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2021年5月27日 (木)

「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界遺産に(NO.1471)

 令和3年5月26日、青森市の「三内丸山遺跡」など17遺跡で構成される「北海道・北東北の縄文遺跡群」(北海道、青森、岩手、秋田)が、ユネスコの諮問機関イコモスにより世界文化遺産に登録を勧告されました。

 7月16日から開催される世界遺産委員会で正式に決定されます。この時には世界自然遺産として5月10日に勧告されていた「奄美大島、徳之島、沖縄北部及び西表島」も同時に決定されると思われます。一度に日本の2つの世界遺産が誕生する予定です。

 17遺跡は約1万5000年~2400年前の縄文時代のものです。大規模拠点集落跡の「三内丸山遺跡」をはじめ、北東アジア最古の土器が出土した「大平山元遺跡」、円形に石を並べた「大湯環状列石」などがあります。

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     三内丸山遺跡

 これらの集落跡や貝塚などの遺構・遺物は、クリやサケ、貝類などに恵まれ、採集・漁労・狩猟を基盤にした縄文人の定住生活の様相を証明しています。イコモスは「先史時代における農耕を伴わない定住社会及び複雑な精神文化を示す」と評価しました。

 私は2014年8月に三内丸山遺跡を訪問したことがあります。その広大さと見事な保存ぶりに驚きました。

 世界遺産について調べてみました。

 2019年現在、世界193か国に1121件の世界遺産があります。文化遺産869件、自然遺産213件,複合遺産9件です。

 国別では次のようになっています。

    国    合計 文化 自然 複合

1位 イタリア  55 50  5  0

1位 中国    55 37 14  4

3位 スペイン  48 42  4  2

10位 アメリカ 24 11 12  1

10位 イラン  24 22  2  0

12位 日本   23 19  4  0

 今年の7月には日本が合計25となりアメリカとイランを抜いて9位になる可能性があります。

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2021年5月24日 (月)

参院改革協議会は果たして機能するか(NO.1470)

 令和3年5月24日の読売新聞の社説に「参院改革協議会」について、「役割と権限の論議を避けるな」として次のように論じていました。

 「『1票の格差』是正のためだけの弥縫策を重ねてはならない。二院制における参院のあり方についても、本質的な議論を深めてほしい。

 参院各派の代表による参院改革協議会の設置が決まった。選挙制度をどう改めるかが焦点である。

 最高裁は昨年11月、最大3倍の格差が生じた2019年の参院選を合憲と判断した。同時にさらなる是正に向けた取り組みについて『大きな進展を見せているとはいえない』と苦言を呈した。(中略)

 次期参院選は来年夏に迫っているが、改革協議会はまだ初会合さえ開いていない。与野党の対応はあまりに遅すぎる。(中略)

 まず、望ましい二院制の具体像を論じ、それにふさわしい選挙制度を構想してもらいたい。衆参ねじれ国会では『強すぎる参院』が問題視され、与党が両院で多数を占めるときは『カーボンコピー』と揶揄される。こうした状況は改めねばならない。(中略)

 自民党は、改選ごとに各都道府県から1人以上を選出できるようにする憲法改正を提案している。衆院選では来年以降、より人口に比例して定数を配分するアダムズ方式が導入される。人口減少が加速する地方の声を反映させるため、参院議員の地方代表の性格を強めることは検討に値しよう。(後略)」

 私は2019年の参院選挙運動中に「参議院は日本にとって必要か」(2019年7月9日)と題するブログを書きました。その一部を引用してみます。

 「昨年(2018年)7月、1票の格差を憲法に違反しないよう議員定数を6増やした改正公職選挙法が成立したとき、これから急速に人口減少社会に突入する日本で議員定数を増やすことは時代への逆行ではないかと強く感じました。

 そこでネットで調べました。二院制を敷いているのは2016年現在、192か国中77か国で約40%です。欧米の主要国は北欧を除きほぼ二院制です。中国、韓国、台湾は一院制です。

