« 2025年11月 | トップページ | 2026年1月 »

2025年12月25日 (木)

老人の独り言-39 プロ野球の歴史 ドラフト制度の変遷(NO.1958)

 プロ野球のドラフト制度は1965年に始まりました。

 それ以前は選手の獲得は球団と選手側の話し合いで決まっていました。1958年に巨人に入団した長嶋選手も翌年の王選手も自分たちで決めて入ったのです。

 このやり方だと、人気のある球団、お金のある球団にいい選手が集まりがちです。球団の格差が広がる可能性が強かったのです。

 1964年に西鉄ライオンズの社長から、アメリカのアメリカン・フットボールのNFLに倣ってドラフト会議が提案されました。それを受けて1965年から日本のプロ野球でもドラフト制度が取り入れられました。

 第1回目のやり方は各球団が指名希望選手30名以内の名簿を順位をつけて事前にコミッショナー事務局に提出、順位が他球団と競合した場合は抽選という方法でした。ところが132名の指名に対し、入団が決まったのは50名でした。選手の入団拒否や球団の交渉権放棄が多かったのです。選手側も球団側もドラフト制度に慣れていなかったのでしょう。

 ちなみに第1回のドラフトで入団したのは、巨人の堀内恒夫投手、阪神の藤田平内野手、阪急の長池徳二外野手、東京オリオンズの木樽正明投手などです。その後ドラフト制度は細かい変更を合わせて10回ほど変わりました。

 現在のような高校生・大学生・社会人を合わせた一括開催方式で、各球団が欲しい選手をその場で指名し、競合した場合は抽選というやりかたに変わったのは、2008年からです。育成選手は順位折り返し方式です。2008年以降は変更はありません。

 それまでの大きな変更を見てみましょう。

 1967年~1977年は指名する球団の順位を抽選で決めました。

 1978年~1992年は重複する選手を抽選する方式に戻しました。

 1993年~2000年は逆指名方式を取り入れました。社会人、大学生に限って1位、2位は選手のほうから球団を選ぶ方式です。

 2001年~2004年は各球団が社会人、大学生を2人まで自由に獲得できる方式を取り入れました。 

 2005年~2007年は高校生のドラフト会議と、社会人および大学生のドラフト会議を分けて開催しました。そして2005年から育成選手のドラフトがはじまりました。

 2008年からは現在の方式に統一されたのです。

 大きな変更は以上ですが、細かいルール変更はもっと頻繁に行われました。それについては煩雑なので省略します。

 ドラフトの始まった年は巨人のV9の始まった年でもありますが、ドラフト60年を過ぎた今では各球団の実力差がなくなってきたと言えます。

 ただドラフト上位で選ばれた選手が必ずしも期待度売りに活躍するとは言えません。イチローも山本由伸もドラフトでは4位指名です。入団後の努力が大切と思います。

 ドラフト制度が定着したことによって、プロ野球の戦いが激しくなって、プロ野球の人気が広まったことは間違いありません。

| | | コメント (0)

2025年12月19日 (金)

2025年海外10大ニュース(NO.1958)

 2025年12月19日、読売新聞の読者が選んだ「2025年海外10大ニュース」が決まりました。

1 第47代米大統領にトランプ氏が就任

2 中国、高市首相答弁に反発、渡航自粛呼びかけ

3 米が相互関税発表、日本24%、中国34%

4 ロサンゼルスで山火事

5 ルーブル美術館で盗難、被害約8800万ユーロ

6 ミャンマーでM7.7の地震。3700人以上死亡

7 ウクライナ侵略3年、トランプ氏はゼレンスキー大統領を罵倒

8 初の米国出身 新教皇レオ14世

9 韓国の尹大統領逮捕 現職で初

10 旧統一教会総裁を逮捕

 読売新聞が用意した47項目から10項目を選んで応募する方法です。

 有効応募総数は昨年の19,722通より減って15,769通でした。年代別では70歳以上が30%、60歳代が25%、次いで19歳以下が18%でした。

 全項目的中者は昨年は2人でしたが、今年はゼロでした。全体では6項目的中者が最も多く26.1%でした。

 私も応募しました。4年連続で6項目しか的中しませんでした。いつも海外ニュースは国内に比べると成績が振るいません。私の不勉強と読者の価値判断の違いのためと思います。

