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2021年9月26日 (日)

山の思い出-その4 南アルプスと中央アルプス(NO.1514)

 JR中央本線で甲府を過ぎ韮崎あたりに差し掛かると、左側の車窓から頂上に尖った岩を持つ山などの山並みがが見えてきます。これが南アルプスの前衛の山と言われる鳳凰三山です。とがった岩(オベリスク)を持つ山が地蔵岳、その左の観音岳、薬師岳を合わせて鳳凰三山と呼ばれます。

 1961年7月、三井生命のハイキング部でこの山に登りました。初めての日本アルプスでした。地蔵岳の頂上からは、北岳、仙丈ケ岳、甲斐駒ヶ岳などの南アルプスの名峰の絶景が眺められ、後方には富士山が顔を出していました。反対側には甲府盆地が一望できました。

 ただこの登山には苦い経験があります。かなり険しい急坂を登る必要があるため稜線近くで足にけいれんを起こして歩けなくなり、先輩に山小屋まで負ぶってもらうという無様な姿となりました。

 その2年後の1963年には南アルプスの盟主で日本第2位の北岳に登りました。やはりハイキング部の仲間と一緒でした。そして北岳から間ノ岳を経て農鳥岳まで、日本一の天空の稜線歩きを楽しみました。

 その数年後には日本第5位の槍ヶ岳に登っていますので、1位から5位までの日本の高峰に登ったことになります。

 1961年8月には中央アルプスの最高峰の木曽駒ケ岳にハイキング部9名で行きました。

 新宿駅を土曜日夜10時45分発の長野行準急「穂高」で出発、途中辰野駅で飯田線に乗り換え日曜日朝5時10分に伊那駅着。バスに乗り換えて6時40分から歩き始めました。ところがその日は雨だったので予定を変更し途中の西駒山荘に2時15分に到着。自分たちで夕食を作りゆっくり過ごしました。

 翌月曜日は天気が回復、ご来光を楽しんで、朝食を作り、6時45分に出発、木曽駒ケ岳、宝剣岳に登山、濃が池を経て下山しました。帰りもバスと列車2本を利用し、新宿駅に着いたのは火曜日の朝4時45分でした。

 今ではちょっと考えられない往復とも夜行列車を利用するという山行でした。火曜日はいったん家に帰って、着替えて会社に出勤しました。

 この登山についてはアルバムに写真と記録が残っていたので、細かく書いた次第です。

 その後は南アルプスと中央アルプスに行く機会はありませんでした。

 中央アルプスは1967年に駒ヶ岳ロープウェイが宝剣岳下の千畳敷まで開業しました。これを利用すると初心者でも楽に駒ヶ岳や宝剣岳まで行くことができます。

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2021年9月24日 (金)

「新しい歴史教科書」を発行する自由社が国家賠償請求訴訟を提訴(NO.1513)

 手賀沼通信第278号に投稿いただいた「新しい歴史教科書をつくる会」の埼玉県支部長の篠原寿一氏から「つくる会FAX通信」をいただきました。「自由社が国家賠償請求を提訴」についてのFAXでした。

 内容は次の通りです。

 「『新しい歴史教科書』を発行する自由社は9月21日、文科省の令和元年度検定において「違法検定」がなされ、その結果著しい被害を被ったとして、逸失利益など計1200万円を求めた国家賠償請求訴訟を提訴しました。

 被告は国(上川陽子法務大臣)に加え、検定の実質責任者である中前吾郎主任教科書調査官、村瀬信一教科書調査官(自由社担当)、黒沢文貴教科書検定審議会社会科部会歴史小委員長の個人三氏となります。

