2024年12月 3日 (火)

老人の独り言-14 プロ野球の歴史 フランチャイズ球場-2(NO.1865)

 フランチャイズ球場その2はドーム球場を持たない6球団です。

 12球団を通して長く同じ球場を持っているのは阪神タイガースで、ご存じ甲子園球場です。タイガースは球団創設の1935年から甲子園球場を本拠地としています。甲子園と言えばタイガースと春夏の高校野球で代表される球場になっています。1991年にラッキーゾーンが撤去され、ホームランが減りましたが、球場本来の姿となりました。2007年から2010年にかけては大規模な改修が行われました。

 一方フランチャイズ球場をダイナミックに変えたのがロッテマリーンズです。チーム名も変えました。チームは、毎日オリオンズ→毎日大映オリオンズ→東京オリオンズ→ロッテオリオンズ→千葉ロッテマリーンズと変わりました。フランチャイズ球場は、後楽園球場(東京都)→東京スタジアム(東京都)→宮城球場(宮城県)→川崎球場(神奈川県)→マリーンスタジアム(千葉県)と変わりました。

 マリーンスタジアム以外は球場そのものがなくなっています。特に東京スタジアムは1962年に開場しましたが、わずか10年後の1972年に閉場しました。映画の大映の永田雅一氏が作った球場です。当時私は三井生命我孫子寮に住んでおり、毎日の通勤の常磐線電車から東京スタジアムとおばけ煙突を眺めながら通ったものです。宮城球場は改修前の球場で、仙台に転勤して住んでいたわが家からはるか遠くの球場の明かりが見えていました。老朽化した川崎球場からマリーンスタジアムに移るときロッテマリーンズに球団名を変えました。

 楽天は改修済みの宮城球場を本拠地にしました。仙台駅から球場につながる道路も球場の改修に合わせてきれいに整備したのではないかと思います。

 DeNAベイスターズも球団名がいろいろ変わりました。1950年発足した大洋ホエールズが松竹ロビンスと合併、洋松ロビンス、横浜ベイスターズを経て、2012年DeNAベイスターズとなりました。フランチャイズ球場は当初は確定していなかったようですが、1955年に横浜公園内の球場を本拠地としてから川崎球場を経て1978年横浜球場がフランチャイズ球場となりました。

 ヤクルトスワローズは1964年本拠地を後楽園球場から神宮球場に変えています。ヤクルトスワローズは1950年国鉄スワローズとして誕生しました。その後サンケイスワローズ、サンケイアトムズ、ヤクルトアトムズと名前を変え、1974年ヤクルトスワローズとなりました。

 広島カープは、巨人、阪神、中日、楽天、などと同じく、当初から名前を変えていない球団です。フランチャイズ球場は広島市民球場から、2009年マツダスタジアムに変わりました。

 調べていくうち、球団名も球団オーナーも球場もプロ野球の歴史の中では大きく変わっていることがわかりました。

| | | コメント (0)

2024年11月29日 (金)

老人の独り言-13 プロ野球の歴史-フランチャイズ球場-1(NO.1864)

 プロ野球12球団はそれぞれの球団のフランチャイズ球場を持っています。その歴史をたどってみましょう。

 2度に分け、1回目はドーム球場の球団です。

 最初にドーム球場を持ったのは読売ジャイアンツです。1988年東京ドームが後楽園競輪場の跡地に完成しました。日本初のドーム球場です。アメリカのメジャーリーグでは1965年テキサス州ヒューストンに世界初のドーム球場アストロドームが完成して、ヒューストン・アストロズのホーム球場となっていました。東京ドームはそれを見習ったのではないかと思われます。

 ジャイアンツは後楽園球場から東京ドームに移りました。雨風にも暑さ寒さにも関係なく観戦ができる快適な球場です。後楽園球場は比較的簡単にチケットが買えましたが、東京ドームの巨人戦のチケットはプラチナチケットに変わりました。

 2番目は1993年のソフトバンクの福岡ドームです。日本で初めて開閉式の屋根を持つ球場です。

 3番目は1997年に完成した名古屋ドームと大阪ドームです。

 中日ドラゴンスは中日球場から名古屋ドームに拠点を移しました。

 大阪ドームは完成時は近鉄バッファローズの本拠地でした。2004年にオリックス・ブルーウェーブが近鉄バッファローズを吸収合併して、オリックス・バッファローズの球場になったのです。

 5番目は1999年に改造した西武ドームです。1979年に完成した西武球場は福岡平和台球場から西武に移ったライオンズの本拠地でした。当初は屋根のない球場でしたが、1999年に屋根を付けドーム球場に改造しました。屋根とスタンドの間の壁はなく、空調もありません。ドーム球場としては中途半端な感じです。

