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2022年7月27日 (水)

読書の終活「翔ぶが如く」を読み終え「城塞」へ(NO.1620)

 令和4年7月27日、書棚の司馬遼太郎の小説「翔ぶが如く」ハードカバー全7巻を読み終えました。これで司馬遼太郎の16作品を読み終えたことになります。

 この作品は司馬さんの小説の中で一番長い小説ですが、読み始めてから7か月と20日ばかりかかりました。途中で読んだ他の小説は3冊しかないので、いかに長くかかったかということです。前回にも書きましたが、本を読む気力と時間とスピードがなくなったことをつくづく感じました。私が本を読むのは夜と朝、寝床の中で読むことが多いのですが、すぐ眠くなってしまいます。老いのせいでしょう。

 「翔ぶが如く」は昭和50年から51年にかけて購入した第1刷です。読むのは今回で3回目になります。西郷隆盛が征韓論に敗れるところから、西南戦争で敗れ、さらに大久保利通が暗殺されるまでの物語です。

 幕末のさっそうとした西郷の活躍は出てきません。維新後の時代についていけない西郷の話ですが、それを全7巻の大作に書いたのはさすが司馬遼太郎といえるでしょう。書き終えるまで4年の歳月を費やしています。おそらく膨大な資料を読みつくしたのではないでしょうか。「竜馬が行く」のように胸躍らせて読む作品ではありませんが、歴史を学ばせられる大作でした。

 次は豊臣政権の最後の大阪城落城を描いた「城塞」です。ハードカバー3冊の長編で、「関が原」に続く作品です。昭和47年に購入しました。

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2022年7月24日 (日)

コロナの日本国内の1日の感染者が初めて20万人を超え、世界最大の1日の感染者数となっている(NO.1619)

 2022年7月23日のコロナの感染者が20万975人となって初めて20万人を超えました。

 1日の感染者数としては過去最多で、世界最大を記録しました。一昨日の感染者もアメリカを超えて世界最大でしたので2日連続ということになります。

 昨日の日本の感染者は第6波のピークの約2倍、17道府県で過去最多となりました。東京都は3日連続で3万人を超えました。

 感染者は30代以下が6割を占めています。若い世代のワクチンの3回目の接種と60歳以上の4回目の接種を促進する必要があります。夏休み期間中の旅行や会食も必要最小限に限ったほうがいいでしょう。

 早く世界一の汚名を返上してもらいたいと願っています。

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2022年7月21日 (木)

情報発信の思い出-その1 ホームページ(NO.1618)

 ホームページは3つ作りました。その後2つは見られなくなり、1つだけが残っています。

 最初に作ったのは「手賀沼へいらっしゃい」というタイトルで手賀沼周辺のウォーキングコースを紹介したホームページです。

 ホームページを作るきっかけは、私が入会していたNPO法人「あびこ・インターネット・博物館」が公開している我孫子宣伝のホームページに倣って、我孫子にウォーキングで来る人のために参考になるホームページを作ってみようと考えたからでした。

 ホームページの画面を作るには通常HTMLという言語を使ってプログラムを書きます。ところが私はHTMLを知りません。そこで全くHTMLの知識がなくても画面をデザインできるIBMのホームページビルダーをいうソフトを購入しました。

 ホームページは契約しているインターネットのプロバイダーのサーバーの中に保存され、ユーザーがホームページのアドレスを指定すると読みだされます。ホームページを公開するには作成したファイルをプロバイダーのJCOMに転送する必要があります。JCOMは無料で100メガバイトのスペースを提供してくれ、5つまでのホームぺージを作ることができました。

 「手賀沼へいらっしゃい」を作るには準備として

①他の観光案内のHPを調べて、ダブらないよう毎月のベストコースを設定する

②観光スポットの写真を撮る

③コース地図を描く

④リンクするHPのオーナーに了解を取る

などをしました。

 ホームページビルダーとJCOMの説明書を印刷し精読しました。地図を作成するため無料のお絵かきソフトを入手しました。準備は大変でしたが、楽しくもありました。

 苦労した結果、2005年3月ホームページ「手賀沼へいらっしゃい」の最初のバージョンを公開することができました。その後少しずつ内容の精度を高め、写真をアップデイトするなどバージョンアップしました。