 自由社は訴状において、中前吾郎と村瀬信一両被告が、共謀のうえ、一発不合格制度を適用して自由派を不合格にすることを企て、検定意見を水増しし、合計405件にまで検定意見を積み上げたとしました。さらに黒沢文貴小委員長については、水増しされた検定意見であることを知りながら、同小委員会を主導して405件の一発不合格の検定意見を決定したとして、三氏の検定における違法性を訴えました。またその証拠として、ダブルスタンダード事例を含む50件の違法検定意見を提出しました。(後略)」

 篠原さんはコメントとして、

 「国家賠償請求裁判はなかなか難しい裁判だそうですが、文科省の左傾化をこれ以上放置することは危険であり、国家として日本国のためにならないという判断です。私も当事者の一人として記者会見に臨みました。産経新聞は掲載してくれましたが、他の新聞は無視なのでしょうね。司法省記者クラブの会見では10社以上のマスコミが出席しましたが、文科省記者クラブは5~6社でした。」とありました。

 全く別の話ですが、自民党総裁の候補になっている河野太郎氏の父親の河野洋平氏は官房長官時代にいわゆる従軍慰安婦の強制性を認めたうえ、謝罪するという「河野談話」を発表した張本人です。これがありもしない従軍慰安婦問題を大きくしました。

 自由社の教科書は従軍慰安婦を否定しています。

 私個人としては河野氏を応援していますが、もし総理になったときにも、この裁判に横やりを入れることはないと信じています。

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2021年9月20日 (月)

日本の高齢者が人口の29%、「超々高齢社会」へ(NO.1512)

 総務省は9月20日の敬老の日に合わせ65歳以上の高齢者の推計人口(9月15日現在)を発表しました。高齢者は前年比22万人増の3640万人、総人口に占める割合は29.1%となり、過去最高を記録しました(この数字を高齢化率と言います)。ダントツのダントツの世界一です。

 世界での高齢化率を調べてみました。世界の統計を発表しているグローバルノートによると、2020年の主な国の高齢化率は次のようになっています。

1 日本 28.4

2 イタリア 23.

3 ポルトガル 23.1

6 ドイツ 21.7

11 フランス 20.7

29 イギリス 18.7

39 アメリカ 16.7

43 韓国 15.8

64 中国 12.0

となっています。

 日本と合計特殊出生率がほとんど変わらない韓国でさえ43番目です。

 高齢化率が7%を超えると「高齢化社会」、14%を超えると「高齢社会」、21%を超えると「超高齢社会」と言います。日本は28%を超えているので「超々高齢社会」と言ってもいいのではないでしょうか。もっともこれは私の造語なので社会ではまだ通用しません。

 日本が7%を超えたのは1970年、14%を超えたのは1994年です。わずか24年で1ランク上げました。ドイツでは42年、フランスでは114年かかりました。

 なぜ日本がこれほど高齢者の割合が増えたのでしょうか。以下も私の独断ですが、まず当たっていると思います。

 原因は

1 日本は平均寿命がほぼ世界一長い

2 若い人が結婚しない、または諸事情で結婚できない

3 結婚しても子供を産まない、または諸事情で産めない

 ことだと思います。

 高齢化が進むと、年金や健康保険制度が成り立たなくなる。人口が減り社会の活力がなくなる。経済活動が衰退し、世の中から消えてしまう産業や企業が増える。など深刻な問題が出てきます。

 私のように80歳を超えた人間はもう出番はありませんが、政治家や若い世代の人たちは真剣に考えてほしいと思います。

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2021年9月18日 (土)

山の思い出-その3 北アルプス(NO.1511)

 日本アルプスの登山は20歳代に集中しています。その中でも北アルプスが強烈な思い出に残っています。私の山登りは雪山や本格的な岩登りではありませんが、短い間に結構高い山に登りました。

 1960年代は今と違って山に行く人は若い世代が中心でした。高齢者の登山姿はあまり見かけませんでした。山小屋は設備が乏しく食事も簡素、場所によっては今の避難小屋のように食料や寝袋持参の必要がありました。登山の装備もお粗末で、ザックやテントは木綿の重い生地が主でした。調理用具もガスコンロはなく、ガソリンか灯油のコンロでした。ポールやストックもありませんでした。スマホや携帯もなかったので、道に迷ったり遭難すると連絡方法はありませんでした。