 6番目は2023年に完成したエスコンフィールドの日本ハムです。開閉式の屋根を持った遊び心満天の最新のドーム球場です。日本ハムは2004年に東京から、2001年に建設された札幌ドームに本拠地を移しました。そして昨年エスコンフィールドに移ったのです。理由は札幌ドームが札幌市の所有でサッカーや他のイベントと競合することや独自の収益が得られないことなどから、自由に使える自社関連のエスコンフィールドに本拠地を移すことになったようです。

 今はプロ野球の半数の球団、最北と最南の球団がドーム球場を使用しています。

| | | コメント (0)

2024年11月23日 (土)

大谷選手が3度目のMVPを受賞(NO.1863)

 2024年11月21日、ドジャースの大谷翔平選手がナショナルリーグのMVPに選ばれました。アメリカンリーグのエンゼルス時代の2021年、2023年続いて2年連続3度目の受賞となりました。

 今回のMVPはいくつかの記録がついています。

・3回連続「満票」は初めて

・指名打者のMVPは初めて

・3度目の受賞は歴代2位タイの12人目

・両リーグでの受賞はオリオールズのフランク・ロビンソン以来の58年ぶりの2人目

・リーグをまたいでの2年連続は初めて

 などです。

 今シーズンの大谷選手の記録は次の通りです。

・54ホームラン 2年連続のホームラン王

・130打点 日本人初の打点王

・3割1分の打率 リーグ2位

・59盗塁 リーグ2位

・50ホームラン-50盗塁 メジャー初

 今年の大谷選手は悪いニュースとして通訳の水原一平氏の違法賭博発覚・解雇から始まりましたが、それを打ち消すように真美子さんとの結婚や愛犬デコピンの始球式などいい話題を提供してくれました。

 そしてホームランと打点の2冠、50-50の達成、ワールドチャンピオンの獲得と素晴らしい結果を残しました。

 大谷選手は「今回のMVPはチームの仲間を代表してもらったようなもの」と語っています。来年はピッチャーとしての活躍も期待されています。

 おめでとう 大谷翔平!

 がんばれ 大谷翔平!

| | | コメント (0)

2024年10月 3日 (木)

おめでとう 巨人優勝、ドジャース優勝、そして大谷選手の大記録(NO.1856)

 2024年10月2日、読売ジャイアンツの今年の戦いが終わりました。セントラルリーグでの4年ぶりの優勝、阿部慎之助監督としては監督1年目での優勝です。

 終盤まで巨人、阪神、広島、DeNAの4チームが混戦状態でどこが優勝してもおかしくない接戦でした。巨人FANとしては面白かった半面、ドキドキのしどうしでした。最後に苦手だった広島球場と甲子園球場でいい成績が残せたのがポイントだったと思います。

 優勝できた原因の第一は投手力が向上したことだと思います。昨年3.39でリーグ5位だった防御率は2.49になりました。507だった失点は379に減りリーグ最少でした。

 キャッチャー出身の阿部監督の采配が実を結んだのではないでしょうか。打てない試合が多く、完封負けが20試合もある中で、よく優勝できたものです。

 ドジャースは最後に分の悪かったライバルのパドレスに勝ちナ・リーグ西地区での優勝を決めました。巨人とは逆にけが人が多くて弱かった投手力を、大谷をはじめとする打力で優勝を勝ち取りました。

 ドジャースは2013年以後では西地区で10回優勝しています。2021年にジャイアンツに優勝を譲っただけです。ところがワールドシリーズには2020年に1度しか優勝していません。

 大谷はエンゼルスでは一度もポストシーズンに進めませんでした。今年は初めてのポストシーズン、大谷が打線を引っ張って、ぜひワイルドチャンピオンになってもらいたいものです。

 今年の大リーグは大谷の年だったと言っても過言ではないでしょう。日本と違って大リーグは年中、リーグ、地域に関係なく試合が組まれています。大谷のドジャースと対戦すると、ナ・リーグ西地区以外の球場でも観客数が増えたと言われています。全米にわたって大谷効果があったようです。

 その大谷は今年大進化を遂げました。大谷の今年のナ・リーグでの成績をまとめてみましょう。

1位

・本塁打 54

・打点 130

・得点 134

・長打率 .646

・出塁率 .390

・OPS(出塁率+長打率) .932

2位

・打率 .310

・安打 197

・盗塁 59

・四球 81

4位

・三塁打 7

6位

・二塁打 38

 まさに圧巻です。

 誰も成し遂げたことのない、ホームラン50、盗塁50の、50-50の記録を打ち立てました。最終的には54-59となりました。

 8月までは打率よりも、得点圏打率が低く、がっかりさせることもあったのですが、9月に入って打率とともに得点圏打率も急上昇しました。この勢いをポストシーズンにも持ち越してもらいたいものです。

