2025年12月 3日 (水)

老人の独り言―35 プロ野球の歴史 WBCの1回目と2回目(NO.1950)

 WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)での日本選手の活躍を2回に分けて振り返ります。

 WBCはアメリカのMLB機構とMLB選手会が立ち上げたWBCIが主催する世界の国・地域別の野球の対抗戦です。

 今まで5回の大会が3月に行われ、日本の成績は次のようになっています。

  大会  開催年  監督   優勝  2位  3位

・第1回 2006年 王貞治  日本 キューバ 韓国

・第2回 2009年 原辰徳  日本 韓国 ベネズエラ

・第3回 2013年 山本浩二 ドミニカ プエルトリコ 日本

・第4回 2017年 小久保裕紀 アメリカ プエルトリコ 日本

・第5回 2023年 栗山英樹 日本 アメリカ メキシコ

 第5回大会は2017年からは7年ぶりとなっていますが、コロナのため開催が延びたためです。

 第1回大会では世界の各国・地域から選ばれた16チームが4チームずつ4組に分かれ各組の中で総当たり戦の第1ラウンドを戦い、上位2チームが第2ラウンドで他の組の勝者と同じように戦いました。

 そして勝ち残った4チームで準決勝と決勝戦を争ったのです。

 日本は準決勝で韓国を、決勝戦ではキューバを破って優勝しました。韓国とは1勝2敗でした。

 MVPには松坂大輔投手が選ばれました。

 参加メンバーは投手では松坂、上原、大塚など、野手ではイチロー、福留、松中、宮本、里崎、小笠原、川崎などが参加しました。メジャーリーグで活躍していた松井や井口は参加を辞退しました。イチローは特別でした。

 当時はWBCが有名でなかったため、アメリカの各球団の有力選手はレギュラシーズンの開幕に備えて参加を辞退していました。球団が参加を認めていなかったのかもしれません。WBCはアジアと中南米のチームが主力でした。

 2009年に行われた第2回WBCでは戦い方が変わりました。

 第1ラウンド、第2ラウンドとも総当たり戦でなく、ダブルイリミネーションが取り入れられたのです。トーナメントで戦い、敗者復活戦があるのです。2敗するまで戦います。

 勝ち上がった4チームは準々決勝と決勝戦を戦いますが、日本は優勝するまでに韓国と5度戦いました。結果は3勝2敗でした。

 同じ組み合わせが多すぎて新鮮味がないと運営方法に批判が出て、この方式は次の大会の第2ラウンドで使われただけでおしまいになりました。

 第2回大会のMVPも前回と同じく松坂大輔に輝きました。

 WBCは球数制限と登板制限があります。そのため登録される投手の人数が増えます。

 この大会は、投手は松坂、岩隈、ダルビッシュ、涌井、田中、山口、杉内、藤川など、野手はイチロー、城島、青木、阿部、岩村、村田、内川などが参加しました。

 私の記憶に一番残っているのはこの大会の決勝戦で、大会を通じて不振だったイチローが9回表決勝打を放って韓国を下したことです。思わず目頭が熱くなりました。

 イチローさんありがとうございました。

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2025年11月25日 (火)

ウクライナ出身の力士安青錦が初優勝した(NO.1948)

 2025年11月23日、大相撲九州場所で、ウクライナ出身の安青錦が優勝決定戦で豊昇龍を破って初優勝に輝きました。12勝3敗でした。

 前日まで3敗で並んでいた大の里がけがで休場し豊昇龍が不戦勝、大関琴桜を破った安青錦が3敗で並びました。そして決定戦を制したのです。

 安青錦は21歳、初土俵からまだ14場所目です。26日には安青錦の大関昇進を審議する臨時理事会が開かれ昇進が決定するものと思われます。決定すればウクライナ出身で初、年6場所制が定着した1958年以降付け出し力士を除いて最速となります。

 大関昇進には役力士で直近3場所で33勝以上が目安となっていますが、安青錦は前頭、小結、関脇の3場所で34勝です。しかも今場所では大関と横綱に勝っています。横綱豊昇龍には決定戦を含めて4連勝です。大関に推挙されるのは間違いないでしょう。