 ところが欧米は二院制と言っても日本のように直接選挙で各選挙区の人口に基づいて議員が選ばれるのは日本とイタリアくらいです。

 アメリカは直接選挙ですが上院は各州定員2名です。イギリスは任命制と世襲制、ドイツは任命制、フランスは間接選挙、カナダは任命制などとなっています。」

 二院制のメリットとデメリットも書きましたが省略します。

 そして選挙が終わった後の2019年7月23日に、「やはり参議院選挙制度の見直しが必要」とブログに書きました。

 詳細は省略しますが、「予想通り、またまた1票の格差が問題として、弁護士グループが選挙の無効を求めて全国の8つの高裁に一斉に提訴しました」と書いています。その結果が読売新聞の社説の中に書かれています。

 私もこの際参議院の在り方と選挙制度を根本的に見直す必要があると思います。そのためには憲法改正が必要です。一番反対するのはおそらく対象となる参議院議員でしょう。

 改革のためには参院改革協議会任せではなく、国民やマスコミが強力な運動を続けることだと思います。

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2021年5月22日 (土)

職場の思い出-その8 アコム 教育部(NO.1469)

 1993年(平成5年)7月12日アコムに入社し教育部勤務となりました。3つ目の会社です。

 日本アイ・ビー・エムのリストラのSCP(セカンドキャリアプログラム)の推進を担当していたため、率先垂範でやめることを決め、上司の紹介でアコムに入社することになりました。

 最初はIBM出身でアコムのシステム部長の下で働くことになっていましたが、アコムの社長と面談した結果、よりキャリアを生かせる教育部のほうが適当と判断されたわけです。

 私も住所地が我孫子のため、2時間近くかかる蒲田より、同じ千葉県の西船橋のほうが格段に便利です。アコムは飯田橋が本社ですが、システム部は蒲田、教育部は西船橋でした。ここに1998年3月に退職するまで4年9か月勤務しました。

 アコムは「サラ金」とも呼ばれる消費者金融の会社でした。消費者金融会社は、一般消費者に、無担保で、少額のお金を、即座に、貸し出すという特徴がありました。その代わり利子は年率20%~29%という高利率でした。グレーゾーン金利と呼ばれていました。当時は消費者金融が、良くも悪くも、全盛期でした。武富士をトップに、アコム、プロミスが続き、それ以外にも多くの会社が乱立していました。

 アコムは私が入社した1993年10月に、株式を東証に店頭公開、翌年の1994年12月第二部市場、1996年9月には東証第一部に上場となりました。ただその後は、武富士はいろいろ事件を起こし消滅、アコムは三菱フィナンシャルグループに入り、プロミスは三井住友フィナンシャルグループの傘下となっています。

 2006年の最高裁の判決により、グレーゾーン金利が廃止され、金利は取りすぎということになり、返済をせざるを得なくなりました。

 私は教育部顧問で入社しました。特に決まった仕事はありませんでした。

 最初取り組んだのは教育部にある階段教室のリフォームとリノベーションでした。生命保険時代やIBM時代の人のつながりを活かして、有名企業の研修施設をアコムの教育部長や関係者と一緒に視察しました。

 アコムの教育部は全社の人材育成と人材開発が使命ですが、教育部の人が直接教えるのは新入社員研修の一部だけです。各階層の社員研修にはとても力を入れていましたが、ほとんどは外部の研修機関や教育機関を使いました。外部の研修メニューをそのまま使ったり、外部の講師に依頼するコースがほとんどでした。研修場所も階段教室と外部のホテルや研修施設をふんだんに利用しました。海外研修もありました。それだけ消費者金融が利益を生んだ時代だったからと思います。

 私の仕事も、適切な外部機関の選択、情報の収集や調査、人材育成のアドバイス、社内への広報などいろいろでした。そのため外部の研修や集まりなどへの参加が自由でした。ホテル開催の研修の事務局も任されました。教育部員の家族の葬式に部長の代理として北海道の留萌や北見に行ったこともありました。