 今年もMVPを獲得するのは間違いないでしょう。

| | | コメント (0)

2024年9月13日 (金)

老人の独り言-12 プロ野球の歴史-2つのリーグの誕生(NO.1851)

 1950年、プロ野球はセントラルリーグとパシフィックリーグに分かれました。

 2つのリーグが誕生したのは、いろいろ複雑な事情がありましたが、要はプロ野球が国民の娯楽として注目されるようになったため、球団を持ちたいという企業が増えたためです。戦後の惨状から、国民も企業も回復しつつありました。

 1950年の両リーグのチーム構成は次の通りです。

セントラルリーグ

・読売ジャイアンツ

・阪神タイガース

・中日ドラゴンス

・松竹ロビンス

・大洋ホエールズ

・国鉄スワローズ

・広島カープ

・西日本パイレーツ

パシフィックリーグ

・南海ホークス

・阪急ブレーブス

・東急フライヤーズ

・大映スターズ

・毎日オリオンズ

・西鉄クリッパーズ

・近鉄パールズ

 新チームが誕生するにあたっては激しい引き抜き合戦が行われました。ショックだったのは阪神の別当薫など有力5選手が毎日に移ったことです。

 毎日オリオンズはこの年、その5選手と都市対抗の名門星野組から獲得した火の玉投手荒巻淳などの活躍で、松竹ロビンスを日本シリーズで破りました。

 その後いろいろな経緯を経て、セ・リーグは読売、阪神、中日、広島、ヤクルト、DeNAの6チームになりました。

 最初の4チームは最初から変わりませんが、ヤクルトは国鉄から、DeNAは大洋と松竹から変ってベイスターズになりました。

 パ・リーグはソフトバンク、オリックス、ロッテ、日本ハム、西武、楽天の6チームになりました。

 ソフトバンクは南海から、オリックス・バッファローズは阪急と近鉄から、ロッテ・マリーンズは毎日と大映から、日本ハム・ファイターズは東急から、西武ライオンズは西鉄と西日本から変わりました。チームの愛称名があるのはチーム名も変わったところです。

 楽天ゴールデンイーグルスは、2005年にパ・リーグでリーグを廃止して1リーグに統一するという騒動が起こったときにそれを阻止するために新しく生まれた球団です。

 2リーグ制になったときは観客動員数は両リーグでそれほど変わらなかったのですが、次第にパ・リーグの観客が減少し経営が成り立たなくなった球団が増えたため、一部の球団で1リーグに戻す動きが出てきました。

 2005年にその動きを止めるため、楽天が生まれて2リーグ制で行くことが再確認されて以後、球団経営のやり方が見直されパリーグの観客が劇的に増えました。

 今はWBCで日本が優勝したり、アメリカでの大谷選手の活躍などもあって、プロ野球の人気が一層高まっています。

 

| | | コメント (0)

2024年9月10日 (火)

パリ・パラリンピックが終了した(NO.1850)

 2024年9月8日、第17回夏季パラリンピック・パリ大会が終了しました。

 閉会式はオリンピックと同じスタッド・ド・フランスで行われ12日間の日程を終了しました。偶然にもオリンピックの開会式と同じように雨の閉会式になりましたが、テレビで見ていて選手と観客が一体となった歓喜に満ちたセレモニーになったと感じました。

 東京大会はコロナに見舞われたせいで、開会式や閉会式や競技はすべて無観客で行われました。パリ大会はどこも満員の観客でした。今回あらためて観客のパワーの大きさを感じさせられました。

 パラリンピックの閉会式もフランスらしく音楽とダンスと光にあふれた祭典になりました。パラリンピック旗は次回会場のロサンゼルスに引き継がれました。聖火はランタンに移した火をフランスのパラアスリートが吹き消して消えました。最後はダンス音楽が会場に響かわたり、選手も観客もパーティを楽しむ雰囲気で終了しました。

 国別のメダル数です。

順位 国  金  銀  銅   合計

1  中国 94 76 50 220

2  英国 49 44 31 124

3  米国 36 42 27 105

10 日本 14 10 17  41

 日本のメダル数合計41個はアテネ大会の52、東京大会の51に次いで3番目に多い数です。金メダルは東京大会の13個を上回っています。

 今回印象に残った金メダルは、団体戦では車いすラグビーとゴールボール男子です。いずれも初めての金メダルでした。激しい戦いの車いすラグビーに女子がメンバーに入っているのは驚きでした。

