九州旅行の思い出はあやふやなところから始まります。4歳か5歳のころ祖母に連れられて別府温泉の地獄めぐりをした記憶がかすかに残っています。血の池地獄、坊主地獄、海地獄などです。国民学校に上がる前で交通費がかからなかったため、祖母が何ヵ所か旅行に連れて行ってくれたようなのですが、なぜか山口県の秋芳洞で小舟に乗ったことと別府温泉の地獄めぐりだけが頭の片隅に残っています。子供心に強い印象を受けたためでしょうか。
1960年(昭和35年)3月、大学を卒業して帰省するとき、一緒に下宿して同じ大学に通っていた同郷のS君と東京から九州経由で遠回りして愛媛県に帰りました。卒業旅行などどいう言葉はその当時はありませんでしたが、どうせ帰るなら最後の思い出にと寄り道をしたのです。九州までの車中1泊、旅館2泊、九州内での車中1泊の旅でした。長崎、熊本、鹿児島、桜島、阿蘇山を回って別府航路で松山に戻りました。4月からはまた東京で新しいサラリーマン生活が待っていました。
ツアーで九州を回ったのは5度です。すべて妻が企画し二人で参加しました。
最初は1991年(平成3年)5月、54歳の時でした。3泊4日で、平戸、九十九島、長崎、雲仙、島原、熊本、阿蘇、山並みハイウェイ、別府、国東半島など、宮崎県と鹿児島県を除く5県を旅しました。
ショックを受けたのは1991年6月3日、私たちが宿泊した島原の近くの普賢岳が噴火し大火砕流が発生しました。島原の小涌園に泊まったのは5月15日でしたから、わずか19日後のことです。そのホテルは直接に被害はなかったようですが、もし同じ日だったらどうなっていたか、その後の旅は続けられなかったかもしれません。
2年後の1993年には同じ近畿ツーリストのツアーで、宮崎県と鹿児島県の南九州を回りました。2泊3日の日程でした。
一番印象に残ったのは指宿温泉の砂蒸し風呂と知覧の特攻平和会館でした。特攻平和会館で海に散った若い兵士たちが残して手紙を読んだとき、涙が出てきて仕方がありませんでした。
3回目は2014年(平成26年)喜寿の歳に妻からプレゼントされた「九州6県をめぐるご夫婦旅4日間」のツアー旅行です。ツアー名に「往復のぞみ号グリーン車 別府温泉・湯布院温泉・雲仙温泉の5つ星の宿に宿泊」というサブタイトルがついていました。
参加者は夫婦16組の32名、鹿児島県を除く観光名所を巡りました。熊本と長崎以外はそれまで行ったことのないところばかりで楽しい旅となりました。
4回目は2016年(平成28年)4月、阪急交通社の「阪九フェリー新造船利用 煌めくハウステンボスと軍艦島・姫路城4日間」というツアーでした。久しぶりに航空機を利用しましたが、九州地方は低気圧で大荒れ、午前中の2便は欠航でした。私たちの便は幸い予定通り出発できました。
翌日世界遺産の軍艦島を見物しました。軍艦島は港がないので波が高いと上陸できません。幸い波が収まり上陸できましたが、昔大勢の人出にぎわっていたところが見事に廃墟となっている光景は言葉になりませんでした。その後ハウステンボスに行き、昼間と夜のハウステンボスを楽しみました。イルミネーションが見事でした。
3日目は古い門司港を見物し新門司港から大阪の泉大津まで夜行のフェリー旅でした。戦前から1960年代までは、九州の別府から大阪までは関西汽船の豪華客船の別府航路が全盛でした。私も何度か利用しました。ところがその後航空機や高速道路が交通の主流になり、別府航路は廃止となりました。今はフェリーがそれに代わっています。このツアーの目玉の1つはそのフェリーに乗ることだったようです。ただ夜17時30分新門司港発、朝6時泉大津着のため瀬戸内海の景観を楽しむことはできません。朝6時についても観光地はまだ見物できません。そのためわざわざ兵庫県の姫路城までバスで引返すことになっていたようです。姫路城は3度目でしたが、新装なった白鷺城と見事な桜を楽しむことができました。
5度目は2017年4月、2泊3日の屋久島ツアーでした。この時も空の便でやきもきさせられました。羽田から鹿児島空港までは無事につきましたが、鹿児島地方は雨、屋久島行きの便は前の2便が欠航、私たちの便も飛ぶかどうか不明でした。このツアーも阪急交通社でしたが、添乗員はついていません。空港にも阪急交通社の人は誰もいませんでした。不安の中で待っているうち、やっと家内の携帯に阪急交通社から連絡が入り、飛ばなかったら鹿児島で宿泊ということがわかりました。時間になって飛ぶことがわかり、風雨の中屋久島空港に向かいました。
屋久島は1993年、白神山地とともに日本で初めて世界自然遺産に登録されました。屋久杉を始め貴重な自然が残されています。雨が多いことでも有名です。縄文杉を見に行く時間はありませんでしたが、屋久島の自然の美しさをたっぷり楽しめた旅となりました。
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