 ところが2016年9月JCOMがホームページのサポートを中止しました。「手賀沼へいらっしゃい」はあえなく見ることができなくなりました。理由はわかりませんが、スマホの利用が多岐にわたるようになり、インスタグラム、フェースブック、ツイッター、ブログなど、SNSの中心が変わってきて、個人のホームページの利用が減ったためではないかと思っています。

 2つ目のホームページは「手賀沼通信」をHPで見られるようにしたことです。手賀沼通信は最初は大学の後輩のKさんが、如水会ネットの恒友会ホームページに載せてくれていたのですが、自分のホームページに載せてみようと思い立ったのです。今では恒友会ホームページと私のHPの両方で手賀沼通信が見られますが、写真の画質などは恒友会ホームページのほうが鮮やかです。

 2006年8月に「手賀沼通信バックナンバー」として立ち上げました。最初はワードで作った手賀沼通信をホームページビルダーにコピーして作ったため見栄えの悪いものとなっていました。ところが49号からはKさんの作ったHDMLのファイルをいただけたので読みやすいものとなりました。

 しかしこのHPも2016年のJCOMのサービス停止のため中止の危機を迎えました。それを救ってくれたのがまたKさんでした。ホームページの掲載をサポートとしてくれるほかのプロバイダーを紹介してくれ、手賀沼通信をPDFファイルに変換して載せる方法を教えてくれたのです。

 おかげで「手賀沼通信バックナンバー」のHPは今も続けられています。

 3つ目のHPは大学のクラス会のHPでした。2012年前後に作った「Q友会ホームページ」です。これは如水会ネットとつないで利用するものでしたが、数年後に如水会ネットと接続できなくなり、作成も閲覧も不能となりました。

 ホームページ作成はとても楽しい経験でした。いい思い出になっています。

 

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2022年7月17日 (日)

コロナの日本国内の1日あたりの感染者が過去最多となった(NO.1617)

 2022年7月16日、コロナの日本国内の1日あたりの感染者数が11万676人となり過去最多を記録しました。1日あたりの感染者が11万人を超えるのは初めてです。

 全国的にみると、14県で過去最多となり、島根、愛媛、熊本、鳥取、大分県では第6波までのピークの2倍を超えています。西日本のほうで感染拡大が目立ちます。

 世界的には16日は15万8千のアメリカに次いで2位となりました。世界で1日あたりの感染者が2位となるのも初めてです。

 それでも感染防止の目立った方策は見られません。これでいいのでしょうか。

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2022年7月15日 (金)

コロナの日本国内の感染者の累計が1千万人を超えた(NO.1616)

 2022年7月14日、コロナの日本国内の感染者の累計が1千万人を超えました。

 読売新聞に毎日発表されているアメリカのジョンズ・ホプキンス大による統計によると、1千万人を超えている国はアメリカの約8900万人を先頭に34か国中13か国です。日本は14日の感染者が9万7788人となって13か国目になりました。

 14日の感染者数は、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリアに次いで5番目に多い数字となっています。アメリカに次いで3大感染国だったインドとブラジルは日本以下に抑えています。

 最近の増加傾向を見ると、15日には1日の感染者が10万人を超えることは間違いありません。10万人を超えれば2月8日以来となります。

 政府は経済活動の制限や各所の人数制限は設けないとしています。はっきりした理由はわかりませんが、第6波までの経験から、制限を設けててもあまり効果はないと判断したのかもしれません。経済活動を抑え込む影響の方が感染拡大より大きすぎると考えたのかもしれません。

 コロナは次々と変化しています。そのたびに感染が拡大します。いまのところ死亡者はそれほど増えていません。ワクチンを何度も打って重症化や死亡者を少なくすればいいと考えているのかもしれません。ただ、全国的な旅行の割引の実施は先延ばしのようです。

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2022年7月12日 (火)

手術、入院の思い出(NO.1615)

