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2022年6月28日 (火)

ペットの思い出 ロッキーほか(NO.1611)

 太平洋戦争が終わった小学生から中学生だったころ、我が家には犬と猫が1匹ずついました。

 子犬と子猫の時から飼った記憶があるので、どこかで拾ったか、もらったのではないかと思います。当時はペットなどという言葉も考え方もありませんでした。ペットフードもなく、犬も猫も残飯を食べていました。

 狂犬病の予防注射だけはしたように思いますが、犬は放し飼いで、商家だった家の中と外を勝手に行き来していました。どこでもついてきましたが、子犬のころ海に放り込んだため海が嫌いになり海に近寄るのは嫌っていました。マルという名前で、家族にも近所の人にも可愛がられていました。

 猫はミーコという名前で私たち子どもがおもちゃ代わりにかわいがっていました。当時は家の中にノミがいるのは当たり前、アメリカ渡りのDDTという粉末の薬をまいてノミ退治をしていましたが、猫の毛の中にいれたところ薬が効きすぎて猫が一時的におかしくなったのを覚えています。

 その後は結婚してからもアパート、公団住宅、マンション暮らしが続き、犬や猫を飼える環境にはありませんでした。

 ところが1982年(昭和57年)12月妻が子犬を購入しました。ヨークシャテリアの雄犬でした。ロッキーと名付け我が家のアイドルになりました。私は45歳、妻と中学生の長女と小学生の4人家族に愛犬1匹が加わったのです。

 当時はマンション暮らしだったのでペットは飼ってはいけなかったのですが、内緒で飼うことにしたのです。ところがロッキーは散歩が3度の飯より好きという張り切りボーイで、家を出たとたんうれしいため大きな声で吠えたてます。すぐにばれてしまい自治会長から苦情を言われてしまいました。何とかそっと飼うよういろいろ苦心しました。

 そして1年半後の1984年6月、若松に2世帯住宅を建て引っ越しました。やっとロッキーも晴れて散歩を楽しむことができるようになりました。休日には3回、手賀沼公園や遊歩道を我が物顔に駆けていました。

 ロッキーは小型犬ですが、大型犬並みに元気がよく、頭もよくて私たちの言葉を理解していました。(親ばかかもしれません)。

 ところが1992年8月、散歩中に発作を起こし倒れました。フィラリアのため心臓発作を起こしたのです。動物病院で室内犬だから予防薬はいらないでしょうと言われたため、フィラリア予防の薬を飲ましていなかったのです。私たちのミスでした。

 別の動物病院を探して、いろいろ手を尽くして看病しましたが、その年の12月に死にました。10年ちょっとの命でした。

 家族同様にしていたので、みんなの悲しみは大きく、妻は体調を崩してしまいました。近くの動物専門の墓地に棚の1区画を借り、小さな骨壺を飾って定期的にお参りをしました。あの悲しみが大きかったためそれ以後はペットは飼いませんでした。

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2022年6月24日 (金)

参議院制度改革を唱える党はなぜ出てこない(NO.1610)

 令和4年6月22日、参議院議員選挙が公示され7月10日の投票に向けて選挙戦に入りました。545人が立候補、女性候補の割合は過去最大と報じられていました。定数は前回の選挙と同じく3名増えました。

 私はこの参議院議員選挙を腹立たしく感じています。

 3年前の参院選の直前「参議院は日本にとって必要か」というブログを書きました。その前年の2018年に、1票の格差が憲法に違反しないよう参議院の定数を6人増やしたのです。

 人口は少子化のため減少に転じていました。そんな時定数を減らして憲法違反に備えるのではなく、わざわざ定数を増やして憲法違反を防ごうとしたのです。議員を増やせばそれだけ費用が掛かります。今の国会は定数を減らすことができないのです。自分か仲間の首を切ることになるからです。そのため増やしたのです。日本のためを考えている議員はいないということを実証した感じです。

 それにもかかわらず2019年の参院選挙が終わったとき、また1票の格差が生じたとして、弁護士グループが選挙の無効を求めて全国の高裁に一斉提訴をしました。私は「やはり参議院選挙制度の見直しが必要」のブログを書きました。

 2回のブログで書いた内容を繰り返します。

 「2院制を敷いているのは2016年現在、192か国中77か国で約40%です。欧米の主要国は北欧を除きほぼ2院制です。中国、韓国、台湾などは1院制です。

 ところが2院制といっても議員の任期や選出方法は各国まちまちです。日本のように直接選挙で各選挙区の人口に基づいて議員が選ばれるのは日本とイタリアくらいです。アメリカも直接選挙ですが上院は各州定員2名です。人口には比例しません。