 6,7,9,10の代わりに

14 ガザ和平計画「第1段階」合意

16 韓国大統領選で李在明氏勝利

18 米がハーバード大の留学生受け入れ停止発表

20 英仏カナダがパレスチナを国家承認

を選びました。

| | | コメント (0)

2025年12月18日 (木)

2025年日本10大ニュース(NO.1956)

 2025年12月18日、読売新聞読者が選んだ「2025年日本10大ニュース」が決まりました。

1 大阪・関西万博が開幕

2 クマ襲撃相次ぐ

3 自民党総裁選で高市早苗氏勝利、初の女性首相に

4 コメ価格高騰、政府備蓄米の放出

5 大谷、山本、佐々木が活躍 ドジャース連覇

6 読売巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さん死去

7 埼玉県八潮市で道路陥没、トラック転落で男性死亡

8 ノーベル賞日本人2人が選ばれる

9 参院選で自公が過半数割れ

10 今夏の平均気温最高に

 読売新聞が用意した57項目から10項目を選んで応募する方法です。有効応募総数は昨年の24,675通よりやや少なく22,421通でした。年代別では70歳代が一番多く31%でした。それに次いで多かったのは60歳代で25%、3番目は19歳以下の19%でした。応募者の比率の数字は昨年とまったく同じでした。

 全項目的中者は昨年の3名から大幅に増えて30名でした。全体では昨年同様6項目的中者が最も多く22.8%でした。

 私も応募しました。昨年は8項目的中でしたが、今年は9項目的中しました。惜しかったです。9項目的中者は全体の3.1%でした。

 7の代わりに、30位までに入らなかった

「デフリンピック東京大会が開幕」

を選びました。

 自分の耳が遠くなったので耳の悪い人の大会に関心を持ったのですが、社会全体ではまだまだ関心が薄いようです。

 大谷選手は5年連続で10大ニュースに登場しました。素晴らしいですね。おそらく来年も10大ニュースに選ばれるのではないでしょうか

| | | コメント (0)

2025年12月17日 (水)

経済同友会代表幹事に日本IBMの山口明夫社長が内定(NO.1955)

 2025年12月16日、サプリメントの購入を巡って警察の捜査を受けて経済同友会の代表幹事を任期途中で辞任した新浪剛史氏の後任に、日本IBM社長の山口明夫氏が内定しました。

 山口氏は1987年大阪工業大学を卒業し日本IBMに入社し、2019年から社長を務めています。日本IBMの社長が経済同友会の代表幹事に就任するのは、2003年~2007年の北城格太郎社長以来2人目となります。

 元日本IBMの社員だった私にとって誇らしいことです。最近IBMに記事が新聞に載らなくなっただけに久しぶりのいいニュースとなりました。

 私は1993年6月まで日本IBMに在籍し、1978年から82年までの6年間と、退職後の1998年から2006年の9年間、日本IBMの新入社員研修のインストラクターをやっていました。

 当時は、新入社員の研修は、入社時の4月から始まり、セールスの場合は10月まで、SEの場合は翌年の10月まで、職場と研修施設を交代で行き来し、研修を受けることになっていました。かなり長期間の徹底した研修でした。

 期間が長いだけに、インストラクターは新入社員については職場の上司と同じようによく知るようになりました。特に優秀な生徒と特に出来の悪い生徒は顔と名前をしっかり覚えていました。

 しかし山口社長が入社した1987年は研修部門でなく、別の部門に在籍していたため全く接点はなく、同時にIBMに在籍したのがわずか6年なので山口社長については全く知りませんでした。

 読売新聞によると、同友会関係者からは「山口氏はグローバルな視点を持ち、非常に優秀な人。選考過程での『意中の人』で代表幹事に値する人だ」との評価を受けたとありました。

 経済同友会代表幹事として、日本経済をより発展させるようなリーダーシップやアドバイスを期待しましょう。

 

| | | コメント (0)

2025年12月16日 (火)

老人の独り言-38 プロ野球の歴史 パ・リーグの再生と楽天ゴールデン・イーグルスの誕生(NO.1954)