 このまま努力を積めば将来横綱になる可能性が大です。頑張れ!安青錦

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2025年11月23日 (日)

長嶋さんのお別れ会に思う(NO.1947)

 2025年11月21日、東京ドームで今年6月に89歳で亡くなった長嶋茂雄さんの「お別れの会」が開催されました。

 球界関係者らが出席した式典では、王貞治さん、松井秀喜さん、北大路欣也さんが「お別れの言葉」をのべ、高市首相、イチローさん、大谷翔平選手から寄せられた「ビデオメッセージ」が紹介されました。

 午後2時30分からは一般の部になり、全国から長嶋ファンが訪れました。私も足が丈夫ならぜひ出席したかったのですが、もう遠出ができないので泣く泣く諦めました。

 私は長嶋さんと同じ時代を過ごせたのが素晴らしい思い出になっています。思い出を振り返りましょう。

 長嶋さんは1936年2月生まれ、私は1年下の1937年1月生まれです。長嶋さんが巨人に入ったのが1958年、私が社会人になったのが1960年でした。私は1浪で大学に入ったため2年の差がつきました。

 それから長嶋選手のプロ野球での活躍がはじまりました。デビュー戦はスワローズの金田正一投手から食らった4連続空振りの三振でした。金田が投げた19球のうちバットに当たったのはファウルの1球だけでした。私はラジオで実況中継を聞いていました。

 しかしその思い切りの良さと三振しても悪びれない明るいイメージがファンの心を打ちました。対金田の打率はこの年こそ1割9分7厘でしたが、通算では3割1分3厘、本塁打も18本打っています。

 翌年があの有名な天覧試合でのサヨナラホームランです。下宿でテレビを見ていました。

 巨人のV9が始まったのは1965年からです。長嶋選手のすごさは打って欲しいと思った時打ってくれたことです。大試合に強いという特技もありました。

 レギュラーシーズンのMVPは5回で王の9回には及びませんが、日本シリーズのMVPは4回で歴代1位です。開幕戦の本塁打は10本で5年連続という記録もあります。いずれも日本記録です。サヨナラ安打14本(セ・リーグ右打者記録)、サヨナラホームラン7本(セ・リーグ右打者記録)もあります。

 1974年の引退試合で通算444本目になるホームランを放ちました。そして「巨人軍は永久に不滅です」という言葉を残して引退しました。私はこの試合もテレビで見ていました。

 翌年には川上監督の後を継いで監督に就任しました。長嶋選手の抜けた巨人は弱く球団初の最下位となりました。1976年、1977年は移籍してきた張本などの活躍でリーグ優勝はしましたが日本一にはなれませんでした。

 1979年秋には、江川、西本、中畑、篠塚など若手中心で地獄の伊東キャンプと言われたキャンプを行いました。この選手たちはのちに藤田監督時代を支えました。

 1980年優勝を逃したため事実上の解任で巨人を去りました。

 第2次長嶋監督時代は13年後の1993年に始まりました。2001年までの9年間でリーグ優勝3回、日本一2回の成績を残しました。

 私の印象に一番残っているのは2000年に王監督の率いるダイエー・ホークスと日本一を争ったことです。ON対決ということで世間の注目を浴びました。巨人の4勝2敗で決着がつきました。

 2001年に引退し、原監督に後任を託しました。

 2004年のアテネオリンピックで野球日本代表チーム監督を務めることが決まっていましたが、半年前の2004年3月脳梗塞で倒れました。出場はかなわず、懸命にリハビリに励みました。

 その後は国民栄誉賞受賞、東京オリンピック聖火ランナー、文化勲章受章などでお元気な姿を拝見しました。

 長嶋茂雄さんは素晴らしい人生だったと思います。ミスタープロ野球として、ファンを、国民を、喜ばせ、励ましてくれました。

 ありがとうございました。同じ世代に生きたことを誇りに思っています。

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2025年11月16日 (日)

東京でデフリンピックが始まった(NO.1945)