 北アルプスに初めて登ったのは、三井生命入社2年目の1961年9月初旬でした。新宿駅を夜行列車で出発、松本電鉄に乗り継ぎ、島々からバスで上高地に入りました。メンバーは11名、上高地からは涸沢に入り、北穂高岳、奥穂高岳、前穂高岳を登って上高地に下りました。上高地の大正池は当時は枯れ木が数多く池の中に立っていました。初めてのアルプス縦走に怖さはなく、ワクワクしながら歩きました。

 2度目は翌年の1962年8月下旬、烏帽子岳に登り裏銀座コースを経て雲ノ平に行き、槍ヶ岳を目指しました。ところが雲ノ平で大雨に遭遇したため、槍ヶ岳はあきらめ、雲ノ平で2泊した後伊藤新道を通って湯俣温泉に下りざるを得ませんでした。雲ノ平は黒部川の源流域にあり、北アルプスの最深部で最後の秘境、雲上の楽園と言われています。

 3度目は1964年8月、立山と剣岳に登りました。富山市から電車、ケーブル、バスを乗り継ぎ、室堂に入りました。そこから立山と剣岳を登りました。立山は登りやすい山ですが、剣岳はカニノタテバイと呼ばれる岩登りの難所があります。その時のメンバーはハイキング部と言っても1人山のベテランがいましたが、他は素人集団です。よく登ったものです。山小屋からは黒部ダムまで下り、開通したばかりの関電トンネルトロリーバスで扇沢に出て帰途につきました。

 立山黒部アルペンルートが完成したのは1972年です。当時は黒部ダムまでは室堂側からは徒歩で降りるより方法がありませんでした。まだ観光客は来れなかったので、雄大で静かな黒部ダムをゆっくり見物できました。

 4度目はIBMに入社した後です。三井生命のハイキング部で一緒だったY君と2人で後立山縦走にチャレンジしました。白馬岳から鹿島槍ケ岳まで縦走する予定でした。ところが白馬岳に登った翌日、大雨に遭いました。仕方がないので鑓ヶ岳から鑓温泉小屋に下りました。雨の中の縦走は遭難の危険があります。

 そこで1泊した後、休暇を取っていたので、大糸線経由で直江津から佐渡島の小木に行きました。山から海に代わったのです。佐渡を観光して帰宅しました。若かったからこんなことができたのかもしれません。

 5度目はIBMの友人2人と英会話教室のアメリカ人の先生との4人で北アルプスの表銀座コースを縦走しました。北アルプスの女王と呼ばれる燕岳からあこがれの槍ヶ岳までの縦走です。好天に恵まれのんびり楽しみながら歩きました。槍ヶ岳の槍の穂の岩登りもみんな問題なくこなしました。帰りは槍沢を下って上高地に出ました。

 その時気の毒だったのはアメリカ人の先生が山小屋が苦手で、トイレと雑魚寝に苦労していました。たしかに当時の山小屋は快適とは言えませんでした。水洗トイレなどありませんでした。

 北アルプスの登山はこれで終わりましたが、その後観光で、黒部峡谷トロッコ電車、黒部アルペンルート、白馬山麓の栂池自然園、五竜アルプス山野草園、新穂高ロープウェイ、2度の上高地などを訪れています。北アルプスは山登りの面白さを教えてくれた思い出です。

 

 

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2021年9月15日 (水)

読書の終活「峠」を読み終え「関ケ原」へ(NO.1510)

 令和3年9月14日、書棚の司馬遼太郎の小説「峠」文庫本2冊を読み終えました。これで司馬遼太郎の14作品を読み終えたことになります。

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 読み始めたのは5月5日ですが、2冊を読み終えるまでに4か月以上かかったのは、途中で12冊の本を読んだためです。図書館で予約した本や妻に勧められた本を先に読みました。

