職場の思い出-その5 日本アイ・ビー・エム 仙台営業所(NO.1459)
1975年6月、日本アイ・ビー・エム仙台営業所へ転勤となりました。家族は長女が小学校2年の1学期を終了した後7月25日に引っ越しました。
仙台営業所は仙台市の中心の芭蕉の辻の安田生命ビルにありました。向かいは日銀の仙台支店、藤崎デパートのすぐ近くでした。
私はフィールドSEマネージャーとして、七十七銀行、山形銀行、秋田相互銀行、大東相互銀行その他、東北地方の金融機関を担当することになりました。
それまで担当した生命保険会社と証券会社では、本格的なオンラインシステムはまだでしたので、初めて銀行を担当する仙台営業所でバンキングオンラインシステムの厳しさを知ることになりました。当時は都市銀行や地方銀行にはオンラインシステムが導入されており、第二地銀の相互銀行や信金などはオンラインシステムが普及し始めていました。
バンキングオンラインシステムは店頭やATMで直接顧客と結びついており、システムダウンが起こると大きな影響が出ます。最近のみずほ銀行のシステムダウンは社会問題となりました。
七十七銀行では開発中の次期システムが思うようにいかず、経験者のサポートで軌道修正しました。私の知識不足、経験不足を痛感しました。
秋田相互銀行はSEのリーダーシップで無事オンラインシステムが始まりました。大東相互銀行はオンラインシステムが動き出したばかりで初期トラブルもありましたが、SEその他関係者の献身的な努力もあって解決しました。
当時エクセレントカンパニーと言われていたアイ・ビー・エムは、システムに必要なハードウェアを自社でカバーしようと、店頭で使われる端末やATMをすべて開発していました。他の優秀なメーカーの製品を組み合わせてシステムを作ることは考えられなかったのです。例えばIBM製のATMはアメリカでの防犯のため大型で大変重いものになっていたため、導入に際して床の補強が必要なところもありました。全国の銀行の店頭用に開発した端末は結局あまり採用されませんでした。
仙台営業所では山形、秋田、郡山、福島、東京などによく出張しました。当時は東北新幹線や秋田、山形新幹線もなかったため、出張には時間がかかり、ホテルに泊まることもしょっちゅうでした。SEも出張が多く、顔をそろえるのは土曜日が多かったため休日出勤が増えました。
仕事以外にも楽しみがありました。ゴルフ場の料金が関東に比べると格段に安かったため営業所の仲間でよく行きましたが、最後まで上達しませんでした。釣りには好きな仲間で女川に通いました。おそらく東日本大震災で女川のあの釣り宿も流されたのではないでしょうか。スキーにも何度か行きました。家族で出かけることも増えました。地方の営業所生活もまた楽しかったと思っています。
1978年3月、3年弱の勤務を終えて、新入社員研修の部門に転勤になり新宿の住友生命ビルに戻ることになりました。
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