 2025年11月15日、聴覚障害者による国際スポーツ大会「第25回デフリンピック東京大会」がはじまり、開会式が東京体育館で行われました。

 デフリンピックは1924年にパリで始まり、パラリンピックより古い歴史を持っています。

 今回は81の国・地域と難民チームなどから過去最多の3081人が参加し21競技に挑みます。日本からは約270人が参加し、31個以上のメダルを目指します。

 開会式はNHKの録画放送で見ましたが、言葉や音楽より手話の場面が多く地味な開会式でした。秋篠宮のスピーチは手話でなく日本語であいさつされました。

 日本選手団の旗手は空手女子の小倉涼さんでした。宣誓は陸上男子の山田正樹さんが手話で務めました。

 東京大会は15日から11月26日まで、東京、福島、静岡で行われ、事前申し込みなしで無料で観戦できます。

 私も高齢で耳が遠くなり、補聴器をつけています。聾者ではありませんが難聴者です。多少デフリンピック参加者の気持ちがわかるような気がしています。参加者の皆さん頑張って!

 

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2025年11月15日 (土)

大谷翔平選手がナショナルリーグのMVPを獲得した(NO.1944)

 2025年11月13日、MLB・ドジャースの大谷翔平選手がナショナルリーグのMVPに選ばれました。

 3年連続4度目、前3回と同じく全米記者協会の記者30人全員が1位票を投じる「満票」でした。

 今年の大谷選手は2年ぶりに投打の二刀流に復帰しました。打者としては自己最多のリーグ2位となる55本のホームラン、両リーグ最多の146得点を記録、投手としては14試合に先発、1勝1敗、防御率2.87、奪三振62の活躍でした。ドジャースのリーグ優勝に最も貢献した選手でした。

 MVPはレギュラーシーズンの成績で評価され、ポストシーズンでの活躍は対象外です。

 MLBでMVPを3回以上獲得した選手は7回がバリー・ボンズ、4回が大谷翔平、3回がジャッジやトラウトを含む11人となっています。大谷選手はバリバリの現役、ぜひボンズを超えてほしいと願っています。

 日本のプロ野球も調べてみました。リーグMVPに輝いたのは、王貞治が9回、長嶋茂雄が5回で飛びぬけており、3回が山本由伸やイチローや松井秀喜や菅野智之を含む7人でした。大谷翔平も日本ハム時代に1回パ・リーグのMVPを獲得しています。

 大谷翔平選手おめでとう!

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2025年11月10日 (月)

老人の独り言ー34 プロ野球の歴史 松井秀喜物語(NO.1942)

 松井秀喜選手は高校時代からMLBの時代まで常に脚光を浴び続けた選手でした。

 石川県星稜高校では1年生から4番を務めました。有名なのは3年夏の甲子園大会で2回戦で高知の明徳義塾高校と対戦、明徳の馬淵監督から5打席連続の敬遠の四球を食らったことです。初めてのことで当時のちょっとした社会問題になったくらいでした。

 読売ジャイアンツにドラフト1位で入団、長嶋監督から個人指導を受け続けました。

 2002年に50本のホームランを打ち3度目のホームラン王となったところで、FA権を行使してニューヨーク・ヤンキースに移籍しました。

 ヤンキースは2009年にワールドチャンピオンになり、松井選手が日本人初のワールドシリーズMVPに選ばれました。13打数、8安打、3本塁打、8打点、打率.615の目覚ましい活躍でした。

 2013年には長嶋茂雄氏とともに国民栄誉賞を受賞しました。

 日本での松井選手の記録です。

NPB(10年)

1993年ー2002年(10年)読売ジャイアンツ

 この10年間でジャイアンツはリーグ優勝4回、日本一3回を記録しました。

 ジャイアンツ時代の成績です。

・MVP 3回

・本塁打王3回

・打点王3回

・首位打者1回

 通算成績

・ホームラン 332

・打点 889

・打率 .304

MLB(10年)

