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2021年4月 5日 (月)

職場の思い出-その2 日本アイ・ビー・エム 営業企画・製造業営業所(NO.1453)

 1964年(昭和39年)10月15日、日本アイ・ビー・エムに転職しました。

 最初の会社三井生命は9月15日に退職していました。休職中の10月10日には東京オリンピックが始まりました。

 日本アイ・ビー・エムの職場は永田町の本社ビルの営業企画部でした。地下鉄の赤坂見附駅から徒歩5分くらいのところにありました。職場での仕事は特になく、システムエンジニアとしての研修を受けることが仕事でした。

 当時日本アイ・ビー・エムは新しいコンピュータシリーズのシステム/360を発表し、広く人材を募集してました。研修も受講生はいろいろな会社を辞めて入社した中途採用の仲間でした。椎名社長の歓迎のあいさつで「みなさんの中に3千人目の社員がいる」と言われたのを覚えています。日本アイ・ビー・エムは日本経済の高度成長に合わせて急拡大し、入社時3千人だった社員が退職するときには3万人を超えるほどになっていました。

 東京オリンピックは大会の運営に初めてコンピュータによるオンラインシステムがが導入されたオリンピックでした。日本アイ・ビー・エムがそのシステムを作りました。コンピュータも人も無料で提供したようです。私は入社したときはすでにオリンピックが始まっていたので何もできませんでしたが、あとで配属された職場にはオリンピックで活躍した同僚が何人もいたのを覚えています。

 三井生命でコンピュータを使っていたこともあって研修は楽でした。全くコンピュータ経験のない人は結構大変だったようです。

 研修が終わったあとSEとして製造営業所に配属となりました。場所も永田町の本社から神田の営業所になりました。当時東京では営業所はインダストリー別に別になっており、SEやセールスマンはアイ・ビー・エムのコンピュータが導入されている会社の担当にそれぞれアサインされていました。

 私は荻窪のプリンス自動車担当のSEになりました。それまでいた保険会社とはまったく違う自動車業界で面食らうことばかりでしたが、すべてが新鮮で勉強することばかり、大変面白い体験でした。村山工場でプリンススカイラインの製造ラインで見たことは今も鮮烈に記憶しています。仕事はお客様に導入されていた1400シリーズのプログラムを何本か作成することが主でした。

 驚いたことは、担当しているときにプリンス自動車が日産自動車に吸収合併されると発表されたことでした。

 プリンス自動車を担当したのはわずか半年で、その後保険会社を担当する営業所に転属になりました。

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