2022年5月11日 (水)

民謡の思い出-その1 愛友会(NO.1598)

 平成元年(昭和64年、1989年)3月12日、民謡の愛友会に入会しました。そして平成31年(令和元年、2019年)12月8日、愛友会を退会しました。

 52歳から82歳まで30年9か月間、平成の時代を通して愛友会で民謡を楽しみました。

 以前から民謡が好きで一度民謡の個人教授を受けていたのですが、いい加減な先生だったのでやめました。市役所相談したところ我孫子市民謡連盟の会長が会長を務める愛友会を紹介してくれました。

 愛友会には師匠や先生はいませんでした。自分で唄いたい民謡をラジオやテープやCDで覚え、月2回の愛友会の稽古日に勝手に唄うという練習でした。自分で好きな唄を勝手に唄えるという自由な雰囲気が好みに合っていました。

 愛友会には名取の唄の名手がいました。唄い方がおかしかったり、外れたりしてたときはその名手や伴奏の方々が注意やアドバイスをしてくれました。民謡は三味線、尺八、太鼓の伴奏が付きます。愛友会の伴奏者も名取級の人たちで、どんな唄でも伴奏してくれました。

 師匠がいないため月謝もなく、会費は運営費だけで最初は月1500円で途中からは1000円になりました。

 82歳で愛友会をやめたのは足が痛くなって長く歩けなくなったのと、車の運転をやめることにしたためです。月2回の稽古は車で通っていました。

 民謡は自分の出せる声のいちばん高いキーで唄います。音の高さは尺八の音の高さに合わせます。民謡の尺八は1尺3寸から2尺3寸まで1寸刻みで11本あります。短いものは高い音が、長いものは低い音が出ます。曲によって何寸で唄うか自分で覚えておき唄うときに申し出ます。

 伴奏は通常、尺八、三味線、太鼓で行いますが、「小諸馬子唄」など曲によっては尺八だけの時があります。民謡は一部の曲を除いて通常「おはやし」がつきます。おはやしはできる人が勝手にやることになっていました。

 月2回の稽古は日曜日の午後3時間くらい行いました。1人ずつ順番に唄い、2回くらいで終わりました。伴奏者は全員の唄の伴奏をするので大変でした。私も学生時代尺八をやったことがあったので、途中から尺八の伴奏をやってみようと頑張ったのですがうまくいかず諦めて、唄に専念することになりました。

 楽しい思い出の詰まった愛友会の30年間でした。

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2022年5月 9日 (月)

読書の思い出-その4 三省堂書店と八重洲ブックセンター(NO.1597)

 令和4年5月8日、神田神保町の三省堂書店の本店が建物の老朽化のため店を閉めるというニュースを見ました。

 三省堂書店は141年の歴史があり、今の本店は1981年に建てられ、1000坪の店内に140万冊の本を抱える「本の町のランドマーク」とのことでした。2025年に新しく建て替えられたビルで営業を再開するそうです。

 三省堂にはよく立ち寄りました。時々千代田区一ツ橋の如水会館に行くことがありましたが、その際は必ずと言っていいほど千代田線の新御茶ノ水駅で降りて神保町の三省堂書店に行きました。特に退職してからはせっかく神保町に行くのだからと、1時間くらいの余裕をもって三省堂書店内を歩き回りました。

 ほしい本はすべてそろっており、珍しい本を見つけることもありました。楽しい思い出のいっぱい詰まった書店でした。

 もう一つひんぱんに通った書店があります。東京駅に近い八重洲ブックセンターです。

 1978年開業ですから、仙台の赴任を終えて東京に戻った年にできたことになります。東京駅近くに行くときや仕事帰りによく立ち寄りました。通った回数は三省堂書店より多かったと思います。

 大きな書店は本が整理されて並んでおり、それを順番に見ていくのは時間を忘れさせてくれます。本のにおいはワクワク感を持たせてくれました。

 コロナになってからはどちらの書店にも行っていませんが、コロナがなくなってももう都心に出かける体力がないので思い出としてしまっておくしかありません。本は近くの図書館で借りて読んでいます。

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2022年5月 6日 (金)

コロナの日本国内の感染者が800万人を超えた(NO.1596)

 2022年5月5日、コロナの日本国内の感染者が約800万7千人となり、800万人の大台を超えました。

 500万人から800万人までの道のりを調べました。

 累計感染者数 日にち 前回からの日数

・501万人 2月28日

・602万人 3月18日  18日

・700万人 4月9日   22日

・800万人 5月5日   26日

 これでみると500万人から800万人までに100万人ごとの増加する日数は増加しており、感染のスピードは少しずつ減っていることがわかります。このまま減っていくことを期待しましょう。

 ちなみに韓国は感染者の累計が長い間日本を下回っていましたが、3月11日に日本が567万人の時逆転して、現在の累計感染者数は1744万人に達しています。日本の2倍以上になりました。感染増加の理由はわかりませんが恐ろしいです。

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2022年5月 5日 (木)

ゴールデンウィークに人出が戻ってきた(NO.1595)

 今年のゴールデンウィークは4月29日から5月8日までの10日間です。昨日5月4日で6日間が終わりました。テレビのニュースでは昨年、一昨年の人出を大きく上回り混雑が戻ってきたようです。

 観光地は賑わいを取り戻しました。旅行に出かける人が増え、新幹線や航空機は予約でいっぱいの日が出てきました。コロナ以前の高速道路の渋滞もみられたようです。プロ野球や遊園地などの観客数も制限がなくなり、各地でのいろいろなイベントが復活していました。