 初めて入院し、手術を経験したのは1987年(昭和62年)8月、50歳の時でした。

 バイクに乗っていて強風にあおられバランスを崩して転倒したのです。ヘルメットをかぶっていたので頭は大丈夫でしたが、右肩をしたたか打ちました。近くの方が救急車を呼んでくれて、我孫子外科に運ばれました。診断の結果、鎖骨の粉砕骨折でした。

 入院3日後に手術、入院は1か月に及びました。ちょっとした不注意で家族や会社に大迷惑をかけることになってしまいました。妻は最初の1週間は1日に3回来てくれました。その後回数は減りましたが最後まで来てくれました。退院後もリハビリのためかなり長い間通院していたのを記憶しています。

 2度目の入院と手術は2001年4月前立腺肥大の手術のためでした。4月16日、2泊3日のツアーで友人と2人で台湾に行きました。2日目の夜までは楽しく旅行を続けていたのですが、2日目の夜台北のホテルでビールをしたたか飲んでから、排尿の出が悪くなったのです。

 翌日の台北市内観光は観光どころでなくトイレ通いの連続でした。やっとの思いで帰国し苦しい1夜を過ごした後、翌朝車で近くの東邦病院に連れて行ってもらいました。泌尿器科の先生から「なぜもっと早く来なかったの。膀胱が破裂したら大変だったよ」と言われました。1600CCもたまっていました。「前立腺肥大症」でした。それまでは小水の出が悪いなと感じながら無視していたのです。2週間ほどの入院手術でした。

 3度目の手術は心臓の冠動脈にステントを入れる「経皮的冠動脈形成術(PCI)」でした。2004年12月、近くの医院で我孫子市の健康診断を受けました。その時心電図に異常が出たため、翌年1月松戸市の新東京病院でカテーテル検査などの精密検査を受けました。そこで冠動脈の狭窄が見つかったためステントを入れることになったのです。

 手術そのものは数日の入院で済みましたが、その前後のカテーテル検査にも1日の入院が必要で、定期的な検査も含めると何回か入院しました。昨年まで検査と薬を処方してもらうため3か月に1回通っていましたが、通院がしんどくなったため今は近くのホームドクターで薬だけもらっています。

 4回目の手術は眼の白内障の手術でした。柏の柏眼科で受けました。これは1日で終わるので入院は不要です。2009年5月にまず悪い方の左目の手術を受けました。翌日右目の手術もすればよかったのですが、右目は比較的よく見えていたのでそのままにしておきました。ところが左目と右目でみえる色が違うのです。手術していない右目の色はくすんで見えます。

 そこで翌20010年2月に右目の手術を受けることになりました。その時連続してやっていればよかったと後悔しました。理由は連続して手術すれば、両目で効果が実感できる、通院や目薬を入れる手間が1度で済む、メガネの変更が1度で済む、からです。手術すると裸眼の視力がよくなり眼鏡を作り直す必要がありますが、連続してやれば1度だけ作り直せばいいのです。

 4回目から6回目までの入院は手術なしの入院となりました。2016年10月8日の深夜2時にトイレに行ったら、突然おしりから大量の出血がありました。痛みはありません。便意があったのでトイレに駆け込んだのです。それが朝まで何度も続きました。妻と相談して救急車を呼びました。近くの名戸ヶ谷我孫子病院に運ばれました。その日の夕方我孫子駅の階段で転びました。てっきりそれが原因と思っていたのですが、病院の診断は大腸憩室出血で転んだのとは関係ないと言われました。高齢化で大腸の中に憩室ができ、憩室の中にたまった内容物が固くなって周囲の血管を傷つけて出血したとのことでした。

 そのまま入院で、食事は絶食、出血止めと栄養補給の点滴が続きました。出血が止まると1分がゆから始まり、100%のおかゆになると退院できます。11日目に退院となりました。

 それから2年後の2018年10月、日中にトイレで出血しました。前回の経験があるので2度目の大腸憩室出血というのがわかりました。妻に名戸ヶ谷我孫子病院に連れて行ってもらいました。前回とほぼ同じことの繰り返しとなりました。入院日数が2日伸びて13日目の退院となりました。直後に吉野熊野のツアーを計画していたのですが、キャンセルせざるを得なくなりました。血液サラサラの薬バイアスピリンを新東京病院でもらうのをやめました。少しでも出血のリスクを減らすためでした。