 政治論者の意見は、2院制のメリトッは国民の良識を代表する第2院が第1院の衝動的な行動に待ったをかけられることがあるが、デメリットとしては、両院の機能が重複しているときは無駄であり、ねじれ現象になれば政治が混乱するとしています。はたして今の参議院がメリットを有効に生かしているでしょうか。デメリットばかりが目立っているように思えてなりません」

 そしてその年10月からは消費税が10%に引き上げられました。

 その後も少子高齢化と東京への人口集中は加速しています。今後も参院選が行われるたび憲法違反の問題は消えないでしょう。

 いまの参議院は衆議院のコピーでしかありません。存在価値はどこにあるのでしょう。参議員議員にかかる歳費や諸経費や選挙に多額な経費がかかるだけです。アメリカにならって、参議院議員の定数は各県2名に変えることなども考えてはいいのではないでしょうか。

 国会では「参院改革協議会」を設けて参院のあり方を考えているそうですが、今年の選挙公約に参議院改革を唱える党は見当たりません。マスコミも参議院改革については全く論じていません。

 こうなったら国民が改革を訴えるしかありません。非難の嵐を浴びるかもしれませんが、国民が選挙を棄権し投票率が10%を切ったりすれば政府や国会議員も考えるのではないかと、とんでもないことを考えています。

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2022年6月21日 (火)

いろいろな会の思い出-その3 いろいろな会(NO.1609)

 50歳台からいろいろな会に加入しました。ほとんどは退職後の60歳台から70歳台です。すべては覚えていないので一部省略しますが、記録の残っている会についてまとめてみます。

 一番楽しんだのは「あけぼの会」です。あけぼの会は柏在住の家田さんご夫妻が立ち上げた高齢者の会です。会員は私より年長の女性が多数を占めていました。

 この会に初めて参加したのはのは2001年64歳の時でした。あけぼの会は新年会、忘年会、年1回の1泊旅行、年数回の日帰りバス旅行、K監督による映画会、歌舞伎見物、能楽鑑賞、文楽鑑賞、落語見物、ソプラノショー、講演会などを組み合わせて年間11回ほどのイベントがありました。

 1泊旅行やバスハイクでは、私にとって初めての場所が多く家田会長のこだわりが楽しく感じられました。企画、運営は家田会長おひとりで考えられ、奥様がサポートをされていました。家田さんは9歳年上だったので途中から私とKさんが運営を手伝いまた。

 会長と会員が高齢となりだんだんイベントが減ってきて、最後は2019年1月のソプラノライブショーでおしまいとなりました。入会後、創立15周年と20周年の記念文集の編集を担当したのもいい思い出になっています。

 2番目に多くかかわったのが「東京都中推協」です。この会は東京都が主催する「中高年勤労者福祉推進員講座」を卒業した人が任意で加入する会です。私はアコム在職中の1994年57歳の時にこの講座を受けています。

 中推協には1996年1月の新年会から参加することになりました。この会もいろいろな企画がありました。途中理事となったので理事会や懇親会などが多かったのですが、都内の各所や箱根、湯河原などにも足を延ばしました。

 ビール工場見学、高野山参拝や、ふるさと丸ごとの企画で山梨県豊富村、長野県望月町、新潟県安塚町、佐渡などにも行きました。七福神巡りやご府内88カ所巡りなども楽しみました。都内に四国88カ所に該当するお寺があることを初めて知りました。2014年の神田川のお花見を最後に中推協を退会しています。

 社会保険労務士の資格を取るため、日本ライセンスセンターという資格学校に通いました。資格を取った卒業生が集まる会が「JLC社労士会」です。

 1994年57歳の時この会に加入しました。この会は懇親会と勉強会と情報交換会が主な目的でした。富士市や名古屋や京都でも観光と情報交換を兼ねた懇親会を持っています。社会保険労務士の開業をあきらめたので2002年ころにこの会を退会しました。

 2004年2月、2年間学んだ千葉県生涯大学を卒業しました。この生涯大学が縁となって4つの会に参加しました。

 「生涯大学歩こう会」は在校生と卒業生合同の会でした。10回近く参加しましたが、参加人員が大勢になることが多く、200人以上がぞろぞろ歩くこともありました。イメージが合わないので卒業の翌年には参加するのをやめました。