 「峠」は平成9年に購入しています。読むのは今回で3度目です。「峠」の主人公は維新史上まれにみる壮烈な北越戦争を起こし戦場で散った河井継之助です。

 河井継之助は一藩士から実力によって家老に抜擢されます。開明論者であり、封建制度の崩壊を見通しながら、長岡藩を率いて官軍とあまり意味のない勝てない戦いをやることになります。その結果多くの藩士や農民を死に追いやる結果になります。

 「峠」では主人公のそのようはマイナス面にはあまり触れず、武士道に殉じた生涯を描いています。読み終わって司馬氏の他の小説のような爽快感はありませんでした。

 次に選んだのは「関ケ原」です。誰でも知っている関ケ原の戦いがどう描かれているか楽しみです。2度読んだはずですが、内容は忘れています。主人公は石田三成、司馬氏の「新史太閤記」の後を受け、「城塞」に続く3部作の真ん中です。

 平成9年から10年に購入した文庫本3冊です。

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2021年9月12日 (日)

緊急事態宣言が19都道府県で9月30日まで延長(NO.1509)

 令和3年9月12日、本日までだった緊急事態宣言が19都道府県で9月30日まで延長されました。

 北海道、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、東京、神奈川、静岡、岐阜、愛知、三重、滋賀、京都、大阪、兵庫、広島、福岡、沖縄の19都道府県で、宮城、岡山はまんえん防止措置に移行しました。まんえん防止措置はその2県と、福島、石川、香川、熊本、宮崎、鹿児島の6県が9月30日まで延長、富山、山梨、愛媛、高知、佐賀、長崎の6県が解除されました。

 今後は宣言解除は感染の減少などの5つの指標だけでなく、医療提供体制をより重視した新しい基準を適用することになりました。

 これで何度目の緊急事態宣言であり、何度目の延長でしょうか。国民は慣れっこになり緊急事態宣言の効果は減ってきています。人出は減っていません。菅首相は自民党総裁選への立候補を取りやめて、コロナ対策に専念するとのことですが、これを最後の宣言にしてほしいものです。

 明るい見通しとしては、ワクチンの効果がはっきりと出てきていることです。

 我孫子市の感染者が毎日メールで届きますが、高齢者が激減し、代わりに若い年齢層の患者が激増しています。日本国内の感染者数は8月13日に2万人を超え、一時は2万5千人を超えましたが、9月2日以降は1万人台となり、9月10,11日は8千人台となりました。

 ただ重症者数は日本国内で依然2千人を超えており、死亡者数も9月8日に89名となって今回の宣言下では最高になりました。

 9月10日現在のワクチン接種者数が、日本国内で約6308万人で、接種率が49.8%ですので、接種が進めば重症者も死亡者も減ってくると思われます。

 今年いっぱいでコロナに振り回される生活が終わってくれるよう願っています。

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2021年9月 9日 (木)

山の思い出-その2 尾瀬(NO.1508)

 私が山に熱中したのは1960年(昭和35年)、大学を卒業して三井生命に入社し、ハイキング部に入ってからです。1964年9月には三井生命を退社していますので約4年間の間は毎月のように山に行っていました。

 その後はほとんど山には行かなくなったのですが、尾瀬はほかのところに比べて一番好きだったので、歳を重ねてからも行きました。合計5回になりました。尾瀬を代表する燧ヶ岳と至仏山には2回ずつ登っています。

 最初に尾瀬を訪れたのは1961年11月でした。尾瀬ヶ原は草紅葉が終わりかけ、秋色濃いい景色となっていました。我々は13人のパーティでしたが、人影まばらで静かな尾瀬を楽しむことができました。

