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2022年8月30日 (火)

大河ドラマシリーズー2 第4作~第6作(NO.1630)

 大河ドラマの第4作は「源義経」です。

 1966年放映、主人公は源義経、主演俳優は尾上菊之助、原作者は村上元三、脚本も村上元三、平均視聴率は23.5%(21位)です。

 義経はご存じ平家を滅ぼしながら、兄頼朝に追われて奥州で討たれた悲劇のヒーローです。物語は牛若丸の母常磐や兄たちとの雪中の逃避行から、衣川館で自害し、兄頼朝が奥州を征服するまでを描いています。

 義経を演じた尾上菊之助は当時23歳、今の尾上菊五郎です。静御前を演じた藤純子と放送後結婚して今の尾上菊之介を生んでいます。

 弁慶を演じたのは前の年の大河ドラマ「太閤記」での主役の緒形拳でした。なお原作者が自分の小説の脚本を書いたのは大河ドラマではこの作品だけです。私は最後まで熱心に見たのを覚えています。

 第5作は「三姉妹」です。

 1967年放映、主人公3人は架空の人物、主演俳優は岡田茉莉子、藤村志保、栗原小巻、原作者は大佛次郎、脚本は鈴木尚之、平均視聴率は19.1%(37位)です。

 物語は幕末の動乱から明治初期までの幕府旗本の三姉妹の流転の物語です。三姉妹以外にも多くの架空の人物が登場し、実在の幕末の有名な人物も絡んだドラマとなっています。

 原作はこの大河ドラマのための書下ろし作品です。私はこの作品はあまり記憶がありません。放送時間の日曜日夜8時は野球のジャイアンツ戦と重なることが多く、自分の興味を引く作品以外はいい加減に見ていました。

 第6作は「竜馬が行く」です。

 1968年放映、主人公は坂本龍馬、主演俳優は北大路欣也、原作は司馬遼太郎、脚本は水木洋子、平均視聴率14.5%(53位)です。

 物語は坂本龍馬の少年時代から暗殺されるまでの八面六臂の活躍を描いています。龍馬は幕末では、西郷隆盛、高杉晋作、土方歳三などと並んで最も人気のある人物です。竜馬ブームの火付けとなった司馬遼太郎の「竜馬が行く」は1966年に新聞連載が終わったばかりでした。それが1968年にドラマ化されたのです。

 当然高視聴率になると思ったのですが、歴代53位の低視聴率でした。理由ははっきりわかりませんが、一説では水木洋子の脚本が45分に収まる長さでなく最初の演出家と仲が悪くなり、途中で和田勉に交代したものの演出に無理がでて視聴者に受けなかったといわれています。

 それ以外にも、幕末物が2年続いた、それまでは坂本龍馬が有名でなかった、北大路欣也がミスキャストだったなどともいわれたようです。

 私は視聴率など関係なく熱烈なファンでした。大好きなドラマでした。

 司馬遼太郎の作品はこのドラマを含めて6回ドラマ化されました。スペシャルドラマ「坂の上の雲」を入れると7回になります。一番多くドラマ化されました。

 

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2022年8月26日 (金)

コロナ「いつまで続くぬかるみぞ」(NO.1629)

 「いつまで続くぬかるみぞ」という言葉は日中戦争の時代に中国での戦場の厳しさを表した歌の一節です。コロナの今の状態を表しているといってもいいのではないでしょうか。

 2020年3月ころから日本に侵入してきたコロナは2022年8月下旬を迎えて第7波のど真ん中です。

 8月19日には1日当たりの日本の感染者が26万1343人となり、8月22日には1日当たりの死者数が343人でいずれも過去最多となりました。1日当たりの感染者は、7月22日にアメリカを追い越してから昨日の8月25日まで、1日を除いてダントツの世界1を続けています。

 東京の感染者数は減少傾向にありますが、地方の各県は最多記録を更新しています。夏休みやお盆休みで東京人が地方で感染をばらまいた感じとなっています。

 プロ野球では巨人に多数の感染者が出て、巨人の2カード6試合が中止となりました。高校野球は4チームに感染者が出て、メンバーの入れ替えや試合日程の調整が行われました。

 医療現場がひっ迫して、救急車が入院患者を運べない事態が続出しています。

 政府は現場のワークロードを減らすためコロナの全数把握の見直しを決めましたが、やり方を各県任せにしたため見直しを拒否している知事も出ています。国の担当者の無責任さが明らかです。

 昨年の7月下旬から17日間東京オリンピックが行われた時の感染者を調べてみました。開会式の7月23日は全国で4225人、東京が1359人となっていました。閉会式の8月8日は1万4472人と4066人でした。いまと比べると今が桁違いに多くなっています。

