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2024年9月27日 (金)

7回目の大腸憩室出血((NO.1854)

 2024年9月20日昼食後にトイレに入ったら出血がありました。今までの経験から7回目の大腸憩室出血と確信しました。

 出血は何の前触れもなく突然やってきます。痛みはありません。

 その日の夕食から3食絶食しました。前もっていただいていた出血止めの「カルバゾクロムスルホン酸ナトリウム」を1日3回飲みました。

 そのあと24日までおかゆ状のやわらかい食事と出血止めの服用を続けました。出血は2日間で止まりました。やめていたアルコールは1週間過ぎたので27日から少しずつ始めようかと思っています。

 今までの病歴です。

回目  出血日  入院日数 前回からの間隔

・1 2016/10/8  11日

2 2018/10/7  13日   2年

・3 2019/3/9    14日        5月

・4 2021/8月    0  2年5月

・5 2023/1月    0  1年5月

・6 2023/11月    0   10月

・7 2024/9月    0   10月

 これを見ると発病する間隔はまちまちで気が許せない感じです。

 4回目以降入院しないで済ませているのは、血液サラサラの薬のバイアスピリンをやめたことで出血量が少なくなったことと出血後の対処方法を学んだことがあるのではないかと思っています。

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2024年9月23日 (月)

読書の終活「街道をゆく」を読み終え「エッセイ、評論、対談集」へ(NO.1853)

 令和6年9月19日、書棚の司馬遼太郎の旅行記「街道をゆく」43冊を読み終えました。これで司馬遼太郎の19作品を読み終えたことになります。

 読み始めたのが令和5年1月13日でしたので、1年8か月余りかかりました。月に2冊あまりしか読めませんでした。歳と共に読むスピードが極端に遅くなりました。

 「街道をゆく」で司馬さんが訪れたのは、国内海外を合わせて72カ所です。それを43冊にまとめました。

 最後の「濃尾参州記」は未完に終わっています。執筆の途中、1996年2月12日に72歳で急逝されたからです。ご本人にとっても、読者にとっても、まことに残念なことでした。

 司馬さんの足跡は次のように全国にわたっています。

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・北海道   2街道

・東北    6

・関東甲信越 9

・中部北陸  5

・近畿   22

・中国    4

・四国    3

・九州    7

・沖縄    1

(国内   59)

・海外   13

・合計   72街道

 「街道をゆく」は紀行文の要素はごく一部で、内容の大部分は歴史の記述です。歴史は旅行先だけでなく自由に各地に飛びます。「司馬史観」に満ちた作品となっています。

 そのため旅行する前には時間をかけて関連する資料を十分に読み込みます。現地では興味を抱いた場所を訪ね、いろいろな人物と会って対談します。観光地回りはありません。その結果を文章にしています。

 「街道をゆく」は週刊朝日に1971年1月から1996年3月まで、25年3か月、1147回にわたって連載されました。

 今回読んだのは3回目ですが、読み終わったのが惜しい感じでした。

 次は書棚に残されたエッセイや論評や対談集を読めば、手持ちの司馬遼太郎の作品は終わりとなります。

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2024年9月18日 (水)

敬老の日の高齢者情報(NO.1852)

 2024年9月16日の敬老の日に65歳以上の高齢者の情報が総務省により発表されました。

 15日の高齢者の人口は前年比2万人増の3625万人、総人口に占める割合は29.3%でいずれも過去最高を記録しました。

 国連の推計によると、日本の高齢化率は人口10万人以上の世界200の国・地域で最高となっています。主要国ではイタリアが24.6%、ドイツが23.2%と続いています。

 国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、第2次ベビーブーム期(1971~74年)に生まれた世代が65歳以上になる2040年には34.8%になると見込まれてす。

 高齢者の就業率は25.2%ですが、65歳以上の60歳代に限れば私の勝手な推測ですが50%は超えるのではないでしょうか。

 これも私の想像ですが、このまま少子高齢化が進めば、将来敬老の日はなくなるのではないかと思っています。もし高齢者が50%を超えれば敬老の日は意味がなくなります。

 厚生労働省は、100歳以上の高齢者が15日の時点で9万5119人になったと発表しました。前年より2980人増え、54年連続で過去最高を更新しました。

 女性が約9割の8万3958人、男性は1万1161人でした。女性の最高齢者は116歳で世界最高齢者でもあります。男性の最高齢者は110歳です。

 これらの統計からすると、日本は高齢者にとっては住みやすい国と考えられます。ただ高齢者がそう思っているかどうかは別かもしれません。

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2024年9月13日 (金)

