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2025年1月23日 (木)

イチローさん、野球殿堂入りおめでとう(NO.1876)

 2025年1月21日、野球のイチロー(鈴木一朗)さんが、全米野球記者協会の投票で、米国野球殿堂入りが決まりました。日本人初の快挙です。

 投票総数394票のうち393票を獲得し、ヤンキースのリベラ(満票)、ジーター(1票足りず)に次ぐ3位の得票率でした。イチロー(呼び捨てごめん)は記者会見で、「満票に1票足りないのはすごくよかった」と言っていました。

 イチローは1992年オリックスに入団、2001年に渡米しマリナーズに移籍しました。2019年の引退まで、日本のオリックスで9年、アメリカのマリナーズで11年半、ヤンキースで2年半、マーリーンズで3年、最後はマリナーズに戻り2年と、アメリカで19年、日米通算28年の現役生活でした。

 イチローのアメリカでの主な記録は、3089安打(日米通算では4367安打-史上初)、2001年からの10年連続200安打(史上初)、2004年の最多262安打(史上初)、入団した2001年にMVP、新人王、首位打者、盗塁王(まとめて取ったのは史上初)、オールスターでランニングホームラン(史上初、MVP)、10年連続ゴールドグラブ賞、などです。ほかにもう一度首位打者になっています。

 ライトから3塁に矢のようなボールを投げて走者を刺したこともありました。レーザービームと言われて伝説になりました。

 なおイチローは今年1月、ミスタータイガースの掛布選手や中日の守護神岩瀬投手と共に、日本の野球殿堂入りも果たしています。日米ダブルの殿堂入りとなりました。おめでとうイチローさん!

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2025年1月18日 (土)

あの時あの場所この1枚-36 神戸の高速道路の夜景(NO.1875)

 30年前の1995年1月17日午前5時46分阪神大震災が発生しました。神戸を中心として6434人の死者を出した大地震でした。

 30年という節目の年に当たるため、昨日1月17日の県などが主催する追悼式典には天皇皇后両陛下が参列されました。また「1.17のつどい」には約75000人が集まりました。

 地震の頻発する日本、能登半島地震の復興もままならない中、南海トラフの震災の発生も心配です。

 1995年12月に阪神大震災の犠牲者の追悼と神戸の復興を願って始まった神戸ルミナリエは、今年は1月25日から2月2日まで開催されます。私は11年前の2014年12月に妻と神戸ルミナリエを見に行きました。その時の写真は昨年の「この1枚-6」に載せています。

 阪神大震災では無残に倒れた高速道路の写真がテレビや新聞で紹介されました。今日のこの1枚は地震で倒れた高速道路が見事に復興した夜景の写真です。神戸のホテルオークラの29階から撮ったものです。

 地震発生の時は早朝で暗かったことでしょう。この写真は倒れた場所そのものではないと思いますが、おそらくここに近い場所が倒れたのではないかと思います。

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2025年1月15日 (水)

老人の独り言-17 プロ野球の歴史 初期の5人の強打者(NO.1874)

 プロ野球2リーグ誕生の前後に活躍した5人の強打者です。5人に絞ったのはあくまで私の独断です。お許しください。年齢順に並べてみます。

藤村冨美男

 1916年生まれ、呉港中学卒業、1936年から1958年まで戦争を挟んで通算17年、大阪タイガース一筋で活躍しました。

 初代「ミスタータイガース」としてダイナマイト打線の不動の4番打者でした。普通のバットより8センチ長い通称「物干し竿」を駆使したことで有名です。闘志むき出しのプレースタイルで「阿修羅の藤村」とも言われました。

・首位打者 1回 通算打率 3割ちょうど

・ホームラン王 2回 生涯 224本

・打点王 5回

・MVP1回 

 入団当初8年間は二刀流で投手として34勝を挙げています。

川上哲治

 1920年生まれ、熊本工業では投手として甲子園で2度準優勝しています。1938年東京巨人軍入団、プロ入り後打者に転向、1958年まで通算18年ジャイアンツ一筋で活躍 

・首位打者 5回 通算打率 3割1分3厘(歴代2位)

・ホームラン王 2回 生涯 181本

・打点王3回 

・MVP 3回 

 2000本安打を達成したのは川上選手が初めて、通算2351本の安打を放っています。

大下弘

 1922年生まれ、明治大学卒業、1946年から1959年まで通算14年、東急セネタースで6年と西鉄ライオンズで8年活躍しました。

 「青バットの大下」「ポンちゃん」と言われ、ハンサムだったため女性に人気のある選手でした。

・首位打者 3回

・ホームラン王 3回 生涯201本

・MVP1回

青田昇

 滝川中学中退、1942年から1959年まで通算16年、ジャイアンツ、阪急ブレーブス、大洋ホエールスで活躍しました。

 プレースタイルと奔放な言動で、通称「ジャジャ馬」と言われました。

・首位打者 1回 通算 2割7分8厘

・ホームラン王 5回 生涯 265本

・打点王 2回 

中西太

 1933年生まれ、高松第一高校卒業、1952年から1969年まで通算18年ライオンズ一筋でした。上記の4人が戦前や1リーグ時代の入団ですが、中西選手は2リーグ誕生後の入団です。