 岸田首相は4回目のワクチンを打ったにもかかわらず感染者となりました。日本の感染者の累計は昨日1千8百万人を超えました。日本人の人口が1億2478万人ですから、約14.4%、7人に1人が感染した勘定になります。

 まさに「いつまで続くぬかるみぞ」です。

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2022年8月23日 (火)

おめでとう!仙台育英、そして東北地区の高校野球の初優勝(1628)

 2022年8月22日、第104回全国高校野球選手権大会(夏の甲子園大会)の決勝戦が行われ、宮城県代表の仙台育英高校が山口県代表の下関国際高校を8-1で破り優勝しました。

 仙台育英高校は初優勝で東北地区にとっても春夏を通じて初めての優勝となりました。

 これまで東北地区の高校は春3回、夏9回決勝戦に臨みましたが勝てませんでした。高校野球(戦前は中等野球)は1915年(大正4年)夏に始まりました。プロ野球の誕生が1936年(昭和11年)ですから、それより21年も前に高校野球が生まれていたのです。今回が104回目の夏の大会です。東北勢は100年以上優勝から遠ざかっていたのです。沖縄や北海道にも先を越されていました。今回の優勝は東北6県の野球ファンにとって待ちに待った初優勝となりました。

 東北からはロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平、サンディエゴ・パドレスのダルビッシュ有、トロント・ブルージェイズの菊池雄星などの大リーガーやロッテの完全試合投手の佐々木朗希などの素晴らしい選手が出ています。それでも高校野球の優勝旗は遠かったのです。

 最も優勝に近かったのは、1969年(昭和44年)の三沢高校でした。戦後初めての優勝チャンスでした。愛媛県の松山商業と青森県の三沢高校が決勝戦で対戦、0-0で引き分け再試合となりました。

 三沢高校の太田幸司投手はイケメンでコーちゃんと呼ばれアイドル選手の草分けともいえる人気者、延長18回と翌日の再試合を完投しました。再試合は4-2で敗れましたが悲劇のヒーローとなりました。

 私は最初の試合の最後の何回かを,日本アイ・ビー・エムのSEとしてお客様の談話室で一緒に見ていました。私は松山南高出身なので当然松山商業を応援していましたが、周りは全員三沢高校の応援でした。松山商業がチャンスを迎えても声を上げられなかったのを覚えています。「両校とも優勝にしろ」という意見が報道されたくらいでした。

 その後私は仙台営業所に転勤となり3年ほど東北6県を担当しました。いまは高校野球では、愛媛、千葉に加えて東北6県の高校も応援しています。

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2022年8月21日 (日)

大河ドラマシリーズー1 第1作~第3作(NO.1627)

 今年いっぱい、NHKの大河ドラマ第61作「鎌倉殿の13人」が放映中です。私は途中で見るのをやめましたが、高校生の歴史好きの孫娘が夢中になって見ています。

 大河ドラマは1963年に始まり、60年間に61作が放送されています。年数と作品数が合わないのは1993年から94年の2年間に3作品が放送されたためです。それ以外に2009年から3年間にわたってスペシャルドラマ「坂の上の雲」が放送されましたが、大河ドラマ61作品には含まれていません。

 今回から大河ドラマシリーズとして、過去の大河ドラマの歴史を振り返ってみたいと思います。今回は第1作~第3作です。

 第1作は「花の生涯」です。

 1963年放映、主人公は井伊直弼、主演俳優は尾上松緑、原作者は船橋聖一、脚本は北条誠、平均視聴率は20.2%(34位)です。なお平均視聴率は60作までで()内の数字は60作中の順位(今年の「鎌倉殿の13人」はまだ平均視聴率が出ていないので対象外)を示しています。

 井伊直弼は彦根藩の14男として生まれました。一生部屋住みの身を覚悟して、自分で名づけた埋木舎(うもれぎのや)で過ごしていましたが、兄の死などで彦根藩主となりました。その後幕府の要人となり出世を重ね大老に上り詰めました。

 そこでとんでもないことをやってしまったのです。天皇の勅許を得ずして日米修好通商条約を結び、政敵を蟄居させ、尊王の志士たちを処刑してしまいます。安政の大獄です。今のミャンマーの軍事政権がやっているような弾圧をやったのです。結んだ条約は不平等条約で明治政府を悩ませました。

 そのため水戸浪士に桜田門外で暗殺されました。日本史上まれにみる悪人ですが、「花の生涯」では別の描き方をしていました。中井貴一の父親の佐田啓二や淡島千景などが出演し作品に色を添えていました。