 ところが半年後の2019年3月、同じ病気で3度目の入院となりました。退院したのは14日目でした。その時決めたことは、宿泊を伴う旅行はやめるということです。この病気は何の前兆もなくある日突然出血が始まるのです。もし旅行中に発病したら周りにえらい迷惑をかけることになります。もう外泊はできないと実感しました。

 その後何か月か後に軽い出血がありましたが、絶食と病院でいただいていた出血止めの薬で入院は免れました。

 2020年7月、喉頭白板症のため5回目の手術と7回目の入院をすることになりました。2019年暮れから声を出すのが苦しくなったのです。名戸ヶ谷我孫子病院やがんセンターでいろいろ検査した結果、喉頭白板症と診断されました。がんが見つからなかったため、慈恵医大病院で手術をすることになりました。

 ところが2020年3月ころからコロナがはやり始め、緊急の手術以外は延期となりました。その結果7月まで待たされやっと手術ができました。そして昨年8月に全快したのです。一時は声が出なくなりましたが、今はほぼ元に戻りました。

 いま85歳と6か月なので、これから何の病気になるかわかりませんが、もう手術は受けたくなく、入院するにしてもできれば最後の1度だけにしたいと願っています。

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2022年7月 9日 (土)

安部元首相の突然死とコロナが第7波に突入(NO.1614)

 令和4年7月8日午前11時半ころ、奈良県の近鉄大和西大寺駅前で参議院選挙の応援演説をしていた安倍晋三元首相が銃撃されました。

 奈良県橿原市の病院にドクターヘリで急送されましたが、午後5時過ぎに死亡が発表されました。67歳でした。犯人は41歳の男で海上自衛隊に勤務経験があり、手製の銃器で銃撃したのです。動機はまだはっきりしませんが、安部元首相に個人的な恨みが絡んでいるように報道されています。

 安倍元首相は戦後最年少の52歳で首相になり、2回通算3188日の在職で歴代最年長を記録しました。日本は安全な国として世界でも認められていますが、こんな事件が起こるとは政府も国民も思っていなかったのではないでしょうか。本当に残念なことで、ご冥福をお祈りいたします。

 コロナが第7波とみられる感染拡大を広げ始めました。

 7月8日の日本国内の感染者は5万人を超え50,107人となりました。5月14日に約5万5千人を記録して以来です。感染者は全都道府県で増加しています。オミクロン株の新系統「BA・5」が広がったためと言われています。

 ワクチンの2回目接種は全世代で8割を超えていますが、3回目の接種は40歳代以下は31%~59%で、全世代平均は62%にとどまっています。感染は40歳代以下で目立っています。幸い死者数は第6波の時より少ないですが、増えてくる可能性があります。

 私は7月5日にワクチン第4回目を打ちましたが、60歳以上の4回目はまだ23%ですので、この実施を早めるとともに、3回目の接種率を上げていくことが必要と思われます。

 また旅行割引キャンペーンの(県民割)の全国版「全国旅行支援」は開始時期をすくなくとも第7波が収まるまで延ばす必要があると思います。「GO TO トラベル」の苦い経験を忘れてはならないでしょう。

 コロナとの付き合いは忍耐が必要と思います。中国のようなゼロコロナは論外ですが、個人個人が対処の仕方を考えることではないでしょうか。

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2022年7月 7日 (木)

PC,無線ラン、デジカメ、携帯などの思い出(NO.1613)

 初めてPCを購入したのは1994年(平成6年)12月でした。57歳の時です。日本アイ・ビー・エムやアコムの職場ではPCを使っていましたが、個人で持つのは初めてでした。

 IBMのPS/V VISIONで、本体とプリンターとモデムをあわせて約25万2千円でした。今のパソコンと比べるとはるかに機能が劣りますが、驚くほど高額でした。

 そして翌年1月にはパソコン通信専用にNTTの電話回線を6万4千円で購入しました。私がいつからインターネットを使い始めたのかはっきりした記憶はありませんが、インターネットの接続や電子メールの送受信は、NTTのISDNのデジタル回線を通じて行っていました。4月にはマイクロソフトのオフィスを入れ、マルチプラン、DOSワープロを外しています。

