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2025年11月23日 (日)

長嶋さんのお別れ会に思う(NO.1947)

 2025年11月21日、東京ドームで今年6月に89歳で亡くなった長嶋茂雄さんの「お別れの会」が開催されました。

 球界関係者らが出席した式典では、王貞治さん、松井秀喜さん、北大路欣也さんが「お別れの言葉」をのべ、高市首相、イチローさん、大谷翔平選手から寄せられた「ビデオメッセージ」が紹介されました。

 午後2時30分からは一般の部になり、全国から長嶋ファンが訪れました。私も足が丈夫ならぜひ出席したかったのですが、もう遠出ができないので泣く泣く諦めました。

 私は長嶋さんと同じ時代を過ごせたのが素晴らしい思い出になっています。思い出を振り返りましょう。

 長嶋さんは1936年2月生まれ、私は1年下の1937年1月生まれです。長嶋さんが巨人に入ったのが1958年、私が社会人になったのが1960年でした。私は1浪で大学に入ったため2年の差がつきました。

 それから長嶋選手のプロ野球での活躍がはじまりました。デビュー戦はスワローズの金田正一投手から食らった4連続空振りの三振でした。金田が投げた19球のうちバットに当たったのはファウルの1球だけでした。私はラジオで実況中継を聞いていました。

 しかしその思い切りの良さと三振しても悪びれない明るいイメージがファンの心を打ちました。対金田の打率はこの年こそ1割9分7厘でしたが、通算では3割1分3厘、本塁打も18本打っています。

 翌年があの有名な天覧試合でのサヨナラホームランです。下宿でテレビを見ていました。

 巨人のV9が始まったのは1965年からです。長嶋選手のすごさは打って欲しいと思った時打ってくれたことです。大試合に強いという特技もありました。

 レギュラーシーズンのMVPは5回で王の9回には及びませんが、日本シリーズのMVPは4回で歴代1位です。開幕戦の本塁打は10本で5年連続という記録もあります。いずれも日本記録です。サヨナラ安打14本(セ・リーグ右打者記録)、サヨナラホームラン7本(セ・リーグ右打者記録)もあります。

 1974年の引退試合で通算444本目になるホームランを放ちました。そして「巨人軍は永久に不滅です」という言葉を残して引退しました。私はこの試合もテレビで見ていました。

 翌年には川上監督の後を継いで監督に就任しました。長嶋選手の抜けた巨人は弱く球団初の最下位となりました。1976年、1977年は移籍してきた張本などの活躍でリーグ優勝はしましたが日本一にはなれませんでした。

 1979年秋には、江川、西本、中畑、篠塚など若手中心で地獄の伊東キャンプと言われたキャンプを行いました。この選手たちはのちに藤田監督時代を支えました。

 1980年優勝を逃したため事実上の解任で巨人を去りました。

 第2次長嶋監督時代は13年後の1993年に始まりました。2001年までの9年間でリーグ優勝3回、日本一2回の成績を残しました。

 私の印象に一番残っているのは2000年に王監督の率いるダイエー・ホークスと日本一を争ったことです。ON対決ということで世間の注目を浴びました。巨人の4勝2敗で決着がつきました。

 2001年に引退し、原監督に後任を託しました。

 2004年のアテネオリンピックで野球日本代表チーム監督を務めることが決まっていましたが、半年前の2004年3月脳梗塞で倒れました。出場はかなわず、懸命にリハビリに励みました。

 その後は国民栄誉賞受賞、東京オリンピック聖火ランナー、文化勲章受章などでお元気な姿を拝見しました。

 長嶋茂雄さんは素晴らしい人生だったと思います。ミスタープロ野球として、ファンを、国民を、喜ばせ、励ましてくれました。

 ありがとうございました。同じ世代に生きたことを誇りに思っています。

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