 第2作は「赤穂浪士」です。

 1964年放映、主人公は大石内蔵助、主演俳優は長谷川一夫、原作者は大佛次郎、脚本は村上元三、平均視聴率は31.9%(4位)です。平均視聴率こそ4位ですが、最高視聴率は吉良邸打ち入りの回が53.0%で、これは大河ドラマ全体の最高視聴率となっており、いまだこの記録は破られていません。

 この物語の筋書きは改めて書くまでもありませんが、浅野内匠頭の話から始まり赤穂浪士の切腹までです。出演者は長谷川一夫を中心として映画界や歌舞伎界や演劇界のスターを集めた感じでした。

 芥川也寸志(芥川龍之介の三男)が作曲したテーマ曲も評判となりました。「大河ドラマ」という定義ができたのはこの第2作からです。私も「赤穂浪士」から大河ドラマを熱心に見るようになりました。

 第3作は「太閤記」です。

 1965年放映、主人公は豊臣秀吉、主演俳優は緒形拳、原作者は吉川英治(新書太閤記)、脚本は茂木草介、平均視聴率は31.2%(6位)です。

 前2作が歌舞伎界や映画界の大スターが主役を演じましたが、この作品では新国劇の若手だった緒形拳が主役に抜擢されました。織田信長を演じた高橋幸治も文学座研修生から選ばれました。2人ともこの大河ドラマがスターへの入り口となりました。

 あらすじは秀吉が木下藤吉郎のころから天下人となり死ぬまでを描いています。私はこの作品も放送を待ちかねるようにしてみていました。28歳、独身最後の年でした。

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2022年8月19日 (金)

手賀沼通信ブログへのアクセス数が25万回を超えた(NO.1626)

 2022年8月16日、手賀沼通信ブログへのアクセス数の累計が250,019回となり25万件を超えました。

 手賀沼通信ブログは2006年8月4日に第1回を書き始めたので、16年と12日かかりました。延べ日数にすると5836日、1日当たりのアクセスは42.84回となります。この間に書いたブログの数は1625件です。

 好き勝手に書いて面白くもない内容のブログを見ていただいた皆様、本当にありがとうございました。これからも書ける間は書き続けていきたいと思っています。

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2022年8月16日 (火)

ブログの次のテーマを「大河ドラマシリーズ」に決める(NO.1625)

 「思い出シリーズ」を書き終わり、手賀沼通信ブログを書き続ける大きなネタがなくなりました。

 いまの私は巣ごもり状態です。一番大きな原因はコロナでしたが、コロナが収まってもあまり外出はできない状況です。脊柱管狭窄症のため、足と腰の状態が悪く長く歩けなくなっています。移動はもっぱら自転車で、ここ2年近く電車に乗ることもなくなっています。仲間と会うこともなくなりました。

 毎日の楽しみは飲むことと食べること以外はテレビとパソコンです。

 テレビはニュース、スポーツ放送、は生で見ますが、昔の映画、ドキュメンタリー、時代劇のドラマ、山登り、旅行などの番組を録画し後でゆっくり見ることが多くなりました。バラエティや普通のドラマは、朝ドラを除いてはほとんど見ません。

 パソコンは毎日使っています。手賀沼通信と手賀沼通信ブログでの情報発信が中心ですが、必要に応じてメールやインターネットやデジカメで撮った写真の処理などです。手賀沼通信や手賀沼通信ブログを書くことは、今の私の最大の楽しみになっています。

 手賀沼通信ブログは月に8~10回書いてきました。このペースを落とさないためには、何かテーマを決めて書くのが一番と分かりました。といっても政治や経済はあまり取り上げたくありません。新聞やテレビ以上のことは書けないからです。

 自分が興味を持っていることの1つに歴史があります。テレビが歴史を取り上げている「大河ドラマ」をテーマにすればしばらくはブログのネタにできると考えました。「大河ドラマ」は1063年に始まり、60年続いています。最近の大河ドラマはあまり熱心に見ていませんが、以前は必ず見るようにしていました。自分の体験談重ねながら書いてみたいと考えています。

 ブログはコロナのことや身の回りに起こったことが優先ですが、穴埋めとして大河ドラマを使いたいと思います。

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2022年8月11日 (木)

コロナの日本国内の1日あたりの感染者数が最多記録を更新、世界最多の記録を19日間続ける(NO.1624)

 2022年8月10日、コロナの1日あたりの感染者数が25万403人となり、25万人を超えて7日ぶりに過去最多記録を更新しました。

 8月3日に24万9830人を記録してから少しずつ減少していたのですが、減少傾向は続きませんでした。これがピークなのか、さらに更新するのかわかりません。

 世界的にみると7月22日にアメリカの1日あたりの感染者を本格的に追い越してから、8月10日までの20日間、1日だけわずかにアメリカが多かったのですが、それ以外は日本がダントツの多さを記録しています。いまや日本が世界1の感染国になっています。これもいつまで続くのでしょうか。