 最後は人材育成についていくつか有名企業を調査し、社長以下関連部門の長に提言書をまとめました。65歳までの在籍が保証されていましたが、61歳で退職しました。やりつくしたと感じたからです。

 ここも楽しい職場でした。一緒に仕事をした仲間もほとんどが楽しい人たちでした。ありがたく感謝しています。

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2021年5月18日 (火)

楽に予約ができたコロナワクチン接種の我孫子方式(NO.1468)

 令和3年5月17日、コロナワクチン接種の予約をパソコンで行い、6月4日と7月8日に接種することになりました。

 高齢者向けのワクチン接種は全国で5月10日から始まりました。その予約方式は各自治体ごとに違うようです。

 我孫子市は5月10日から90歳以上の予約を開始、5月12日には86歳から89歳の予約を開始しました。そして5月17日に私宛に予約受付の案内が来ました。私は84歳ですが、17日に84歳と85歳の予約を開始したのです。

 接種できるのは接種日は違いますが、3つの病院です。そのうち準備出来次第病院は増えることになっています。また時期は遅くなりますが、かかりつけ医でも接種できるようになるようです。

 私は3つのうちの名戸ヶ谷あびこ病院を指定し、空いている日に申し込みました。パソコンは一発でつながりました。電話やスマホでも申し込めますが、使い慣れているパソコンにしました。ただ、市からの案内には、電話番番号やスマホのQRコードは出ているのですが、パソコンの予約サイトは60数桁の予約サイトのアドレスが出ていただけでした。60数桁インプットするのは面倒なので「我孫子市ワクチン予約」で検索したらなんとか予約サイトにたどり着けました。

 年齢を分けて予約を受け付けている自治体はありますが、もっと大まかな分け方が多いのではないでしょうか。年齢を細かく分けて受け付ける我孫子方式は、市の作業は増えると思いますが、申し込む者にとっては楽だと思います。妻は70代なのでまだ先になりそうです。

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2021年5月16日 (日)

緊急事態宣言、まんえん防止に対象を3つずつ追加(NO.1467)

 令和3年5月16日から、緊急事態宣言対象に北海道、岡山県、広島県を5月31日まで、まんえん防止等重点措置の対象に群馬県、石川県、熊本県を6月13日まで追加することに決まりました。

 これで緊急事態宣言は9都道府県が5月31日まで、まん延防止等重点措置は7県が5月31日まで、3県が6月13日までとなりました。

 当初の政府案は1道5県をまんえん防止に追加する案でしたが、強い措置を求める専門家の意見に従い変更したようです。

 私は政府の対応は、「甘い」「遅い」「基準がはっきりしない」と感じています。ワクチンの接種が先進国の中で最も遅れている国の1つになっている以上、専門家や自治体の意向に沿って厳しい措置を講じてほしいと思っています。

 個人的意見を言えば、1回目の緊急事態宣言のときのように、休業や閉館を徹底して感染者と死亡者の抑制を図るべきと考えます。

 15日の読売新聞朝刊は、私のような強硬意見ではありませんが、政府の対応を批判していました。今回の緊急事態追加に対して、「『宣言妥当』訴え噴出」「政府と専門家 温度差露呈」「対象外地域も深刻」などの見出しが見られました。

 社説には、「ちぐはぐ対応で混乱広げるな」というタイトルで、「コロナの感染防止には、国民一人ひとりの協力が不可欠だ。そのためには、政府や自治体、医療関係者、専門家らが足並みをそろえ、収束に向けて今何をなすべきか国民に示すことが大切だ」と結んでいました。

 オリンピック・パラリンピックも中止説が急増しています。私は開催してほしいと願っていますが、開催するにしても中止するにしても、国民の大多数が納得するような説明が必要と思われます。

 

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2021年5月14日 (金)

職場の思い出-その7 日本アイ・ビー・エム 人事部門(NO.1466)

