山の思い出-その2 尾瀬(NO.1508)
私が山に熱中したのは1960年(昭和35年)、大学を卒業して三井生命に入社し、ハイキング部に入ってからです。1964年9月には三井生命を退社していますので約4年間の間は毎月のように山に行っていました。
その後はほとんど山には行かなくなったのですが、尾瀬はほかのところに比べて一番好きだったので、歳を重ねてからも行きました。合計5回になりました。尾瀬を代表する燧ヶ岳と至仏山には2回ずつ登っています。
最初に尾瀬を訪れたのは1961年11月でした。尾瀬ヶ原は草紅葉が終わりかけ、秋色濃いい景色となっていました。我々は13人のパーティでしたが、人影まばらで静かな尾瀬を楽しむことができました。
2度目は写真は残っていますが記録がないのではっきりせず、その翌年か2年後かです。その時はバスを借り切り、会社のそばから出発したのを覚えています。人数は47名で全員三井生命の社員、8割は若い女性でした。その後妻となる女性も一緒でした。
当時は尾瀬のハイキングがブームとなっており、社内で希望者を募ったところ、あという間にバスの定員いっぱいになりました。ブームとは言っても47名の大集団は目立ちました。7月で尾瀬ハイキングには絶好の季節、ニッコウキスゲの花が満開でした。いくつかのグループに分かれて、燧ケ岳登山や尾瀬ヶ原散策を楽しみました。
当時はまだ尾瀬の木道は整備が不十分で、自然を守るルールも徹底せず、尾瀬が一番荒れていたときだったと思います。木道をすれ違う時は、どちらかが木道を降りて草原を歩かなければなりませんでした。尾瀬沼にはエンジン付きの渡し船があったくらいです。ごみの持ち帰りが始まったのは1970年代になってからです。私たち47名も尾瀬の自然を荒れさせるのに一役買ったかもしれません。
それから約30年後の1991年と1992年に旅行会社の尾瀬ツアーに参加しました。バスと宿泊だけ予約して、あとは自由行動のツアーです。一人で参加し、尾瀬ヶ原散策、三条の滝見物や登山を楽しみました。
1992年に至仏山に登ったときは、早朝だったため全く人に会わず、山頂を30分以上独占したのを覚えています。
5度目は2003年の66歳のときに、東京都中推協の仲間15名で温泉と尾瀬ヶ原を楽しみました。6月で水芭蕉が咲いていました。マイクロバスで行き、尾瀬に入る前の岩鞍温泉で一杯やるのが主な目的だったようなハイキングでした。
数年前に妻ともう一度尾瀬に行こうかと話し合ったことがありますが、もう体がついていかないだろうと考えやめました。
尾瀬の風景は今でも目に焼き付いています。
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