 2004年は日本プロ野球パ・リーグにとって忘れられない年になりました。パ・リーグの存続を危ぶまれる事態が発生し、それを見事に解決、発展につながる年だったのです。

 発端は電鉄の近鉄本社とスーパーのダイエー本社の経営不振から始まりました。

 当時プロ野球は親会社の支援なしに黒字経営だったのは、セ・リーグの巨人、阪神、広島の3球団で、パ・リーグに至っては最も観客動員数の多かったダイエーでさえ赤字でした。パ・リーグは観客数が伸びずテレビ放送もほとんどありませんでした。赤字の球団経営を「宣伝費」として親会社が負担する日本型の球団経営は限界を迎えていたのです。

 パ・リーグの近鉄・バッファローズはオリックス・ブルーウェーブに吸収される合併を目指していました。ダイエー・ホークスはダイエー本社が倒産に危機にあることから球団経営先を探していました。

 合併が行われたら球団数は5球団になります。そこで出てきた案が、球団数8~10の1リーグ制です。読売・ジャイアンツのオーナー渡辺恒雄ほか一部のオーナーの案です。

 これに反対したのが選手会です。選手会は「合併反対」「2リーグ制12球団支持」を掲げて、9月18,19の両日ストライキを敢行しました。日本プロ野球初のストライキでした。

 そこに登場したのがライブドアの堀江貴文氏と楽天の三木谷浩史氏でした。新球団を作り参入を試みました。

 決着するまでには、人が変わったり、会議が何度も開催されたり、マスコミの報道が行き違ったりいろいろなことが起こりました。

 最終的に決まったのが、合併は承認され大阪に移動してオリックス・バッファローズに、新規参入は仙台がフランチャイズの楽天・ゴールデンイーグルスになり、2リーグ12球団制はそのままということでした。ダイエー・ホークスはそのまま福岡でソフトバンク・ホークスになりました。

 それ以後各球団も知恵を絞って経営に努力することになりました。2005年にはセ・パの交流戦がはじまり、2007年にはクライマックスシリーズが導入されました。テレビ放映もそれまでの巨人優先でなく、その他の球団の試合が増えました。今では観客数も全球団、増加しています。

 

| | | コメント (0)

2025年12月14日 (日)

手賀沼通信の読み返しを始める(NO.1953)

 2025年10月に手賀沼通信の第1号からの読み返しを始めました。

 今までは書いて出すことには熱心でしたが、出した後読み返すことはあまりやっていませんでした。1998年(平成10年)4月から出し始めて今は27年目、333号になっています。終活の1つとして再度読んでみるのもいいと思ったのです。

 読み始めて気が付いたのは、今の手賀沼通信よりずっと真面目に、真剣に取り組んでいたことを発見しました。「高齢者の豊かな生活のために」というモットーを掲げて、高齢者のためになりそうな知識や体験や調査を心掛けていたことを思い出しました。毎月テーマを決めて編集を心掛けていました。

 読者からの投稿を頼りにし、それが載せられないときは手賀沼通信ブログからの抜粋でお茶を濁している感じの今の手賀沼通信とは大違いでした。

 20号までの主なテーマを見てみましょう。

・第2号 1998年5月 「老人医療について」「葬儀について」

・第4号 同年7月 「株主総会出席体験」

・第5号 同年8月 「老人介護について」

・第7号 同年10月 「厚生白書を読んで」「高齢者のパソコン教室のお手伝い」

・第9号 同年12月 「千葉地方裁判所法廷傍聴記」

・第10号と第11号 1999年1月と2月 「年金問題を考える」

・第14号 同年4月 「まちづくりについて」

・第15号 同年6月 「無料のセミナーを探す」

・第17号 同年8月 「投稿―自分に適した生きがいづくり」

・第18号 同年9月 「投稿―私の闘病記」

・第19号 同年 「投稿―職業訓練校」「投稿―就農準備校」

 書き始めたのが60歳代前半で退職して時間がたっぷりあったため、いろいろな会に加入したり、講演会や勉強会などに参加したり、足を使って調査したりすることができました。

 読者の方も同世代が多く、いろいろな体験談を寄せてくださいました。懐かしい思い出になっています。

 

| | | コメント (0)

2025年12月13日 (土)

老人の独り言-37 プロ野球の歴史 投手の勝ち星が減った(NO.1952)

 2025年も終わりを迎えようとしています。1950年にプロ野球が1リーグに分かれてから76年が経ちました。

 この76年間で大きく変わったことの1つが投手の勝ち数が減ってきたことです。

 今日は最多勝利投手を振り返ってみます。

 2025年は、セ・リーグでは村上頌樹(阪神)と東克樹(DeNA)の両投手が、パ・リーグでは伊藤大海投手がともに14勝で最多勝を受賞しました。

 14勝はパ・リーグでは過去最低タイの勝利数で昨年も同じ勝利数で2人が受賞しています。2020年は11勝で3人が受賞しましたが、これはコロナのために試合数が143試合からこの年だけ120試合に減らされたための特例です。