 お盆休みを迎えて日本から観光のための出国者が増えています。コロナ前に迫る勢いです。いままでは海外からの入国者がコロナを広めるのではないかと心配でしたが、世界1となった日本からの出国者がコロナをばらまいてくるのではないかと余計な心配をしています。

 感染者の増加につれて死亡者が増えているのも心配です。8月2日に143人と3桁になって以後、3桁の死亡者が続いており、9日には278人、10日には251人と増加しました。

 病院に入るべき患者が自宅療養を続けざるを得なくなっています。このまま何もしなくていいのでしょうか。

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2022年8月 8日 (月)

思い出シリーズを書き終わって(NO.1623)

 2022年8月6日、思い出シリーズを書き終わりました。

 2020年10月26日に書き始めたので、1年9か月10日かかりました。

 書き始めたきっかけは、大学受験のため1か月ほど住んでいた横浜のあまりの変わりように、今まで住んだところの思い出を書いてみようと思ったからです。かなり住んだ場所を変えています。

 書き進めていくうち、学校と職場の思い出も書いてみようと考えました。さらに80代半ばの年齢なので、いっそのこと今まで生きてきた思い出をすべてまとめてみたら自分史に近いものができるのではないか、そのチャンスは今しかないとの考えに至ったのです。書いている間に何人かの友人や知人の訃報を聞いたこともありました。

 ブログのような軽いものに、十分な準備をしないで書くのはちょっとまずいかなという感じもしましたが、「他人に誇れるような立派な人生ではなかった」と割り切って書いたのです。

 思い出をテーマごとに細かく区切ってまとめました。ブログに書くにはこのスタイルが書きやすいと思ったからです。

・住んだ場所 13回

・学校(講座、教室などを含む) 11回

・職場 10回

・趣味・嗜好 2回

・山 7回

・ウォーキング 2回

・海外旅行 7回

・国内旅行 10回

・読書 4回

・民謡 2回

・いろいろな会 3回

・思いでぼろぼろ 4回

・情報発信 3回

にまとめました。

 書けなかったことは、家族や友人や知人や恩師など、今までお世話になった方との交流です。ご迷惑になることを恐れて書ききれませんでした。人のお名前を入れるときは仮名が多く、実名はごく一部の方に限っています。

 写真は1枚も使っていません。各回1枚ごとの写真を入れたかったのですが、もともと昔の写真はなく、あったものも終活でほとんど破棄、破棄しなかった写真は顔が写ったものばかりです。デジカメで撮った写真は残っていますが、使えるのが最近に限られるため使いませんでした。写真がない文章は味わいが薄く読みにくかったことでしょう。

 思い出シリーズを書き終えて、一つの大きな終活を終えたと感じています。

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2022年8月 6日 (土)

情報発信の思い出-その3 手賀沼通信ブログ(NO.1622)

 2006年(平成18年)8月4日手賀沼通信ブログを書き始めました。

 情報発信の思い出-その2にも書きましたが、1998年に一人新聞の手賀沼通信を出し始めました。それが8年後の2006年7月に100号を迎えたのを機にブログを書いてみようと思い立ったのです。

 手賀沼通信は月1回の発行です。タイムリーに記事を書けないことがあります。また紙面がA4版の4ページだてです。ページに制限があるため十分意を尽くして書ききれないことがあります。また逆に4ページを埋めるのがしんどい時もありました。

 そこで好きな時に好きな長さで書けるブログが気に入ったのです。

 情報発信の思い出-その1でホームページのことを書きましたが、その際に使うホームページビルダーにブログ作成の機能があり、そこに利用可能なプロバイダーが載っていました。そこで以前利用していたプロバイダーのNIFTYを選びました。なじみがあったのと、大人の雰囲気が感じられたからです。他のプロバイダーは若者向きという感じでした。無料で2000MBまで利用ができ、ホームページビルダーに頼らず直接書き込をすることにしました。

 使い始めてみると写真のサイズが小さくしか載せられず、しかもぼやけることがわかりました。写真をクリックすると鮮明で大きな写真が見られるのですが、読者がいちいち写真をクリックする手間が必要でした。写真を載せたときは「写真はクリックすると大きくきれいに見られます」というコメントを入れざるを得ませんでした。この欠点は2010年2月にやっと改良されてまともになりました。