 PCはだんだん機能が向上し価格が安くなったので、今使っているのは8台目です。4台目まではIBM製でしたがその後IBMがPCの生産を中止したため、5台目からはデルのPCになりました。デスクトップが5台、最近は2台続けてノートパソコンです。

 最近はスマホが手軽に使えるので、パソコンからスマホに乗り換える人が増えていますが、私はパソコン派です。手賀沼通信や手賀沼通信ブログを書くにはPCのほうが使いやすいからです。

 2000年6月、テレビをアンテナからタイタス(今はJCOMになっています)のケーブルテレビに替えました。妻の希望でいろいろな番組を見るためでした。その際ネットの接続もタイタスの回線が利用できることを知りました。当時我が家は妻と長男もPCを使っていて、ネットには私と妻は同じNTTのISDNの回線を、長男は自分で回線を引いて利用していました。タイタスの回線を無線LAN経由して3台のPCとつなげば、速度は8倍以上になり回線の費用も大幅に安くなることがわかりました。

 2000年7月メルコ社製の無線LANの機器を買い求めました。いまの無線LANと違って、当時の製品は、エアステーション、スマートハブ、有線LANボード(私のPC用)、無線LANカード(妻と長男のPC用)ストレートケーブルからなっており、合計約7万1千円かかりました。

 最初のセットアップで機器の不具合があり、動き出すまでに機器の取り換えなど時間がかかりましたが、使い始めると無線LANは快適でした。PCは家の中どこに持っていってもインターネットや電子メールを使えました。電話回線の場合はつなぎっぱなしというわけにはいきませんでした。料金が加算されるからです。無線LANはそれを気にする必要がなくなりました。

 その後何台か取り換え今は4台目になっています。機器も本体だけでよく、プリンターも接続できます。価格も格段に安くなりました。

 デジカメは1998年4月に購入したソニーのデジタルマビカが最初です。61歳の時でした。まだデジカメが世に出始めたころで、デジタルマビカは高い買い物となりました。定価10万7千円で、41万画素、記憶媒体はフロッピーディスクでした。フロッピーは当時のパソコンの記憶媒体でいまならUSBに代わるものです。写真が直接フロッピーに撮れるのがいいと思って買ったのが失敗でした。フロッピーは記憶容量が小さかったのでとれる枚数が少なく、41万画素のため焦点ボケのような写真になりました。

 仕方なく同じ年の11月にキャノンIXYを購入しました。その後デジカメも次々といろいろなメーカーから新しいカメラが出てきて、高性能化するものと、携帯に便利な軽くて安いものとなりました。私は写真そのものの趣味はないので、旅行や日常生活を記録するのに便利な小型デジカメを愛用しています。いまのカメラは5台目です。

 携帯電話は人よりだいぶ遅く持つことになりました。東日本大震災後のことです。ガラケーでした。長男一家が仙台赴任中に被災したため、やはり携帯があったほうがいいと感じたからです。

 そして今はスマホに替えましたが、スマホを持ったのは家族9人中9番目でした。いまはスマホの使い方を孫に教わっています。

 パソコンからデジカメまでは時代の先のほうを走っていましたが、今は時代の後方から追っかけている感じです。

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2022年7月 3日 (日)

クルマの思い出 乗用車とバイク(NO.1612)

 私が自動車運転免許を取ったのは1972年(昭和47年)10月、35歳の時でした。その時代としては普通かやや遅い年齢だったと思います。妻は1981年、38歳、当時の女性としてはやや早い年齢だったのではないでしょうか。

 最初の車は三井生命時代の後輩から3万5千円で譲ってもらったダイハツのツードア4人乗りでした。その当時でも3万5千円は格安でした。免許取得直後に埼玉県新座市から立川市のケヤキ台団地までびくびくしながら運転して帰ってきたのを覚えています。当時はカーナビなんて便利なものはなかったので、前もって地図をうろ覚えに覚えて、道路標識を頼りにしての初めての運転でした。