 福祉25期A組の同期の卒業生だけの会が「七曜会」です。2004年に始まり、10年たった2014年に活動をやめました。1泊旅行やバスハイクや観劇や見学会やお花見などを企画しました。幹事は1年交代、私も1年やることになりました。

 親友のKさんに誘われて72歳の時加入したのが「ゆうあい倶楽部」です。生涯大学の卒業生を中心にグラウンドゴルフを楽しむ会です。

 私は1987年50歳の時バイク運転中転んで鎖骨を粉砕骨折した以後ゴルフはやめていました。グラウンドゴルフもゴルフはやめたからと最初は断っていたのですが、始めてみるとゴルフと違って力も要らず、手軽で面白い競技でした。女性が多く、しかも強いということが理解できました。

 柏の公園がホームグラウンドでしたが、遠くのグラウンドまで車で行ったり、泊りがけで楽しんだりしました。しかし2012年75歳の時、突然体調を崩して背中や腰が痛くなり、グラウンドゴルフをやめざるを得なくなりました。ゆうあい倶楽部は一番辞めたくなかった会でした。

 生涯大学に縁のある4つ目の会は「わいわい楽友会」です。ゆうあい倶楽部をやめる少し前に「わいわい楽友会」で、飛鳥山公園や真鶴半島に行った記録があります。この会は珍しいところに行ってウォーキングと食べることと飲むことを楽しむ会でした。メンバーはゆうあい倶楽部とダブっている人たちがいました。私は足と胃は大丈夫だったので参加できたのでした。

 2012年4月から2015年12月の最終回までの間に10回ウォーキングやクルーズを楽しみました。

 1999年(62歳)から2002年(65歳)までかかわったのが「日本中高年生きがいづくり協会」です。なぜこの会に入ったのかは記録も記憶もありません。

 JALの退職者数人が中心メンバーとなって発足した会です。会長は我孫子在住者でした。最初の会合で配布された資料が素晴らしかったのを覚えています。主に都内で集まりましたが、長野県の木島平や熱海などでも会合を持ちました。参加者で生きがいづくりの目標や方法を話し合いましたが、結局成果の出ないうちに会も自然消滅した感じでした。

 我孫子の会は2つです。

 2004年(67歳)から2005年(68歳)までかかわっていたのが「アビコ・インターネット・ミュージアム(AIM)」という会です。これも参加した動機やきっかけは記憶にありません。10回くらい集まりました。我孫子市主催の福祉のイベントに参加したり、我孫子の美しさを示す資料を作ったりした覚えがありますが、会長が病気で亡くなったため会も消滅しました。

 いま私が所属しているのは「若松ふれあい会」ただ1つです。

 若松ふれあい会は2004年に、当時多発していた空き巣や侵入盗を予防するため若松第2自治会の有志8人が結成した防犯の会です。我が家も2001年12月に侵入盗に入られていました。ふれあい会の活動は週1回の防犯パトロールと警察の担当者による防犯ミーティングをタイムリーに開くことでした。

 若松ふれあい会はその後自治会役員の会への加入や有志の加入が増え、一時は20人以上にメンバーが増加しました。防犯パトロールも週3回になり、我孫子第一小学校の週3回の下校見守りの活動を始めました。

 あれから18年、会員の高齢化と新規参加者がなくなったことで会員は数名になってしまいました。ふれあい会のパトロールは週1回、下校見守りは週2回になりました。防犯パトロールはふれあい会から自治会へと役割が変わってきています。

 私は体調不良でパトロールは中止、週1回の下校見守りだけやっています。

 ここ30年間、自分でもあきれるほどいろいろな会に参加しました。民謡の愛友会はじめ楽しかった会ばかりでした。もう新たに会に入ることはありません。思い出しては楽しみにふけるばかりです。

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2022年6月17日 (金)

いろいろな会の思い出-その2 会社のOB会(NO.1608)

 1964年(昭和39年)9月、大学卒業後4年半勤務した三井生命を退職し日本アイ・ビー・エムに転職しました。27歳の時ででした。ちょうど1回目の東京オリンピックが行われていました。そして1993年(平成5年)6月、28年8か月務めた日本アイ・ビー・エムを大リストラで退職しアコムに入社しました。56歳の時でした。アコムは1998年(平成10年)3月に退職しました。

 アコムは縁が切れましたが、三井生命と日本アイ・ビー・エムとはまだつながっています。

 三井生命とは同期入社の会「さんご会」です。三井生命は日本生命に吸収され「大樹生命」に変りましたが「さんご会」は生きています。昭和35年に入社した大卒内勤社員42名で発足したことから会の名前が付いたようです。