 1986年(昭和61年)9月1日、研修部門から人事部門に異動しました。人事部門の勤務が日本アイ・ビー・エムでの私の勤務の最後の職場となりました。

 日本アイ・ビー・エムの人事システムの特徴は、今はどうなっているかわかりませんが、当時は現場が人事権を持っていました。そして人事部門がいくつかに分かれていました。

 まず、大きくは本社人事部門と職場別人事部門に分かれていました。本社人事部門は会社全体の人事システムや規則などを作ることがおもな職務となっていました。職場別人事部門は、私が所属していた営業部門のほかに、CE部門、工場部門、管理部門などにそれぞれ人事があり、さらに営業部門では、お客様の業種ごとの統括本部に人事部門がありました。

 私が移動したのは営業人事で六本木の本社にありました。私の主な職務は、管理者研修、人材管理、合弁会社への出向、海外アサインメントなどでした。出向に関しては合弁会社から要求される人材と、出向要員の現場からノミネートされる人材がなかなか折り合わなかったことを覚えています。

 1988年からは人材管理担当としてスタッフからライン管理者となり仕事の範囲が増えました。1998年(昭和64年)1月には昭和天皇が崩御され、平成元年になりました。

 1991年7月から流通サービス統括本部の人材管理に異動しました。現場と直結した人事部門です。勤務場所が六本木から箱崎になりました。現場と直結していると言っても、人事評価や人事異動は所属長が行います。人事の役割は、人事上の情報の提供や調整、数字の管理や報告などです。

 1992年にはアイ・ビー・エムの本社が巨額の赤字を出し、12月にリストラが発表されました。日本アイ・ビー・エムの社内ではリストラではなく、SCP(セカンドキャリアプログラム)として発表されました。

 SCPは対象は50歳以上、目標人数は日本アイ・ビー・エム全体で3000人、期限は1993年6月30日でした。日本国内ではおそらく最初となる大規模なリストラでした。

 余談ですが、女性社員の重用や週休2日制など、働き方改革は日本アイ・ビー・エムが日本国内で先陣を切った感じでした。大規模リストラも日本アイ・ビー・エムが最初だったのではないかと思っています。良いほうも、悪いほうもトップランナーでした。

 SCPは強制ではありませんでした。4つの道が示され、定年まで勤務することも可能でした。退職者には退職金以外に、少なくない一時金が支給されました。一時金が出るため退職金は年金にする人が多かったように思います。退職者にはIBMの子会社に移る方法やIBMが紹介する人材配置会社を利用して転職先を探す方法もありました。

 1993年1月にはスタッフからラインになり、統括本部内のSCPを管理する立場になりました。楽しい仕事ではありませんでした。

 4月27日には四国の父がなくなりました。忙しい中5日間ほど休暇を取り伊予市へ帰省しました。

 そして自分も率先垂範で退職を決め、上司の紹介でアコムに就職することに決まりました。流通サービス統括本部からは対象者62名中40名が退職することになりました。

 1993年6月30日、56歳で28年8か月勤務した日本アイ・ビー・エムを退職しました。最後はストレスがたまりましたが、それまでの28年間は総じて楽しく仕事ができたと感じています。会社に、一緒に仕事をした仲間に心から「ありがとう」と言いたいと思います。

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2021年5月11日 (火)

「奄美・沖縄」世界遺産に(NO.1465)

 令和3年5月10日、世界自然遺産として推薦されていた「奄美大島、徳之島、沖縄北部及び西表島」が、ユネスコの諮問機関により世界遺産への登録が勧告されました。今年7月に開かれる世界遺産委員会で正式に決定されることになります。

 コロナで暗いニュースが多い中、大変うれしいことです。これで日本の世界遺産は自然遺産が5つ、文化遺産が19の合計24になります。

 今回の世界遺産は、鹿児島県の奄美大島と徳之島、沖縄県北部と西表島の4地区です。

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 (図は毎日新聞より)

