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2021年5月 3日 (月)

職場の思い出-その6 日本アイ・ビー・エム 研修部門(NO.1462)

 1978年(昭和53年)3月、仙台営業所から、東京新宿の高層ビル住友生命ビルの26階にある研修部門に転勤となりました。

 家族は長女の小学校4年の修了式、長男の幼稚園の卒園式を待って3月末に我孫子台マンションに戻ってきました。マンションは学生時代にお世話になった堀さんに貸していたのですが、私の転勤が決まると堀さんの引っ越し先を一緒に探し、五反田のマンションを見つけました。

 私は1965年以来のスタッフ部門への移動でした。研修部門では営業部門に入ってきた新入社員研修のインストラクターになりました。

 営業部門の新入社員はセールスとSEの卵です。当時はセールスは4月からその年の秋まで、SEは4月から翌年の秋まで研修が続きます。その間、教室でのいろいろなコースでの研修と、営業所で先輩について実習するBOトレーニングを重ねていきます。この期間を経てそれぞれ1人前のセールスとSEになることになっていました。

 研修の最後にはマーケティングスクール(MS)というコースが関門としてありました。軽井沢や苗場や山中湖などの観光ホテルで約10日間ほどの合宿コースです。生徒がIBMのセールス,インストラクターが顧客のいろいろな役職となり、実際のケースを使って顧客を説得するというロールプレイです。最後に顧客が納得して契約が取れれば無事卒業というコースでした。

 アイ・ビー・エムも今はビジネスの形態が大きく異なっているので、このような時間と手間をかけた研修は行っていないと思います。

 当時はセールスで約7~8か月、SEの場合は1年半以上、いろいろなコースで生徒と一緒になるため、生徒の上司よりもインストラクターのほうがその期間は生徒のことをよく知っていることになりました。

 研修部門には新入社員研修のほかに、セールスやSE向けの研修、顧客の役員クラスや顧客の技術者向けの研修などいろいろありましたが、私の場合は新入社員研修が一番向いていたと思っています。

 1982年6月には事業所が新宿から川崎の自社ビルに引っ越しました。通勤に2時間近くかかるようになりました。

 新入社員研修に在籍していたのは4年10か月で、1983年(昭和58年)1月からは研修企画に異動しました。研修企画では研修のコースをまとめたCCAブックの作成、研修情報システム(アドバンスドEDIS)の開発、アメリカのアイ・ビー・エムの研修部門とのパソコン通信を使ってのやり取りなどが主な仕事でした。インターネットやノートパソコンなどはまだない時代で、IBM製のごつい5550という初期のパソコンが使われ始めていました。EDIS開発では深夜まで仕事が続くことが多く、川崎の日航ホテル泊まり込みが増えました。

 1985年5月には神田ビルに引っ越し、通勤がかなり楽になりました。そして1986年には営業人事に異動になりました。営業部門の人事をつかさどる部門で、六本木の本社勤務となりました。

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