 最初にこの会に参加したのはIBMを退職した年の12月のホテルニューオータニでした。その後は1泊旅行をしたり、水道橋の居酒屋で暑気払いと新年会を開いたりして旧交を温めています。

 今はコロナで休会中ですが、メンバーが半数ほど亡くなっており再開しても寂しい会になると思います。

 IBMにはいろいろな会があります。

 会社がバックアップしているのは定年退職者の親鴨会です。1993年の大リストラ(正式にはセカンド・キャリア・プログラムーSCP)では定年前に辞めましたがその時やめた人は定年退職扱いになっています。親鴨会は堅苦しい雰囲気のため2回参加しただけです。

 リストラの直後、上司でもあった世話好きで顔の広いDさんがABC会を立ち上げました。私が一番多く参加しているのがこのABC会です。ABC会のメンバーで中国の蘭州大学や西域旅行を楽しんだこともあります。

 それ以外にも多くの会に参加しました。多くが職場や職種が同じだった人の集まりです。「SEの集い」「保険OB会」「証券OB会」「研修OB会」「人材管理担当者の会」、仙台事業所勤務の「青葉会」などです。同期入社の「39会」もあります。参加者の多い「金融システムOB会」からも毎回声がかかります。多くの会は年1回集まって、飲食や会話を楽しんでいます。ゲストを招いてスピーチをお願いする会もあります。

 3つの会社を経験しただけでほかの業界や他社のことはよくわかりませんが、IBM出身者は本当に集まるのが好きな人たちだと思っています。立ち消えになった会もありますが、やはりコロナのため休会中やオンラインで実施する会が多くなっています。

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2022年6月14日 (火)

あっぱれヤクルト、交流戦優勝(NO.1607)

 2022年6月12日、プロ野球交流戦が終了しました。

 今年はコロナ以前の試合形式で行われたため、昨年11試合もあった引き分け試合がゼロとなりました。交流戦は2005年に始まりましたが、引き分け試合がゼロだったのは2008年に次いで2回目ですのでめずらしい年だったとも言えます。またセリーグが55勝53敗と2年連続で勝ち越しましたが、これも初めての記録となりました。

 優勝は14勝4敗のヤクルトでした。昨年の日本シリーズに次いでの優勝はあっぱれです。交流戦のMVPはヤクルトの4番村上が獲得しました。

 またセリーグ最下位に低迷していた阪神が12勝6敗で交流戦2位となり、終わってみればリーグ4位になっています。

 セリーグ2位の巨人は交流戦を負け越したため、ヤクルトとの差が7ゲームと開き、今年の優勝に赤信号が点きました。巨人は先発投手が撃ち込まれ、打者はチャンスに打てないという状況が続いています。長嶋監督時代のようなメークドラマがない限り逆転優勝は難しいでしょう。

 交流戦はペナントを左右するということがあきらかになった年でした。

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2022年6月 8日 (水)

いろいろな会の思い出-その1 高校と大学(NO.1606)

 高校と大学の卒業生の会の思い出です。

 1955年(昭和30年)3月、松山南高校を卒業しました。私が所属する卒業生の会は2つあります。

 1つは「松山南高校同窓会関東支部」で戦後の松山南高校卒業生と戦前の松山高女の卒業生全員が会員です。もう一つは松山南高校第6期の同級会「南六会」です。

 「同窓会」にはいつから参加し始めたのかはっきりしませんが、1988年51歳の時、京王プラザホテルで開催された同窓会に参加した記録が残っています。その後場所を、お茶の水ホテル聚楽、駒場エミナース、虎ノ門パストラル、サンケイホールと変えながら開催されました。同窓会は年1回8月か9月に行われましたが、70代半ばまではなるべく参加するようにしていました。

 「南六会」はもっと早くから参加していました。同期なので皆さん顔見知り、年1回、飲食しながら近況報告やカラオケなどを楽しみました。何度か幹事も引き受け、墨田川川下りや寅さん記念館、矢切の渡しなどを組み込んだりしました。

 南六会は関東地区のほかに関西地区と松山地区にもあります。5年に1回くらい3地区合同の大会を開催しました。関東地区主催では箱根で2回、軽井沢で1回開催しました。関西地区主催では犬山と京都で開催しました。1泊2日の日程で観光を兼ねていました。松山地区主催の大会には参加できませんでしたが、関東と関西の大会には参加しました。