2003年ー2009年(7年) ニューヨーク・ヤンキース

2010年(1年) ロサンゼルス・エンジェルス

2011年(1年) オークランド・アスレチックス

2012年(1年) タンパベイ・レイズ

 MLB時代の成績です。

・ワールドシリーズMVP

 通算成績です

・ホームラン175

・打点 760

・打率 .282

 松井選手の愛称は「ゴジラ」でしたが、これは高校3年生の時新聞記者によって付けられMLB時代でも使われました。

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2025年11月 3日 (月)

ドジャースがMLBのワールドチャンピオンになった(NO.1941)

 2025年11月1日アメリカMLBのワールドシリーズ第7戦がカナダ・トロントで行われ、ロサンゼルス・ドジャースがトロント・ブルージェイズを5-4で破り、2年連続9回目のチャンピオンになりました。

 3勝3敗同士で迎えた第7戦は大谷が先発、3回にスリーランホームランを打たれて3失点で降板しました。後がないドジャースはリリーフ投手や先発投手でつなぎ、9回にはソロホームランで4-4の同点としました。

 9回裏からは前日6回まで投げて勝利投手となった山本由伸が登板しました。ドジャースが11回表にスミスのソロホームランが出て5‐4とし、その裏のブルージェイズの攻撃をダブルプレーでしのいで劇的な勝利を手に入れました。

 テレビで見ていた妻と私は、途中何度も負けを覚悟しましたが、勝ったときは思わず万歳を叫びました。

 この試合はスパープレーが続出し、両チームの監督とも見事な試合だったと絶賛しました。

 3回を投げた山本が勝利投手となり、シリーズ4勝のうち山本が3勝、ワールドシリーズMVPに選ばれました。日本人としては2009年のヤンキースの松井秀喜以来で2人目、投手としては初めてです。

 私が特に感動したのはこの7戦目もそうですが、第3戦です。

 試合は6-5でドジャースがフリーマンのサヨナラホームランで勝ちましたが、延長18回6時間39分の熱戦でした。両チームとも選手を使い果たし、最後は第2戦で完投した山本がプルペンで投球練習を始めるほどでした。妻と私はこの試合も最後まで見ました。

 ドジャースが優勝した昨夜の夕食には妻が買ってきたハーフサイズのシャンパンで禁酒中にもかかわらず乾杯しました。我が家のシャンパンファイトでした。

 ドジャース、おめでとう。山本由伸、大谷翔平、佐々木朗希、ありがとう。

 

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2025年10月19日 (日)

ドジャースがナショナルリーグのチャンピオンになった(NO.1938)

 2025年10月17日、ドジャースタジアムで行われたナショナルリーグ優勝決定シリーズで、ロサンジェルス・ドジャースがミルウォーキー・ブリュワーズに5-1で勝利し、4連勝で2年連続のリーグ優勝とワールドシリーズ進出を決めました。

 この試合は大谷翔平が先発投手兼1番指名打者として出場、投げては7回途中まで無失点、10奪三振で勝利投手に、打っては3本のホームランを放ち、このシリーズのMVPに選ばれました。それまでの打撃不振がうそのようでした。

 ドジャースはナ・リーグ東地区の優勝チームでしたが、中地区、東地区の優勝チームより勝率が低かったため、ワイルドカードシリーズから戦いました。そこでシンシナティ・レッズに2連勝して地区シリーズに進み、地区シリーズではフィラデルフィア・フィリーズに3勝1敗で破って優勝決定シリーズに臨んだのです。 

 ここまでのポストシーズンの成績は9勝1敗で圧勝しています。

 あとはワールドシリーズでの戦いが待っています。相手はアメリカンリーグのシアトル・マリナーズかトロント・ブルージェイズのどちらかです。

 2連覇すれば、1998年~2000年までのニューヨークヤンキース以来となります。

 大谷翔平、山本由伸、佐々木朗希の活躍が楽しみですね。

 

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2025年10月 4日 (土)

老人の独り言-33 プロ野球の歴史 イチロー物語(NO.1934)

 2025年、MLBのシアトル・マリナーズで会長付特別補佐兼インストラクターのイチロー(本名:鈴木一朗)が日本人で初めてMLBの野球殿堂に登録され、背番号「51」がマリナーズの永久欠番に指定されました。永久欠番も日本人初です。

