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2024年12月17日 (火)

老人の独り言-15 プロ野球の歴史 水原監督、三原監督、鶴岡監督(NO.1868)

 1950年、プロ野球にセントラルリーグとパシフィックリーグの2つのリーグが誕生しました。

 その初期に活躍したのが、水原茂(円裕)、三原修(脩)、鶴岡(山本)一人の3人の監督です。

       水原茂  三原修  鶴岡一人

・生年    1909 1911 1916

・出身中学 高松商業 高松中学 広島商業

・出身大学 慶応大  早稲田大 法政大

・ポシション 内野手  内野手  内野手

・チーム  巨人、東映 巨人、西鉄   南海

                    中日        大洋、近鉄         

               ヤクルト   

・リーグ優勝  9回    5回   9回

・日本一    5回    4回   2回

・参考 日本一で  日本一で    監督勝数

  対鶴岡5勝1敗 対水原3勝0敗 歴代1位

 上の経歴から水原と三原は生涯のライバルだったことがわかります。

 高松商業と高松中学は香川県の中等野球のライバル校でした。今は高校野球に変わりましたが、現在も続いているようです。大学も東京六大学のライバル校でした。主なポジションは水原が三塁手、三原は二塁手でした。水原が投手を務めたとき、三原がホームスチールを成功させています。

 水原茂は1949年シベリア抑留から帰還し、1950年から巨人の監督を務めました。それまで三原が巨人の監督でしたが、結果的に水原が三原を追い出したような形になりました。

 水原の巨人は1951年からの日本シリーズで鶴岡監督の南海に3年連勝して、1年おいてまた鶴岡の南海に勝っています。

 ところがそのあと不運が待っていました。西鉄に移った三原監督が巨人に3年連続で巨人を破ったのです。巨人は1956,1957年と連敗した後、1958年は新加入の長嶋の活躍もあって、日本シリーズも3連勝しました。水原監督は安心したのか4戦目が雨で中止になったとき、スポーツ新聞でオフのゴルフのことなどを話題にしていました。

 ところが西鉄にはあの稲尾投手がいたのです。この雨も流れを変えました。21歳の稲尾投手の活躍で、西鉄が4連勝し水原の夢は消えました。稲尾投手は7戦のうち6試合に登板、4試合に完投、4勝を上げました。「神様、仏様、稲尾様」という言葉が生まれました。

 鶴岡監督は南海一筋でした。巨人に日本シリーズで4回敗れた後、1959年に5回目のチャンスが回ってきました。その時は立教大学で長嶋茂雄と同期だった杉浦忠投手の活躍により4連勝しやっと巨人に勝つことができました。

 2リーグ初期の3大監督は数々のドラマを見せてくれました。

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