 セリーグでは、2014年に2人、2021年に2人、2022年に1人の合計5人が13勝で受賞しました。なおコロナの2020年は巨人の菅野智之投手が14勝しました。

 セ・リーグでは、1950年から1970年までは21年間連続して20勝以上挙げた投手が最多勝を獲得しました。最多勝数は1961年に中日の権藤博投手の35勝です。

 1971年に大洋の平松政次投手が17勝で最多勝になり、それ以後は20勝以上と20勝以下の最多勝が入り交じるようになりました。最後の20勝以上の投手は2003年阪神の井川慶投手でそれ以後は20勝投手は出ていません。

 パ・リーグでは、1950年から1980年まで31年間連続して20勝以上の投手が最多勝になりました。偶然にもセ・リーグと同じ年の1961年に西鉄の稲尾和久投手が42勝を挙げて最多勝に輝きました。この勝ち数は日本記録となっています。

 この時の試合数はセ・リーグが130試合、パ・リーグが140試合でした。

 1981年に阪急の今井雄太郎とロッテの村田長治の両投手が19勝で最多賞になりました。以後はセ・リーグと同じように20勝以上と20勝以下の最多勝が出て、最後の20勝以上は2013年楽天の田中將大投手が24勝で最後の20勝投手となりました。

 試合数が増えたのに投手の勝ち数が減るという現象は定着しました。これはメジャーリーグから生まれた投手の分業化と投球数及び登板数のコントロールが、日本のプロ野球にも根付いたためと言えます。

 当初のプロ野球は大投手なら先発とリリというーフを両方やることが当たり前でした。今年のワールドシリーズで山本由伸が完投したり、リリーフで登板して話題になりましたが、昔は当たり前のようにやっていました。いまはないダブルヘッダーの第1試合に完投し、第2試合のリリーフで登板ということもあったような気がします。

 もしかすると田中將大の200勝が最後の200勝になるかもしれません。金田正一投手の400勝は永久に破られないでしょう。

 

| | | コメント (0)

2025年12月 6日 (土)

老人の独り言ー36 プロ野球の歴史 WBCの3回目~5回目(NO.1951)

 前回のブログに誤りがありました。2回目のWBCの韓国相手の決勝戦でイチローが9回表に決勝打を放ったと書きましたが、正しくは延長10回表でした。お詫びして訂正いたします。

 今回は3回目から5回目について書きます。もう一度おさらいしましょう。

  大会  開催年  監督   優勝  2位  3位

・第1回 2006年 王貞治  日本 キューバ 韓国

・第2回 2009年 原辰徳  日本 韓国 ベネズエラ

・第3回 2013年 山本浩二 ドミニカ プエルトリコ 日本

・第4回 2017年 小久保裕紀 アメリカ プエルトリコ 日本

・第5回 2023年 栗山英樹 日本 アメリカ メキシコ

 第3回大会から日本代表チームの名称が「侍ジャパン」となりました。

 第3回大会のメンバーは投手が、田中、前田、内海、涌井、能見、杉内など13名、捕手が阿部、相川など3名、内野手が鳥谷、坂本、稲葉など7名、外野手が中田、内川、糸井など5名でした。

 16チームが第一ラウンドを戦い、8チームが第2ラウンドを戦いました。第2ラウンドは前回評判の悪かったダブルイリネーション方式が取り入れられていました。

 侍ジャパンは第1、第2ラウンドは勝ち残りましたが、準決勝でプエルトリコに敗れベスト4にとどまりました。大会のルールで3位になっています。

 第4回大会も前回と同様ベスト4にとどまりました。第1、第2ラウンドとも全勝で勝ち上がったのですが、準決勝でアメリカに1-2で敗れたのです。やはり得失点差で3位となりました。

 第4回大会のメンバーは、投手は菅野、則本、千賀、藤浪など13名、捕手が炭谷、小林など3名、内野手が松田、菊池、坂本など6名、外野手が筒香、内川、鈴木など6名でした。