 関東の南六会は皆さん80歳の時を最後に会を閉じましたが、幹事経験者などで「ミニ南六会」と称して集まっていました。それも今はコロナのため中断しています。

 1960年(昭和30年)3月、一橋大学を卒業しました。

 大学の卒業生の会は5つの会を楽しみました。

 一橋大学では後半の2年はゼミナールを中心に学びます。私が所属したのは関恒義先生の「関ゼミ」で同期のゼミ生は10人でした。関ゼミの各年度の卒業生と在校生が立ち上げたのが「恒友会」でした。恒友会がいつから始まったのか記憶にありませんが、私が30代のころから、先生が退官されるまで毎年1回は開催していたように思います。その後は先生が古希、喜寿、傘寿、米寿などのお祝いの時に集まっていました。先生が亡くなられた後は追悼会で集まりました。

 「Q友会」は大学1,2年のクラスQ組の卒業生の会で60歳代から始めました。年2回4月と10月に決まった日に出られる人が如水会館に集まって軽い昼食や近況報告などを行っています。これもコロナでお休み中です。

 「昭和三五会」は昭和35年の卒業生が如水会館で一堂に会する会でした。一橋大学は当時は4学部で1学年合計500人くらいの小さな大学でしたので、全員集まっても400人くらいでした。

 1990年の卒業30周年記念大会に妻と出席した記録が残っています。その後は2015年まで5年に1度大会がありました。2015年の卒業55周年大会が最後となりました。

 仙台赴任中はわずか3年間でしたが仙台如水会に参加しました。仙台近辺在住者と仙台赴任中の同窓会でした。1976年6月には東北地区合同大会を開催して、大学の先輩で作家の城山三郎氏を招いて講演をお願いしています。

 学生時代は尺八のクラブ「一竹会」に所属していましたが、卒業後30年以上たってからその卒業生の会「如竹会」に加入しました。尺八はやめていたので懇親会だけのメンバーでしたが、その後退会しました。

 

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2022年6月 7日 (火)

コロナの日本国内の1日あたりの感染者がやっと1万人以下となった(NO.1605)

 2022年6月6日のコロナの日本国内の感染者が9106人となり1万人を下回りました。

 1万人を超えたのは1月12日だったので、感染者が1万人以下となったのは約5か月ぶりとなります。1月11日は6378人だったのが、12日には13244人となり、ピークは2月8日の10万1280人でした。

 1万人を超えてからピークまで24日しかたっていません。オミクロン株の感染スピードがいかに速かったかを物語っています。

 ピークの後は増減を繰り返し、ピークから約4か月かかってやっと1万人を切ったのです。

 月曜日は1週間で一番少ないので、6月7日はまた1万人を超えると思いますが、減少傾向は続いています。このままいけば秋までには1月3日の782人(3桁)以下、年内には昨年12月6日の60人(2桁)以下となるのではないかと期待しています。

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2022年6月 5日 (日)

子供の出生数が過去最少、死亡数が戦後最多で人口減少はどうにも止まらない(NO.1604)

 令和4年6月3日厚生労働省が2021年の人口動態統計を発表しました。

 1年間に生まれた子供の数は81万1604人で6年連続で過去最少を更新しました。1人の女性が生涯に産む子供の数を示す「合計特殊出生率」は1.30で6年連続の低下でした。ちなみに2020年の数字ですが、韓国が0.84で最小、フランスが1.83、アメリカは1.64となっています。

 一方死亡者数は143万9809人で戦後最多となりました。出生数から死亡数を引いた人口の自然増減は62万8206人で過去最大の人口減となっています。

 厚労省は出生数の減少の原因は15~49歳の女性人口が前年より44万人減ったことに加え、新型コロナウィルス渦での出産控えが一因となったとみています。

 私は別の見方です。1つは若者が以前ほど結婚しなくなったこと、2つ目は結婚しても産む子供の数が少なくなったことが原因とみています。

 人口減少を防ぐには、結婚しない原因を突き止めて、それを防ぐ対策を取ることが必要と思います。

 まず若者の意思改革が大切です。また、結婚できる所得がない、共稼ぎで子育てができる環境がない、だから結婚できないという声もよく聞きます。

 若者の親の世代を含めて、社会全体で少子化を防ぐことが必要でしょう。女性が働くのが当たり前の社会になっています。結婚年齢も高くなっています。子育てを女性だけに任せるのではなく男女共同して子供を育てる必要があります。教育費にお金がかかる時代になっています。働く人の所得をもっと上げることも考えなくてはなりません。

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