 免許を取った後は運転してしたくてうずうずするものです。電車の倍の時間をかけて立川から羽田空港へ友人の見送りに行ったり、日本平に仕事で行ったり、家族では箱根や富士山の5合目まで旅行したりしました。

 仕事で軽井沢に行く途中、対向車線のトラックの荷台から落ちてきた小石がフロントガラスを直撃、ガラスが粉々になることもありました。事故のあった場所のすぐ前に自動車整備工場があったのでそこに預けて後で取りに行くという不思議な経験もしました。1975年6月、仙台への転勤が決まったので、その車は知人にタダで差し上げました。仙台時代は車はありませんでした。

 2台目の車は1981年(昭和56年)7月、妻が仕事で知り合った先から購入した日産サニーでした。中古車でした。

 この車での思い出は、妻が首都高の分岐点を間違えて曲がって何時間も待たされたことです。私の山中湖ホテルでの研修の仕事を終えた後、妻と長男に来てもらいホテルの近くの日本アイ・ビー・エムの山中湖の保養所に泊まって富士5湖巡りをしようと計画しました。研修に行くとき妻を乗せて行き、帰りは一人で運転して帰ってもらいました。妻は免許取得後半年しかたっていませんでした。そして10日後妻と長男が来るとき、首都高の霞が関トンネルで中央高速にいくほうに曲がらず、東名高速に行くほうに曲がったのです。首都高なので引き返すことはできません。妻は東名高速経由でも山中湖に行けることはうすうす知っていたらしく、東名高速に入ってから途中で何度も道を尋ねながら遅くなってやっと到着することができました。事故でも起こしたかと心配のし通しでした。

 3台目の車は1985年8月6日に購入したトヨタカローラです。ここからは新車になりました。6日後の8月12日、買ったばかりのカローラで家族で軽井沢の保養所にでかけました。ところがその日に日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落する事故があったのです。14日に軽井沢から小海線沿いの佐久甲州街道を経由して帰ってきたのですが、御巣鷹山は街道から山一つ隔てたところだったということが後でわかりました。遺体の捜索中だったと思います。何も知らずに近くを通っていたのです。驚きでした。

 カローラには11年乗り、1996年7月に4台目のホンダシビックに替えました。カローラが時々故障するなど外れだったのでホンダに変えたのです。そのころはオートマ車が普及していましたがあえてギアとクラッチのマニュアル車で通しました。私も妻もマニュアル車が好きだったのです。そのころはやりのカーナビはつけませんでした。子供たちが独り立ちし車で旅行することがなくなったためです。シビック以後は妻が運転の主役となりました。私はゴルフはやめており、歩くのが趣味となっていました。二人での旅行はパック旅行に変っていました。

 シビックは3年しか乗らず、1999年7月には5台目の軽自動車のホンダライフに替えました。妻がスーパーで転倒して腕を痛めたため、マニュアル車の運転がきつくなり、オートマで小回りの利く車が欲しくなったためです。クルマは遊びの道具から日常生活の道具に変っていました。軽自動車に替えたため、税金や維持費が安くなり駐車も楽になりました。ところが2年後の6月に我孫子市の大粒の雹が降り、車体がぼこぼこになってしまいました。

 2001年7月同じホンダライフを購入することになりました。6台目です。色だけ変わりました。その車を21年乗り続けました。妻が免許更新をやめたため、今年の3月廃車にしました。私は昨年1月免許更新をやめていました。乗った距離は1万7千キロ、エンジンは絶好調でまだまだ乗れる車でした。

 私は1981年(昭和56年)11月スクーター型のバイクのホンダタクトを購入しました。サニーを買った年で44歳でした。もっぱら駅までの通勤用でした。

 1987年7月には同じタイプのホンダパルに乗り換えました。ところが約1週間後の8月8日に転倒し鎖骨を粉砕骨折することになりました。1か月の入院となりました。会社や家族に大きな迷惑をかけることになりました。

 回復後も乗り続けていましたが、1988年10月そのバイクが盗まれました。何ともついていないバイクです。2か月後に発見されましたが、乗る気はなくなっていました。7年ばかりの短いバイク経験でした。

 

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