老人の独り言-12 プロ野球の歴史-2つのリーグの誕生(NO.1851)

 1950年、プロ野球はセントラルリーグとパシフィックリーグに分かれました。

 2つのリーグが誕生したのは、いろいろ複雑な事情がありましたが、要はプロ野球が国民の娯楽として注目されるようになったため、球団を持ちたいという企業が増えたためです。戦後の惨状から、国民も企業も回復しつつありました。

 1950年の両リーグのチーム構成は次の通りです。

セントラルリーグ

・読売ジャイアンツ

・阪神タイガース

・中日ドラゴンス

・松竹ロビンス

・大洋ホエールズ

・国鉄スワローズ

・広島カープ

・西日本パイレーツ

パシフィックリーグ

・南海ホークス

・阪急ブレーブス

・東急フライヤーズ

・大映スターズ

・毎日オリオンズ

・西鉄クリッパーズ

・近鉄パールズ

 新チームが誕生するにあたっては激しい引き抜き合戦が行われました。ショックだったのは阪神の別当薫など有力5選手が毎日に移ったことです。

 毎日オリオンズはこの年、その5選手と都市対抗の名門星野組から獲得した火の玉投手荒巻淳などの活躍で、松竹ロビンスを日本シリーズで破りました。

 その後いろいろな経緯を経て、セ・リーグは読売、阪神、中日、広島、ヤクルト、DeNAの6チームになりました。

 最初の4チームは最初から変わりませんが、ヤクルトは国鉄から、DeNAは大洋と松竹から変ってベイスターズになりました。

 パ・リーグはソフトバンク、オリックス、ロッテ、日本ハム、西武、楽天の6チームになりました。

 ソフトバンクは南海から、オリックス・バッファローズは阪急と近鉄から、ロッテ・マリーンズは毎日と大映から、日本ハム・ファイターズは東急から、西武ライオンズは西鉄と西日本から変わりました。チームの愛称名があるのはチーム名も変わったところです。

 楽天ゴールデンイーグルスは、2005年にパ・リーグでリーグを廃止して1リーグに統一するという騒動が起こったときにそれを阻止するために新しく生まれた球団です。

 2リーグ制になったときは観客動員数は両リーグでそれほど変わらなかったのですが、次第にパ・リーグの観客が減少し経営が成り立たなくなった球団が増えたため、一部の球団で1リーグに戻す動きが出てきました。

 2005年にその動きを止めるため、楽天が生まれて2リーグ制で行くことが再確認されて以後、球団経営のやり方が見直されパリーグの観客が劇的に増えました。

 今はWBCで日本が優勝したり、アメリカでの大谷選手の活躍などもあって、プロ野球の人気が一層高まっています。

 

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2024年9月10日 (火)

パリ・パラリンピックが終了した(NO.1850)

 2024年9月8日、第17回夏季パラリンピック・パリ大会が終了しました。

 閉会式はオリンピックと同じスタッド・ド・フランスで行われ12日間の日程を終了しました。偶然にもオリンピックの開会式と同じように雨の閉会式になりましたが、テレビで見ていて選手と観客が一体となった歓喜に満ちたセレモニーになったと感じました。

 東京大会はコロナに見舞われたせいで、開会式や閉会式や競技はすべて無観客で行われました。パリ大会はどこも満員の観客でした。今回あらためて観客のパワーの大きさを感じさせられました。

 パラリンピックの閉会式もフランスらしく音楽とダンスと光にあふれた祭典になりました。パラリンピック旗は次回会場のロサンゼルスに引き継がれました。聖火はランタンに移した火をフランスのパラアスリートが吹き消して消えました。最後はダンス音楽が会場に響かわたり、選手も観客もパーティを楽しむ雰囲気で終了しました。

 国別のメダル数です。

順位 国  金  銀  銅   合計

1  中国 94 76 50 220

2  英国 49 44 31 124

3  米国 36 42 27 105

10 日本 14 10 17  41

 日本のメダル数合計41個はアテネ大会の52、東京大会の51に次いで3番目に多い数です。金メダルは東京大会の13個を上回っています。

 今回印象に残った金メダルは、団体戦では車いすラグビーとゴールボール男子です。いずれも初めての金メダルでした。激しい戦いの車いすラグビーに女子がメンバーに入っているのは驚きでした。