 個人戦ではテニス男子シングルス小田凱人選手と自転車個人ロードレースの杉浦佳子選手です。18歳の最年少と53歳の最年長です。

 パラリンピックの選手インタビューで感じたのは、メダルを取った選手も逃した選手も、皆さん自分の結果に満足している発言をしていたことです。障害を抱えながら、やるだけやったと前向きでした。その点、結果を出せなかったオリンピックのアスリートが悔しさを出していたとの違いを感じました。

 やっと暑い夏のオリンピック、パラリンピックが終わりました。アスリートの皆さんご苦労様でした。

Conv0001_20240910111501

Conv0003_20240910111501

Conv0004_20240910111501

Conv0005_20240910111501

Conv0008_20240910111501 

Conv0013_20240910111901

Conv0010_20240910111501

Conv0011_20240910111901

Conv0012_20240910111901

 

| | | コメント (0)

2024年9月 7日 (土)

老人の独り言-11 プロ野球の歴史-1リーグ時代(NO.1849)

 太平洋戦争後のプロ野球は1946年(昭和21年)に始まりました。私が小学校4年生の時です。

 はっきりとは覚えていませんが私が巨人ファンになったのは4年生か5年生のころからではないかと思います。情報源はラジオ放送と新聞でした。

 そのころは8チームからなる1リーグでした。1950年に2リーグになりました。1リーグ最後の1949年は次の8チームです。

・読売ジャイアンツ

・阪神タイガース

・中日ドラゴンス

・太陽ロビンス

・南海ホークス

・阪急ブレーブス

・東急フライヤーズ

・大映スターズ

 1950年には最初の4チームがセントラルリーグに、あとの4チームがパシフィックリーグに移りました。

 1リーグ時代に記憶に残っているのは、巨人の川上哲治一塁手、青田昇外野手、千葉茂二塁手、阪神の藤村冨美男三塁手、東急の大下弘外野手、南海の別所毅彦投手などです。

 川上は打撃の神様と言われ、のちの長嶋や王と同じように、打ってほしい時に打ってくれる選手でした。強烈な印象として残っているのは、1949年の南海ホークスとの試合で、9回裏逆転サヨナラ満塁ホームランを打って6-5で勝った試合です。当時史上初でした。

 川上と一緒にホームラン王になった青田、ライト打ちで鳴らした千葉、物干しざおと言われた長いバットでホームラン王の藤村、川上の赤バットに対する青バットの大下、剛速球の別所、は忘れられません。そのほかにも名選手は大勢いますが省略させていただきます。

 シーズンの最後には東西対抗戦がありました。今のオールスターに代わるものです。関東の4チームから選ばれた選手のチームと中日と関西3チームから選ばれた選手のチームで戦いました。これも面白かった思い出です。

 娯楽の少なかった少年時代、私にとって野球は映画とともに最大の楽しみでした。

| | | コメント (0)

2024年8月30日 (金)

パリ・パラリンピックが始まった(NO.1847)

2024年8月28日第17回夏季パリ・パラリンピックが開幕しました。

 開会式はパリの中心部のコンコルド広場で午後8時(日本時間29日午前3時)から開催されました。

 私は録画しましたが、午前5時ごろには目が覚めたので6時半の終了までライブ放送を見ることになりました。

 競技場外で開会式が行われたのは、オリンピック同様史上初めてです。様々なダンスと音楽が彩を添えたのもオリンピックと同じでした。オリンピックが凝った趣向と不可解さで批判を浴びるアトラクションが多かったのに比べると、パラリンピックはわかりやすくすっきりしていたといえます。

 今回のパラリンピックは史上最多の167の国・地域と難民選手団の約4400人が参加、女性は過去最多の約2000人が参加します。ロシアとベラルーシの選手は国を代表しない個人としての参加です。

 日本は海外の大会としては過去最多の175人が参加し、アテネ大会の52個を超える最多のメダル獲得を目指します。

 選手団はセーヌ川の船でなく、凱旋門をくぐりシャンゼリゼ通りを行進してコンコルド広場に入場してきました。旗手は陸上男子走り幅跳びの石山大輝選手と競泳女子の西田杏選手でした。式典が終わると聖火はオリンピックと同じチュイルリー公園のバルーンの聖火台にともされました。コンコルド広場に花火が打ち上げられて開会式は終了しました。