 温暖な亜熱帯性気候で大規模な多雨林が広がり、アマミノクロウサギ(奄美大島)、トクニシマトゲネズミ(徳之島)、ヤンバルクイナ(沖縄)、イリオモテヤマネコ(西表島)などの絶滅危惧種や固有種が生息し、独特な「生物多様性」が特徴となっています。ユネスコは「希少な固有種に代表される生物多様性を保全する上で国際的にも重要な地域」と認めました。

 私は沖縄北部と西表島は行ったことがありますが、奄美大島と徳之島は行ったことがありません。健康上の理由からもう長距離の旅行はできません。そのうちテレビのトレッキング番組などで放送されると思いますので、それを楽しみに待ちましょう。

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2021年5月 8日 (土)

3度目の緊急事態宣言がまた延長(NO.1464)

 令和3年5月7日、政府は東京、大阪、京都、兵庫の4都府県に発令中の緊急事態宣言を5月11日から5月31日まで延長することを決めました。そして12日からは愛知、福岡の2県を対象に追加しました。

 また埼玉、千葉、神奈川、愛媛、沖縄のまんえん防止重点措置を5月31日まで延長、北海道、岐阜、三重を9日から31日まで追加し、宮城を対象から外すことも決めました。

 3度目の宣言が出た時、5月11日までではいかにも短すぎると感じていましたが、31日までの延長となったのです。

 緊急事態宣言について振り返ってみましょう。

 1回目は昨年4月7日に1都6県に期限を5月6日までとして発令されました。時の安倍政権です。ところが感染が全国に広がったため、4月16日には対象を全国に拡大しました。解除は5月14日、21日と段階的におこなわれ、5月25日には首都圏1都3県と北海道が解除されておよそ1か月半ぶりに全国が解除されたのです。

 その後GO TO トラベルなどというおバカなことが行われ、感染が再拡大し、令和3年1月7日に1都3県に2度目の緊急事態宣言が出されました。

 2月7日まででしたが、その後7府県が追加され、1県を除く10都府県が3月7日まで延長されました。さらに首都圏の1都3県については3月21日まで2度目の延長がありました。

 その後感染が拡大、今年の4月25日に3度目の緊急事態宣言が宣言が出たのです。ゴールデンウィークの人出を減らす狙いでした。5月11日まででした。ところが冒頭にあるようにまた延長になったのです。そんな短期間に感染が収まるはずはありません。

 日本政府のお粗末さが明らかです。たしかに何種類もの変異型ウィルスが出てきたという想定外のことはありますが、何度同じことを繰り返すのでしょうか。私は日本人は決してバカだとは思っていません。国のリーダーがしっかりしていれば、それに従うことはできると思います。あえて言うならそのようなリーダーを産めない国にしてしまった責任は国民にもあるのかもしれません。

 とにかく今は我慢を重ねこの苦境を乗り切っていくしかありません。

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2021年5月 5日 (水)

読書の終活「菜の花の沖」を読み終え「峠」へ(NO.1463)

 令和3年5月6日書棚の司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」文庫本6冊を読み終えました。これで司馬遼太郎の13作品を読み終えました。

 読み始めたのは1月1日でしたが、6巻目を読み終わるまでに今までかかったのは、途中でほかの本を11冊読んだためです。図書館で予約していたり、人にすすめられたりした本が入ってきたため、そちらを優先しました。

 「菜の花の沖」の主人公は江戸時代後期に活躍した、船頭であり、廻船問屋でもあった高田屋嘉兵衛です。

 嘉兵衛は淡路島の貧しい家に生まれ、少年時代厳しい差別に苦しめながら、兵庫に出て船頭になり、北前船で成功をおさめます。函館港を開き、国後、択捉で航路を開いたり、アイヌと仲良くなって漁業を発展させ、それを兵庫や大阪に運びました。幕府のためにも、商売を弟に任せて尽くします。