 通称「怪童」と呼ばれました。

・首位打者 2回 通算 3割7厘

・ホームラン王 5回 生涯 244本

・打点王 3回

・MVP 1回

 現役引退後9球団の監督やコーチを務め、多くの名選手を育てた「名伯楽」として有名です。

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2025年1月 9日 (木)

老人の独り言-16 プロ野球の歴史 初期の3人の大投手(NO.1873)

 プロ野球の歴史上、数多くの大投手が生まれています。ここでは初期のころに活躍した3人の大投手を取り上げます。

 金田正一投手、稲尾和久投手、杉下茂投手です。同時期にはほかにも大投手と言われた選手がいましたが、この3人は私の印象に強く残っているという理由で取り上げました。

 金田正一投手は通算400勝を挙げた唯一の投手です。

 1933年生まれ、1950年に享栄商業を中退して17歳で国鉄(現ヤクルト)スワローズに入団しました。1965年に巨人に移籍、1969年に引退しています。

 400勝のほかに、14年連続20勝以上、奪三振通算4490個、最多奪三振10回、64イニング1/3の連続イニング無失点、沢村賞連続3回などの日本記録を持っています。ノーヒット・ノーランを史上最年少の18歳で達成、完全試合も成し遂げています。200勝には史上最年少の24歳で達成しました。

 1958年には巨人に入団した新人の長嶋茂雄と初対戦し、4打席連続三振に打ち取りました。

 1965年には巨人に移籍、全盛期を過ぎていたので、引退する1969年までに47勝しか挙げられませんでした。

 しかし金田の存在が巨人選手の意識改革に大いに役立ちました。今でも覚えているのは、スプリングキャンプに自分で持ち込んだ食材で「金田なべ」を作り選手に食べさせて、野球に適した体力づくりを図ったことです。当時はコレステロールなどという言葉はあまり知られていませんでしたが、金田投手はそれをみんなに意識させていたようです。

 引退後、200勝以上の投手と2000本安打以上の野手が入会できる「名球会」を作り、初代会長を務めました。

 稲尾和久投手は1958年の日本シリーズで西鉄ライオンズが巨人に3連敗した後4連勝した時の活躍で世間の注目を浴びました。稲尾投手は4連投で4連勝し、「神様、仏様、稲尾様」と言われました。

 1937年生まれ、大分県立別府緑が丘高校という野球では名の知られていない高校から1956年に西鉄ライオンズに入団しました。1969年に引退するまで、ライオンズ一筋でした。

 1961年には年間42勝を挙げました。この記録はスタルヒンと年間最多タイ記録となっています。

 通算では276勝を挙げています。MVP2回、8年連続20勝以上、日本シリーズ最多通算11勝のタイ記録なども残しています。

 杉下茂投手は「フォークボールの神様」と言われた投手です。プロ野球が生まれたころは、投手の投げる球はストレートとカーブとドロップ(タテに落ちるカーブ)でした。巨人の藤本英雄がスライダーを持ち込みましたが、フォークを投げ始めたのが杉下茂でした。

 1925年生まれ、明治大学旧専門部を卒業し、1949年に2リーグ誕生前の中日ドラゴンズに入団しました。1960年まで中日で活躍し、1961年毎日大映オリオンズに移籍してその年引退しています。通算215勝、沢村賞3回、MVP1回、最多勝と最多奪三振を各2回とっています。

 杉下投手のフォークは今のナックルボールに近い球で、キャッチャーがとるのも苦労したようです。今の投手はフォークを多投しますが、杉下投手はフォークを神様用のボールとして1試合に5~6球しか投げなかったようです。それでも打者はいつ来るかわからず苦労したようです。

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2025年1月 3日 (金)

米寿のお祝いをしてもらった(NO.1872)

 2025年1月29日に88歳の米寿を迎えます。そのお祝いを1月1日の夜、長女宅で開いてくれました。

 我が家の家族は私と妻、長女夫婦と男の孫2人、長男夫婦と孫娘1人、合計9名です。

 最初は全員我孫子に住んでいましたが、男の孫は社会人となり我孫子から離れました。

 それでもお正月にはみんな集まって「どん亭我孫子店」で食事を共にしていました。ところが「どん亭」が店を閉めたため、今年は長女宅に私の米寿のお祝いを目的に集まったのです。

 長女宅では80歳の傘寿のお祝いもしてくれています。その時から8年たち、私は老いましたが、孫たちは社会人と大学生になりたくましくなりました。みんなの元気そうな顔を見て、家族全員が無事に過ごせたことをつくづく幸せに感じました。

 豪華な食事のほかにその場でサプライズのプレゼントをもらいました。私の似顔絵の額縁と「良昭」の名前入りの日本酒です。どちらにも誕生日と「祝米寿」との文字とうれしいメッセージが入っていました。

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 このプレゼントは、長男がネットでこういうサービスを提供するところを探して依頼したものです。私のような老人には考えもしないことで、今の世の中の進歩を実感しました。

 会社の同僚や高校や大学の同級生は鬼籍に入った人が増えました。

 弟2人と妹1人の4人兄弟のうち、残念ながら下の弟と妹は米寿を迎えることなく亡くなりました。

 1つ違いの弟と6歳下の妻は無事に米寿を迎えられるよう祈っています。

 私が88歳の米寿を迎えられた(まだ1か月ほどありますが)のは、妻を始め家族のおかげと思っています。深く感謝します。また今回のお祝いを企画し実行してくれたみんなにもお礼を言いたいと思います。

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