンピュータも人も無料で提供したようです。私は入社したときはすでにオリンピックが始まっていたので何もできませんでしたが、あとで配属された職場にはオリンピックで活躍した同僚が何人もいたのを覚えています。

 三井生命でコンピュータを使っていたこともあって研修は楽でした。全くコンピュータ経験のない人は結構大変だったようです。

 研修が終わったあとSEとして製造営業所に配属となりました。場所も永田町の本社から神田の営業所になりました。当時東京では営業所はインダストリー別に別になっており、SEやセールスマンはアイ・ビー・エムのコンピュータが導入されている会社の担当にそれぞれアサインされていました。

 私は荻窪のプリンス自動車担当のSEになりました。それまでいた保険会社とはまったく違う自動車業界で面食らうことばかりでしたが、すべてが新鮮で勉強することばかり、大変面白い体験でした。村山工場でプリンススカイラインの製造ラインで見たことは今も鮮烈に記憶しています。仕事はお客様に導入されていた1400シリーズのプログラムを何本か作成することが主でした。

 驚いたことは、担当しているときにプリンス自動車が日産自動車に吸収合併されると発表されたことでした。

 プリンス自動車を担当したのはわずか半年で、その後保険会社を担当する営業所に転属になりました。

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2021年4月 2日 (金)

緊急事態宣言が解除されたらすぐ第4波が来たみたい(NO.1452)

 令和3年4月1日政府は4月5日から5月5日まで大阪、兵庫、宮城の6市に「まん延防止等重点措置」を適用することに決めました。大阪市、神戸市、西宮市、尼崎市、芦屋市、仙台市に緊急事態宣言に準じた対策が可能となります。

 大阪府ではここ2日間東京都をはるかに超える感染者が出ていました。東京都も3月21日に緊急事態宣言が解除されて以来、感染者が前週の同じ曜日を超える日が続いています。日本全体を見ても緊急事態宣言後1日あたりの感染者が2000人を超える日が5日間もあり、2月初旬の状態にまで戻った感じです。

 原因の1つに、感染力の強い変異型ウィルスが兵庫、大阪に集中していることもありますが、春休みや年度末もあって、送別会、歓送迎会、お花見、謝恩会などで会食の機会が増えていることも感染の増加につながっていると言えます。

 コロナ対策の最前線にある厚労省のお役人23人が銀座の居酒屋で11時半まで飲み食いしていたように、国民の間にコロナを軽視する風潮も出てきました。あまりに長く自粛をしていたため、コロナ慣れしてきたのかもしれません。

 政府の対策も甘く、銀座の例ですが、ルール違反をした居酒屋の名前が公表されることもなく、罰則が科されたという報道もありませんでした。

 このままいくと第4波、第5波が来るのは間違いないでしょう。すでに第4波は来ているのかもしれません。ワクチンも医療関係者に打ち始めたという報道は華々しかったのですが、その後どうなったか、高齢者にはいつ打ち始めるかは聞こえてきません。

 まだまだ我慢は続くようです。

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