 物語の後半は一連の事件が主題です。ロシアのフヴォストフの日本に対する理不尽な暴虐、日本によるゴローニン艦長の逮捕幽閉、ロシアによる高田屋嘉兵衛の拉致とロシアでのリコルド艦長との友好的な生活、最後にゴローニンと嘉兵衛の交換などが描かれます。

 小説では北前船に始まって、松前藩による強圧的な蝦夷支配、嘉兵衛兄弟などの蝦夷地の開拓や漁業や物資の輸送、ロシアのシベリア、カムチャッカ、樺太、千島列島への進出の背景などがいろいろな資料を基に述べられています。司馬氏の綿密な調査と資料の読み込みと分析がうかがえました。

 文庫本6冊にもなったのは、時代背景の描写にかなりの部分が占められていたためです。司馬文学の最高傑作のひとつと言えると思います。処分するのは惜しい気がしますが、終活です、仕方ありません。

 次に選んだのは「峠」文庫本2冊です。平成9年に購入しています。越後長岡藩の河井継之助が主人公です。維新史上最も壮烈な北越戦争に散った英雄の物語です。

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2021年5月 3日 (月)

職場の思い出-その6 日本アイ・ビー・エム 研修部門(NO.1462)

 1978年(昭和53年)3月、仙台営業所から、東京新宿の高層ビル住友生命ビルの26階にある研修部門に転勤となりました。

 家族は長女の小学校4年の修了式、長男の幼稚園の卒園式を待って3月末に我孫子台マンションに戻ってきました。マンションは学生時代にお世話になった堀さんに貸していたのですが、私の転勤が決まると堀さんの引っ越し先を一緒に探し、五反田のマンションを見つけました。

 私は1965年以来のスタッフ部門への移動でした。研修部門では営業部門に入ってきた新入社員研修のインストラクターになりました。

 営業部門の新入社員はセールスとSEの卵です。当時はセールスは4月からその年の秋まで、SEは4月から翌年の秋まで研修が続きます。その間、教室でのいろいろなコースでの研修と、営業所で先輩について実習するBOトレーニングを重ねていきます。この期間を経てそれぞれ1人前のセールスとSEになることになっていました。

 研修の最後にはマーケティングスクール(MS)というコースが関門としてありました。軽井沢や苗場や山中湖などの観光ホテルで約10日間ほどの合宿コースです。生徒がIBMのセールス,インストラクターが顧客のいろいろな役職となり、実際のケースを使って顧客を説得するというロールプレイです。最後に顧客が納得して契約が取れれば無事卒業というコースでした。

 アイ・ビー・エムも今はビジネスの形態が大きく異なっているので、このような時間と手間をかけた研修は行っていないと思います。

 当時はセールスで約7~8か月、SEの場合は1年半以上、いろいろなコースで生徒と一緒になるため、生徒の上司よりもインストラクターのほうがその期間は生徒のことをよく知っていることになりました。

 研修部門には新入社員研修のほかに、セールスやSE向けの研修、顧客の役員クラスや顧客の技術者向けの研修などいろいろありましたが、私の場合は新入社員研修が一番向いていたと思っています。

 1982年6月には事業所が新宿から川崎の自社ビルに引っ越しました。通勤に2時間近くかかるようになりました。

 新入社員研修に在籍していたのは4年10か月で、1983年(昭和58年)1月からは研修企画に異動しました。研修企画では研修のコースをまとめたCCAブックの作成、研修情報システム(アドバンスドEDIS)の開発、アメリカのアイ・ビー・エムの研修部門とのパソコン通信を使ってのやり取りなどが主な仕事でした。インターネットやノートパソコンなどはまだない時代で、IBM製のごつい5550という初期のパソコンが使われ始めていました。EDIS開発では深夜まで仕事が続くことが多く、川崎の日航ホテル泊まり込みが増えました。

 1985年5月には神田ビルに引っ越し、通勤がかなり楽になりました。そして1986年には営業人事に異動になりました。営業部門の人事をつかさどる部門で、六本木の本社勤務となりました。

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