 2度目は写真は残っていますが記録がないのではっきりせず、その翌年か2年後かです。その時はバスを借り切り、会社のそばから出発したのを覚えています。人数は47名で全員三井生命の社員、8割は若い女性でした。その後妻となる女性も一緒でした。

 当時は尾瀬のハイキングがブームとなっており、社内で希望者を募ったところ、あという間にバスの定員いっぱいになりました。ブームとは言っても47名の大集団は目立ちました。7月で尾瀬ハイキングには絶好の季節、ニッコウキスゲの花が満開でした。いくつかのグループに分かれて、燧ケ岳登山や尾瀬ヶ原散策を楽しみました。

 当時はまだ尾瀬の木道は整備が不十分で、自然を守るルールも徹底せず、尾瀬が一番荒れていたときだったと思います。木道をすれ違う時は、どちらかが木道を降りて草原を歩かなければなりませんでした。尾瀬沼にはエンジン付きの渡し船があったくらいです。ごみの持ち帰りが始まったのは1970年代になってからです。私たち47名も尾瀬の自然を荒れさせるのに一役買ったかもしれません。

 それから約30年後の1991年と1992年に旅行会社の尾瀬ツアーに参加しました。バスと宿泊だけ予約して、あとは自由行動のツアーです。一人で参加し、尾瀬ヶ原散策、三条の滝見物や登山を楽しみました。

 1992年に至仏山に登ったときは、早朝だったため全く人に会わず、山頂を30分以上独占したのを覚えています。

 5度目は2003年の66歳のときに、東京都中推協の仲間15名で温泉と尾瀬ヶ原を楽しみました。6月で水芭蕉が咲いていました。マイクロバスで行き、尾瀬に入る前の岩鞍温泉で一杯やるのが主な目的だったようなハイキングでした。

 数年前に妻ともう一度尾瀬に行こうかと話し合ったことがありますが、もう体がついていかないだろうと考えやめました。

 尾瀬の風景は今でも目に焼き付いています。

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2021年9月 6日 (月)

東京パラリンピックが終わった(NO.1507)

 2021年9月5日、13日間にわたって私たちに感動を与えてくれた東京パラリンピックが終わりました。

 7月23日から始まった東京オリンピックと東京パラリンピックがすべて幕を閉じたことになります。パラリンピックもオリンピックと同じように新型コロナウィルスのため1年延期され、無観客で行われました。史上初めてのことでした。

 パラリンピックの閉会式は9月5日午後8時から東京・国立競技場で行われました。「多様性と調和」をテーマに、障害の有無にかかわらず互いを認め合う共生社会の実現を、鮮やかな色彩と音楽と人間のアクションで演出しました。印象に残る見事な閉会式でした。

 パラリンピック旗が小池都知事からパリ市長に引き継がれました。次回は3年後の2024年です。

 私にとってパラリンピックは新しい応援の仕方を教えてくれました。オリンピックは国と国との争いという感じで、何とか金メダルを取ってほしいと思っていました。ところがパラリンピックはメダル争いというより、アスリートがそれぞれの目標を達成してほしいと願うようになりました。

 初めに水泳の競技を見た時、皆さん障害を克服して、体のハンデを感じさせない泳ぎでゴールを目指していました。メダルや順位など気にしていない感じでした。感動でした。中にはメダルを目指す人もいるのは当然ですが、結果としてメダルを勝ち得た人のほうが多いように思いました。

 コロナの中、頑張ってくれたアスリートやボンティアの人たちに感謝感謝です。そしてこの大会は日本でなければ開催できなかったと思っています。

 最後に記録としてメダルの数を残します。

 東京パラリンピックは金13、銀15、銅23、総数51個でした。国別では、金、総数とも11位でした。

 東京オリンピックの金27、銀14、銅17より、銀と銅の数は上回りました。

 前回のリオパラリンピックは金ゼロで、合計24個でした。今回は、アテネ大会の金17、総数52個に次ぐ成績でした。

 東京大会は終わりましたが、パリを目指してアスリートの皆さんのご健闘を祈っています。

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2021年9月 4日 (土)