 個人戦ではテニス男子シングルス小田凱人選手と自転車個人ロードレースの杉浦佳子選手です。18歳の最年少と53歳の最年長です。

 パラリンピックの選手インタビューで感じたのは、メダルを取った選手も逃した選手も、皆さん自分の結果に満足している発言をしていたことです。障害を抱えながら、やるだけやったと前向きでした。その点、結果を出せなかったオリンピックのアスリートが悔しさを出していたとの違いを感じました。

 やっと暑い夏のオリンピック、パラリンピックが終わりました。アスリートの皆さんご苦労様でした。

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2024年9月 7日 (土)

老人の独り言-11 プロ野球の歴史-1リーグ時代(NO.1849)

 太平洋戦争後のプロ野球は1946年(昭和21年)に始まりました。私が小学校4年生の時です。

 はっきりとは覚えていませんが私が巨人ファンになったのは4年生か5年生のころからではないかと思います。情報源はラジオ放送と新聞でした。

 そのころは8チームからなる1リーグでした。1950年に2リーグになりました。1リーグ最後の1949年は次の8チームです。

・読売ジャイアンツ

・阪神タイガース

・中日ドラゴンス

・太陽ロビンス

・南海ホークス

・阪急ブレーブス

・東急フライヤーズ

・大映スターズ

 1950年には最初の4チームがセントラルリーグに、あとの4チームがパシフィックリーグに移りました。

 1リーグ時代に記憶に残っているのは、巨人の川上哲治一塁手、青田昇外野手、千葉茂二塁手、阪神の藤村冨美男三塁手、東急の大下弘外野手、南海の別所毅彦投手などです。

 川上は打撃の神様と言われ、のちの長嶋や王と同じように、打ってほしい時に打ってくれる選手でした。強烈な印象として残っているのは、1949年の南海ホークスとの試合で、9回裏逆転サヨナラ満塁ホームランを打って6-5で勝った試合です。当時史上初でした。

 川上と一緒にホームラン王になった青田、ライト打ちで鳴らした千葉、物干しざおと言われた長いバットでホームラン王の藤村、川上の赤バットに対する青バットの大下、剛速球の別所、は忘れられません。そのほかにも名選手は大勢いますが省略させていただきます。

 シーズンの最後には東西対抗戦がありました。今のオールスターに代わるものです。関東の4チームから選ばれた選手のチームと中日と関西3チームから選ばれた選手のチームで戦いました。これも面白かった思い出です。

 娯楽の少なかった少年時代、私にとって野球は映画とともに最大の楽しみでした。

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2024年9月 5日 (木)

あの時あの場所この1枚-34 敦煌莫高窟の大仏殿(NO.1848)

 13年前の2011年9月10日~16日、中国の蘭州、西域地方を旅しました。

 元IBMに勤務していた11名の仲間とそのご婦人1名で、まず甘粛省蘭州の蘭州大学で日本語を教えている大川さんを訪問して、蘭州大学での教授風景風景を見学し学生たちとの交流を楽しむのが目的でした。大川さんも元IBMの後輩です。自分で希望して日本語講師となって中国の4都市の大学で教えました。

 そのあと炳霊寺の石窟や青海省の西寧、青海湖、敦煌周辺を観光するスケジュールとなっていました。大川さん、中国語の達人で団長役の大門さん、IBM関連の旅行会社で世話役の大野さんの3人で組んだ手造りのツアーです。

 旅程は昔のシルクロードの一部を訪ねることになりました。訪れたところはいずれもそこでしか見られない風景で印象深く、心に刻まれる場所でした。

 この1枚はいろいろ迷いましたが、やはり敦煌の莫高窟になります。

 敦煌は青海省から蘭州に戻り空路1時間40分の空旅でした。

 莫高窟は敦煌から約5キロの鳴沙山東端の断崖に開削された石窟で、西暦366年に楽僔という僧によって造営が始められたといわれます。確認されている石窟は734窟で北涼から元の時代まで引き続き造営されたようです。

 莫高窟に入るにはカメラを預けなくてはなりません。

 預ける前に撮ったのがこの1枚の9層の大仏殿です。第96窟で外から撮れ、莫高窟のシンボルとなっています。

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 一般に開放されている石窟は40カ所ですが、ガイドがバランスを考えて案内する石窟を選ぶようです。私たちが見物したのは合計10窟でした。

 

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