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2022年6月 8日 (水)

いろいろな会の思い出-その1 高校と大学(NO.1606)

 高校と大学の卒業生の会の思い出です。

 1955年(昭和30年)3月、松山南高校を卒業しました。私が所属する卒業生の会は2つあります。

 1つは「松山南高校同窓会関東支部」で戦後の松山南高校卒業生と戦前の松山高女の卒業生全員が会員です。もう一つは松山南高校第6期の同級会「南六会」です。

 「同窓会」にはいつから参加し始めたのかはっきりしませんが、1988年51歳の時、京王プラザホテルで開催された同窓会に参加した記録が残っています。その後場所を、お茶の水ホテル聚楽、駒場エミナース、虎ノ門パストラル、サンケイホールと変えながら開催されました。同窓会は年1回8月か9月に行われましたが、70代半ばまではなるべく参加するようにしていました。

 「南六会」はもっと早くから参加していました。同期なので皆さん顔見知り、年1回、飲食しながら近況報告やカラオケなどを楽しみました。何度か幹事も引き受け、墨田川川下りや寅さん記念館、矢切の渡しなどを組み込んだりしました。

 南六会は関東地区のほかに関西地区と松山地区にもあります。5年に1回くらい3地区合同の大会を開催しました。関東地区主催では箱根で2回、軽井沢で1回開催しました。関西地区主催では犬山と京都で開催しました。1泊2日の日程で観光を兼ねていました。松山地区主催の大会には参加できませんでしたが、関東と関西の大会には参加しました。

 関東の南六会は皆さん80歳の時を最後に会を閉じましたが、幹事経験者などで「ミニ南六会」と称して集まっていました。それも今はコロナのため中断しています。

 1960年(昭和30年)3月、一橋大学を卒業しました。

 大学の卒業生の会は5つの会を楽しみました。

 一橋大学では後半の2年はゼミナールを中心に学びます。私が所属したのは関恒義先生の「関ゼミ」で同期のゼミ生は10人でした。関ゼミの各年度の卒業生と在校生が立ち上げたのが「恒友会」でした。恒友会がいつから始まったのか記憶にありませんが、私が30代のころから、先生が退官されるまで毎年1回は開催していたように思います。その後は先生が古希、喜寿、傘寿、米寿などのお祝いの時に集まっていました。先生が亡くなられた後は追悼会で集まりました。

 「Q友会」は大学1,2年のクラスQ組の卒業生の会で60歳代から始めました。年2回4月と10月に決まった日に出られる人が如水会館に集まって軽い昼食や近況報告などを行っています。これもコロナでお休み中です。

 「昭和三五会」は昭和35年の卒業生が如水会館で一堂に会する会でした。一橋大学は当時は4学部で1学年合計500人くらいの小さな大学でしたので、全員集まっても400人くらいでした。

 1990年の卒業30周年記念大会に妻と出席した記録が残っています。その後は2015年まで5年に1度大会がありました。2015年の卒業55周年大会が最後となりました。

 仙台赴任中はわずか3年間でしたが仙台如水会に参加しました。仙台近辺在住者と仙台赴任中の同窓会でした。1976年6月には東北地区合同大会を開催して、大学の先輩で作家の城山三郎氏を招いて講演をお願いしています。

 学生時代は尺八のクラブ「一竹会」に所属していましたが、卒業後30年以上たってからその卒業生の会「如竹会」に加入しました。尺八はやめていたので懇親会だけのメンバーでしたが、その後退会しました。

 

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