 ただ気に食わないことが1つあります。いつからそうなったか定かではないのですが、ブログに入る広告がアダルトなものがほとんどになり、ブログにそぐわないのです。もしかしたらNIFTYの管理者が変わったのかもしれません。

 ブログは現在16年間で1622回、月平均で8.4回くらい書いたことになります。アクセス数の総計は24万9600回、1日平均42.8回となっています。有名人のブログや生活に有益なブログには比べものになりませんが、それでも毎日40人に近い方が見てくださっていると思うと感激です。

 16年間には内容が随分変わりました。一番多かった旅行やウォーキングやバスハイクなどの記事がなくなりました。仲間と一緒に楽しんだ記事もなくなりました。以前は好奇心が旺盛だったため、身の回りの些細なことも書いていました。いろいろなところに出かけて、自然の美しさや季節の移り変わりの写真なども載せました。我孫子市の小さな事件も書きました。

 ところがコロナの世になって以来、コロナの記事が多くなりました。同時に足も弱ってきて出かけられなくなり、出かけた先の記事もなくなりました。寂しく思っています。

 ここまで思い出シリーズをいろいろなテーマで取り上げ思い出をつづってきましたが、これで終わりにしたいと思います。お付き合いありがとうございました。お読みくださった方に感謝感謝です。

 

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2022年8月 4日 (木)

情報発信の思い出-その2 手賀沼通信(NO.1621)

 1998年(平成10年)4月、「手賀沼通信」を創刊、その第1号を、電子メールで10数名、郵送で60数名の方にお送りしました。

 第1号に「手賀沼通信事始め」として発刊の趣旨を述べています。その内容を要約してみましょう。

 「私はこの3月31日に61歳でサラリーマンを退職しました。3つの会社で合計38年間の会社人間でした。そして次にやることはまだ決まっていません。『何もしないとボケるよ』とよく言われます。そこで『ボケ防止に情報発信を』と考え付いたのが新聞発行でした。情報発信をすれば情報収集にもつながり、次にやることのきっかけもつかめるのではないかと思って始めた次第です。

 高知県須崎市に「土佐一人新聞」を発行されているMさんという方がおられます。この方は会社の役員でしたが、奥様と二人で風光明媚な須崎市に移住し農業を始めました。米とミカンと野菜を作り、家畜を飼い、はちみつを生産しながら、月1回の新聞を発行しています。私は2年ほど前からこの新聞を送ってもらっており、時間ができたら自分も一人新聞を作ってみようと思っていました。

 私は5年前に社会保険労務士の資格を取りました。その勉強の際に年金など高齢者の抱える問題を知ることができました。そこで手賀沼通信のテーマを『高齢者の豊かな生活のために』と決め、そのためにいろいろな情報を提供することにしました。

 『手賀沼通信』は老後のことを考える材料やヒントを提供させていただくつもりです。本や雑誌からの一般論でなく、自分の体験や取材を通して生の内容が出せればと思っています。また地域との接点も探ってみたいと思っています」

 手賀沼通信は最初はB5版4ページ、字の大きさ9ポイント、ページごとに縁取りをして毎月20日発行にしていました。その後読者の方からのご意見で、A4版の4ページ、字の大きさを読みやすい11ポイント、縁取りをなくし、毎月1日の発行に変更しました。それは今も変わっていません。

 発行部数も自分の交友範囲が広がるとともに増えていきました。読者の方から、自分の友人や知人への配布依頼もありました。

 大きかったのは読者のおひとりが読売新聞の千葉版「ほのぼのタウン」(今はこの欄はありません)のタウンレポータでしたので、「一人新聞が創刊6年、毎月発行、高齢者の生活がテーマ」として「手賀沼通信」を紹介してくれたことです。メールやFAXや電話で大勢の送付依頼がありました。

 最盛期にはメール添付と郵送と手渡しを合わせると400人以上の方にお送りしました。いまは手渡し3名、郵送16名、メール添付200名くらいに減りました。高齢化で、亡くなった方、パソコンをやめた方、原因不明で届かなくなった方などのためです。

 手賀沼通信への寄稿も多くの方から頂きました。寄稿文だけで紙面が埋まってしまうことも多々ありました。ところが最近は寄稿くださる方が少なくなりました。調べてみると、過去寄稿された方の11名の方がお亡くなりになりました。17名の方が消息不明となっています。

 手賀沼通信の内容も、私の行動範囲が極端に狭まったため、決まったものしか載せられなくなりました。旅行記などは数年前に書けなくなりました。

 創刊以来24年が過ぎ25年目に入っています。いつまで書けるかわかりませんが、ただ書ける内は何とか手賀沼通信の発行を続けていきたいと思っています。

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