職場の思い出-その3 日本アイ・ビー・エム 保険担当営業所(NO.1457)
1966年(昭和41年)に製造業担当営業所から生命保険会社を担当する営業所に変わりました。通勤も神田から新宿の安田生命ビルになりました。
当時の主な生命保険会社と損害保険会社はパンチカードシステムからのつながりで、IBMのコンピュータが大きなシェアを占めていました。ところが日本のコンピュータメーカー急速に力をつけてきて、競争が激しくなっていました。
三井生命にはIBM7070という大型コンピュータが導入されていましたが、その後継機種の導入をめぐってNECと激しい競争をしていました。そのため三井生命とつながりある人物を探し出して担当SEにしたのだと思います。
システム/360モデル40の売り込みに成功したあと、7070のシステムからシステム/360へのシステム移行をサポートしました。退職をこころよく受け入れてくれた上司の言葉に応えた形となりました。
しばらくして第一生命にもシステム/360モデル65が導入されることになり、第一生命担当SEに変わりました。
第一生命は本社機能を日比谷のGHQに使われたビルから、神奈川県の大井松田に新築した大井本社に移していました。みかん山を買い取って本社ビルと独身寮を建設し、家族持ちの内勤社員は山のふもとに建設された家族寮に移るという画期的な本社移転でした。
コンピュータもそこに導入されました。IBMは第一生命の独身寮の1部屋を借り、SEが泊まり込みで数か月の社員教育を行ったり、サポートをしたりしました。
保険担当営業所は新宿から住友生命八重洲ビルに変わっていました。1972年からはSE課長として三井生命や第一生命を含めて5つの生命保険会社を担当しました。この年35歳にして自動車の運転免許を取りました。
今のIBMの業務内容は知りませんが、当時はコンピュータなどのハードウェアをレンタルするか売却することが主な収入源でした。顧客ごとにセールスマンがアサインされ毎年クオータ(わかりやすく言えばノルマ)を達成しようと頑張っていました。
SEにはクオータはありませんが、SE課長になるとクオータが割り当てられます。そしてクオータが達成できると、海外で行われるコンベンション(祝賀会のようなもの)に出席できます。1973年は香港に出席しました。1974年はシンガポールの予定がオイルショックのため海外に行けなくなり、京都に変わりました。
1973年4月には営業所が八重洲から六本木の本社ビルの隣のアネックスビルに引っ越しました。そして1974年7月SE組織の変更に伴い、保険担当の営業所から証券担当の営業所に所属変更になりました。同じアネックスビルの1階違いです。
保険担当営業所には8年半ほどでしたが、SEとして、途中からはSE課長として大変充実した時代でした。良い上司、良い同僚、良い部下に恵まれました。お客様ともよい関係ができ、今でもお付き合いしている方がいます。
SE時代に印象に残っていることは1969年に韓国IBMから望まれて、韓国IBMの三星物産(今のサムソングループの前身)系列の東邦生命へのシステム/360モデル20の売り込みのサポートに行ったことです。本来の業務とは関係ありませんが、たまたま体が空いていたため白羽の矢が立った感じでした。
当時は1ドル360円時代、円をドルに換えるには相手方のサポート依頼のテレックスを添えて申請する必要がありました。パスポートは1回限り、出入国には伝染病予防注射の証明書が必要でした。韓国は朴正煕の軍事政権で夜12時から朝4時までは外出禁止でした。入国時には持参した週刊誌を税関で1ページづつチェックされました。
韓国IBMの売り込みは成功し、2年後にはシステム設計のお手伝いで再度訪韓しました。1回目は15日間くらい、2回目は25日間くらいソウルに滞在しました。
なおそのころは、従軍慰安婦や強制労働などの問題は一切ありませんでした。
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