菅首相が突然次期総裁選に不出馬を表明(NO.1506)

 菅首相が令和3年9月3日、それまでの態度を豹変、突然次期自民党総裁選への不出馬を表明しました。菅首相は10月上旬で退陣することになります。

 読売新聞によると、新型コロナウィルス対応への批判に加え、党内の求心力が低下し、党総裁選(9月29日投開票)での再選は困難と判断したとありました。

 私の愚見では、新型コロナウィルス対策の失敗は、菅首相にも責任があるかもしれませんが、アベノマスクに代表される安倍前首相の失政を引き継いでいたこともあると思います。それに、国産ワクチンの開発の遅れ、外国産ワクチンの入手の遅れ、人口比で世界一の病床数がありながらコロナ患者受け入れを拒否する病院が多いなどの、日本の医療行政のお粗末さなどが足を引っ張ったのではないかと思います。厚生労働省や医師会などの罪も大きいと思います。

 菅首相の功績は、デジタル庁の設置、コロナ禍の中でオリンピック、パラリンピックを成功させたことです。

 ただ、これも私見ですが、菅首相には一国の首相としての風格が足りなかったような気がします。真面目な感じは受けますが、明るさ、信念、国民への説明、安心感、信頼感、リーダーシップが足りませんでした。

 後釜はだれになるでしょうか。岸田氏、河野氏、石破氏などの名前が挙がっていますが、何か物足りない気がします。

 田中角栄が勝利したときは、「三角大福中」と5人の大物がいました。結果的には5人とも首相になりました。「安竹宮」では2人が首相になり、安倍氏は息子が首相になりました。

 いずれにせよ日本を輝かしい国にし、日本人を幸せにしてくれる人が次期首相になってほしいと思います。

 

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2021年9月 2日 (木)

山の思い出-その1 石鎚山と富士山(1505)

  山の思い出には、登山だけでなく、キャンプ、高原散策、スキー、観光旅行などいっぱいありますが、いくつかにポイントを絞ってまとめたいと思います。

 まずは高校生で登った石鎚山と大学生で登った富士山です。

 初めて山らしい山に登ったのが、高校2年生の時の石鎚山です。父と中学3年生の弟と、家族づきあいをしていた父の友人とその娘さんとの5人で登りました。今から68年前のことです。

 石鎚山は標高1982メートルの西日本一の高峰、百名山としても人気のある山となっていますが、当時の私は愛媛県で一番高い山で、鎖場のある上りにくい山くらいの知識しかありませんでした。深田久弥が日本百名山を選んだのは1961年ですから、私が登ったとき(1950年ころ)は百名山ではありませんでした。

 その時の写真が2枚だけ残っていますが、普通の格好で麦わら帽子に運動靴、肩掛けのカバンに杖といった格好で、ザックも持っていません。近くの山に行くといった感じです。

 途中の成就社に泊まったのを覚えています。3っつの鎖場がありました。そのあとの登山でいくつもの鎖を利用しましたが、石鎚山の鎖は違っていて、たしか太い鎖で足先がかかるようにできていたと記憶しています。

 弥山(みせん)と言われている山頂に登りました。最高峰の天狗岳は当時は危険なため、高校生や中学生には登らせなかったようでした。下りは有名な面河渓谷への道を下りました。

 富士山は友人と2人で登りました。大学2年の時だったと思います。山梨県側の5合目の吉田口から登り、須走を通って御殿場口に下りました。8合目の山小屋に泊まりましたが、寝返りが難しいくらいのものすごい混雑でした。当時から富士登山は人気がありました。富士山頂から見たご来光が素晴らしかったのを覚えています。でも山に登るという実感はあまりなかったように思います。

 その後いろいろな山から富士山を見ましたが、富士山は登るより眺める山だと感じています。

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