 第5回大会はコロナ渦のため試合が延期となり7年後の2023年に開催されました。

 この大会はまだ皆さんの記憶に残っているのではないでしょうか。私も家族でテレビを見て応援しました。大谷翔平選手が二刀流で大活躍、MVPに選ばれました。決勝戦で大谷選手がクローザーで登板、見事アメリカのトラウトを三振に切って取った場面はまだ記憶に新しいです。

 また準決勝で不振だった村上が逆転の長打を放って勝ったことも忘れられません。

 第5回大会はシードチームと予選を勝ち抜いた20チームが参加しました。

 5チームずつ4組に分かれて戦い、上位2チームがトーナメントを戦いました。第2ラウンドはなく、代わりに準々決勝がありました。

 日本は全勝で決勝戦を迎え、アメリカに3-2で勝利したのです。

 参加メンバーは投手兼指名打者の大谷、投手は山本、ダルビッシュ、今永、戸郷、佐々木、大勢など15名、捕手は甲斐など3名、内野手は村上、岡本、山田、源田など8名、外野手は近藤、吉田、ヌートバーなど4名でした。

 そして来年は第6回大会が開かれます。楽しみです。 

 

 

| | | コメント (0)

2025年12月 3日 (水)

老人の独り言―35 プロ野球の歴史 WBCの1回目と2回目(NO.1950)

 WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)での日本選手の活躍を2回に分けて振り返ります。

 WBCはアメリカのMLB機構とMLB選手会が立ち上げたWBCIが主催する世界の国・地域別の野球の対抗戦です。

 今まで5回の大会が3月に行われ、日本の成績は次のようになっています。

  大会  開催年  監督   優勝  2位  3位

・第1回 2006年 王貞治  日本 キューバ 韓国

・第2回 2009年 原辰徳  日本 韓国 ベネズエラ

・第3回 2013年 山本浩二 ドミニカ プエルトリコ 日本

・第4回 2017年 小久保裕紀 アメリカ プエルトリコ 日本

・第5回 2023年 栗山英樹 日本 アメリカ メキシコ

 第5回大会は2017年からは7年ぶりとなっていますが、コロナのため開催が延びたためです。

 第1回大会では世界の各国・地域から選ばれた16チームが4チームずつ4組に分かれ各組の中で総当たり戦の第1ラウンドを戦い、上位2チームが第2ラウンドで他の組の勝者と同じように戦いました。

 そして勝ち残った4チームで準決勝と決勝戦を争ったのです。

 日本は準決勝で韓国を、決勝戦ではキューバを破って優勝しました。韓国とは1勝2敗でした。

 MVPには松坂大輔投手が選ばれました。

 参加メンバーは投手では松坂、上原、大塚など、野手ではイチロー、福留、松中、宮本、里崎、小笠原、川崎などが参加しました。メジャーリーグで活躍していた松井や井口は参加を辞退しました。イチローは特別でした。

 当時はWBCが有名でなかったため、アメリカの各球団の有力選手はレギュラシーズンの開幕に備えて参加を辞退していました。球団が参加を認めていなかったのかもしれません。WBCはアジアと中南米のチームが主力でした。

 2009年に行われた第2回WBCでは戦い方が変わりました。

 第1ラウンド、第2ラウンドとも総当たり戦でなく、ダブルイリミネーションが取り入れられたのです。トーナメントで戦い、敗者復活戦があるのです。2敗するまで戦います。

 勝ち上がった4チームは準々決勝と決勝戦を戦いますが、日本は優勝するまでに韓国と5度戦いました。結果は3勝2敗でした。

 同じ組み合わせが多すぎて新鮮味がないと運営方法に批判が出て、この方式は次の大会の第2ラウンドで使われただけでおしまいになりました。

 第2回大会のMVPも前回と同じく松坂大輔に輝きました。

 WBCは球数制限と登板制限があります。そのため登録される投手の人数が増えます。

 この大会は、投手は松坂、岩隈、ダルビッシュ、涌井、田中、山口、杉内、藤川など、野手はイチロー、城島、青木、阿部、岩村、村田、内川などが参加しました。

 私の記憶に一番残っているのはこの大会の決勝戦で、大会を通じて不振だったイチローが9回表決勝打を放って韓国を下したことです。思わず目頭が熱くなりました。

 イチローさんありがとうございました。

| | | コメント (0)

« 2025年11月 | トップページ | 2026年1月 »