 選手の皆さんの活躍を期待しましょう。

Conv0014_20240830105401

Conv0015_20240830105401

Conv0016_20240830105401

Conv0017_20240830105401

Conv0018_20240830105401

Conv0019_20240830105401

Conv0020_20240830105401

Conv0021_20240830105401

Conv0022_20240830105401

Conv0023_20240830105401

 

 

| | | コメント (0)

2024年8月25日 (日)

今年の高校野球夏の甲子園大会は想定外のことが多かった(NO.1846)

 2024年8月23日高校野球夏の甲子園大会が終わりました。

 決勝戦は京都府の京都国際高校と東東京の関東一高校が対戦し、延長10回タイブレークで京都国際高校が2-1で優勝しました。延長タイブレークの決勝戦は初めてです。どちらが勝っても春夏を通じての初優勝でした。

 京都国際高校は1999年に前身の京都韓国学園が外国人学校として初めて京都大会予選に出場、初戦で京都成章に34-0で負けたことから始まります。2004年に私立校として現校名になりました。全校生徒140名ほどの小さな学校です。その高校が、西日本短大付属、智弁学園、青森山田などの伝統校を破って決勝戦に進出、見事優勝を果たしたのです。勝って歌われる校歌は韓国語でした。

 関東一校も明徳義塾、東海大相模、神村学園などの伝統校を破っています。大阪桐蔭、報徳学園、智弁和歌山、早稲田実業などの強豪も早々姿を消しました。

 今年の大会は低反発バット導入による投手優位が顕著でした。完封は昨年夏の7試合から17試合に増え、1点差の接戦は7試合から19試合に、1-0の試合は0から5試合に増えました。ホームランは1974年の金属バット導入以来最低の7本でした。

 かっての池田高校やPL学園の強打の試合を楽しんだファンとしてはやや寂しい大会でしたが、猛暑の中健闘した球児たちには「ご苦労さん。よく頑張ったね」と言いたいと思います。

| | | コメント (0)

2024年8月21日 (水)

老人の独り言-10 高校野球の思い出-3(NO.1845)

 2024年8月21日、高校野球夏の甲子園大会は準決勝を戦っています。

 以前は開会式が始まると決勝戦まで、雨で中止にならない限り休みなく連日試合が行われましたが、最近は選手の健康、特に投手の疲労を考えて休日を設けるようになりました。

 年によってやり方が変わり、今年は開会式から3日間、午前試合開始と夕方開始に分けたり、準々決勝、準決勝、決勝の前日は休養日をとったりしています。夏の暑さが年々ひどくなっているせいもあるのでしょう。

 高校野球の昔の思い出の3回目です。

 高校野球で怪物と言われたのが作新学院の剛速球投手江川卓です。高校生活は1971年(昭和46年)~1973年(昭和48年)でした。

 チームが江川だけと言っていい弱いチームだったため、甲子園に出たのは3年生の春と夏だけで、春は準決勝で夏は2回戦で敗退していますが、高校3年間の実績は全国に鳴り響きました。

 江川は甲子園を含む公式戦に44試合登板、31試合完投、内ノーヒットノーラン7回、完全試合2回、それ以外の試合でもほとんどが1安打か2安打です。栃木県予選では1年生の準々決勝で完全試合、2年生では完全試合1回、ノーヒットノーラン2回、3年生の時はノーヒットノーラン3回を達成しています。

 高校野球にさわやかさと力強さをもたらしたのは、蔦監督率いる池田高校でした。1974年(昭和49年)春にはわずか11人で甲子園に初出場し、準優勝して「さわやかイレブン旋風」を巻き起こしました。

 そして1982年(昭和57年)~1983年(昭和58年)夏には強力打線で高校野球に革命をもたらしたのです。全員がグリップいっぱいにバットをもってフルスイングしてくる打線は、準々決勝で荒木大輔投手の早稲田実業を14-2で破り、決勝では広島商業を12-2で降ろしました。蔦監督はバントではなく「打って点を取る」ことを重視して打線を徹底的に鍛えたのです。

 そして翌年春には巨人入りした水野投手を擁して優勝したのです。そして夏には、春、夏、春の3連覇を目指して勝ち進みました。

 それを阻んだのが、桑田、清原の1年生コンビのPL学園です。準決勝でPL学園と池田高校が対戦しPLが7-0で勝ちました。

 高校生が高校野球に出られるのは、1年の夏から3年の夏までの5回ですが、桑田と清原はそのすべてに出場しています。そして、優勝、準優勝、準優勝、ベスト4、優勝と抜群の成績を残しました。桑田は1年の時からエースを務め、清原は1年の時から4番打者でした。

 最近の出場校から、池田高校とPL学園の名前が消えたのは寂しい限りです。

| | | コメント (0)

より以前の記事一覧