 イチローは日米通算28年の選手としての現役を続け、日米通算3604試合出場、通算4367安打の世界記録を持っています。

 イチローは愛知工大明電高校出身で、1991年秋のドラフト会議で4位指名でオリックス・ブルーウェーブに入団しました。当時オリックスはブルーウェーブの名称で神戸に本拠地を置いていました。1995年の阪神・淡路大震災の年は「がんばろう神戸」のマークを付けて活躍したのを覚えています。

 イチローの記録です。

NPB(9年)

1992年-2000年(9年) オリックス・ブルーウェーブ

 振り子打法を身に着けた入団3年目から目覚ましい活躍がはじまりました。登録名を「イチロー」に変えたのも3年目からです。

 オリックス時代の成績です。

・MVP 3回

・首位打者 7回

・打点王 1回

・盗塁王 1回

・最多安打 5回

 首位打者7回は張本と並ぶ最多タイ記録、7年連続は最長記録でした。

MLB(19年)

 2000年秋に日本人初のポスティングシステムによりシアトル・マリナーズに移籍しました。日本人初の野手でのメジャーリーガーが誕生しました。

2001年―2012年(11年半) シアトル・マリナーズ

2012年―2014年(2年半) ニューヨーク・ヤンキーズ

2015年―2017年(3年) フロリダ・マーリーンズ

2018年―2019年(2年) シアトル・マリナーズ

 MLBでの成績です。

・MVP1回 

・新人王

・首位打者 2回

・盗塁王 1回

・最多安打 7回

 2004年には84年間破られることのなかったジョージ・シスラーの安打記録を超える262本の安打を放ちました。10年連続200安打以上という記録も持っています。

 守備ではライトから3塁まで矢のような送球をして「レーザービーム」と呼ばれました。

 私が一番記憶しているのは、2007年のオールスターゲームでランニングホームランを打ってMVPを獲得したことです。たしかサンフランシスコ・ジャイアンツの球場でした。

 イチローは記録にも記憶にも残る唯一無二の大選手だと思います。

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2025年9月28日 (日)

老人の独り言-32 プロ野球の歴史 西武の黄金時代(NO.1933)

 2025年のプロ野球パ・リーグはソフトバンク・ホークスが序盤の最下位から挽回して見事優勝を成し遂げました。2連覇で、南海、ダイエーの時代を含めると21回目の優勝となりました。

 パ・リーグでもっと優勝回数が多いのは西武ライオンズです。西鉄時代を含めると22回の優勝です。

 西武は過去2回黄金期を迎えています。

 最初は西鉄時代の1954年から1958年の5年間で4回の優勝、3回の日本一になっています。三原脩監督のもとでその栄冠に輝きました。「神さま、仏さま、稲尾さま」の稲尾投手や中西、豊田などの強打者がいました。

 2度目の黄金期は1982年から1998年の17年間にわたる期間です。13回のリーグ優勝、8回の日本一でした。

 広岡達郎、森祇晶、東尾修の3監督が務めました。特に森監督は在任9年間で8度のリーグ優勝、6度の日本一を勝ち取り、最高の黄金時代でした。

 17年間には、多くの名選手が活躍しましたが、投手では工藤公康、東尾修などや、打者では田淵幸一、秋山幸二、清原和博、石毛宏典などの選手が記憶に残っています。

 日本シリーズは1983年の巨人との対戦が有名です。西武は広岡監督、巨人は藤田監督でした。3度のサヨナラ試合、第3戦以降は先取点を取ったほうが負けるという逆転に次ぐ逆転ゲームで、日本シリーズ最高の勝負とたたえられました。選手や監督も、「もうここまでやったら、どちらが勝ってもいい」と言っていました。結果は4勝3敗で西武の勝ちとなりました。

 私は巨人が西鉄に日本シリーズで3連敗した記憶が強烈で、どちらかというと西武は好きでなかったのですが、巨人9連覇の時活躍した森捕手が監督になってからは少しですが応援しています。

 

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