 コロナの感染者数は高止まりを示していますが、減少傾向にあります。東京都は23日連続で前週の同じ曜日を下回りました。日本国内も1日を除けば19日間前週の数字を下回っています。

 アメリカやヨーロッパの各国も一時の爆発的な感染拡大が収まりマスク不要など規制を撤廃するところが増えています。韓国や台湾も感染拡大が続いているにもかかわらず、ウイズコロナの政策を取っています。例外は中国で、上海や北京などではゼロコロナに徹してロックダウンなどを続けています。

 日本ではまだマスクはつけるよう勧めていますが、これから暑くなると感染者数の推移を見てマスクについても論議が活発になると思われます。

 さてゴールデンウィークの人出の増大がどういう結果になるでしょうか。

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2022年5月 3日 (火)

読書の思い出-その3 外国人作家(NO.1594)

 外国文学は高校時代から20歳代までに全集物などをざっと読んだ記憶があります。

 40歳代になって熱を上げた作家が出てきました。5人の米英の作家です。きっかけはいずれも映画から始まっています。

 一番熱中したのはアメリカ人のシドニイ・シェルダンです。「真夜中の向こう側」(The Other side of Midnight)という映画を見たのがきっかけとなり、その翻訳本を読みました。

 この小説はその後「真夜中は別の顔」という題名で別の出版社から出されて日本でも大ヒットとなりました。この作家の本はその後英語のペーパーブックですべて読んでいます。自伝(The Other Side of Me)も読みました。映画の脚本から小説家に転身しただけに、ストーリーの面白さは抜群です。

 私が手賀沼通信にお粗末なおとぎ話を書いたとき、シドニイ・シェルダンをもじって、四谷知男(しだに しるだん)というペンネームを使ったくらい好きでした。

 2番目はイギリスの作家ケン・フォレットです。スパイ小説の「針の眼」の映画でとりこになりました。

 この作家の本もほとんど読んでいますが、歴史小説「大聖堂」(The Pillars of the Earth) と「大聖堂-果てしなき世界へ」(World without End)が圧倒的に面白い作品でした。

 3番目はイギリスのスパイや軍隊を描いた小説のフレデリック・フォーサイスです。フランスのド・ゴール大統領暗殺失敗を描いた「ジャッカルの日」の映画が最初でした。我孫子の図書館にあるこの作家の本をすべて読みました。図書館は作家ごとに本を並べているので簡単に探せます。この作家の作品は映画化されているものがかなりあります。

 4番目は法廷物のアメリカの作家ジョン・グリシャムです。映画「評決のとき」で引き込まれました。弁護士の経験を生かした作品を多く書いています。アメリカの裁判制度は日本と大きく異なっていて検事や弁護士の活躍の場が多く、小説や映画の名作を生んでいます。

 5番目はイギリスの作家アーサー・ヘイリーです。映画「大空港」で知りました。緻密な取材で様々な業界の内幕を描く作品を出しています。

 後の3人の作品はほとんど原書でなく翻訳本を図書館で借りて読みました。歳を取ると根気がなくなって英語で読むのはきつくなったからです。

 2003年から読書の記録をパソコンのエクセルの表にインプットしています。今年で20年目ですが、2010年にフォーサイスとグリシャムの小説を読んで以後、ノーベル賞作家のカズオ・イシグロの2作品を読んだ以外は外国人作家の小説は読んでいません。日本人作家のものばかりになってしまいました。

 ちなみにこの20年間では2018年の92冊が最多です。その後は極端に読書量が落ちています。

 現在、司馬遼太郎の作品の「読書の終活」中ですが、小説はあと3作品、そのあと街道をゆく43冊が控えています。無事終わることができるかわかりません。

 

 

 

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2022年4月29日 (金)

読書の思い出-その2 日本人作家(NO.1593)

 1960年(昭和35年)大学を卒業し三井生命保険会社に就職しました。途中2度転職しましたが、社会人になると小説を読む時間は学生時代に比べてかなり少なくなりました。読む本も海外ミステリーオタクからいろいろな作家の本を読むようになりました。

 そして生涯を通じての読書スタイルを身に着けることになりました。

 そのスタイルとは好きな作家に出会うとその作家の本を集中して読むということです。それも長編小説が中心です。最近は短編物も読むようになりましたが、以前は長編小説だけを選んでいました。

 最初に好きになったのは松本清張です。確か最初に読んだのは「点と線」だったと思います。時刻表を使った本格的ミステリーです。調べてみたら清張がこの小説を書いたのは1958年となっていました。私が社会人になる2年前です。それから清張の小説を追っかけるようになりました。

 その次に夢中になったのは司馬遼太郎でした。やはり1960年代からです。「竜馬が行く」が最初でした。司馬遼太郎の作品はすべて読みました。本は処分せずに何度も読み返し書棚に残っていました。現在「読書の終活」として最後にもう一度読んでは捨てる「行事」をやっているところです。

 20歳代から80歳代まで、読んだ作家はすべては覚えきれていませんが、主な作家としては大体次の方々です。順不同で思い出すままに書いてみます。

 吉川英治、舟橋聖一、大佛次郎、丹羽文雄、池波正太郎、藤沢周平、山崎豊子、五木寛之、山本周五郎、海音寺潮五郎、津本陽、柴田錬三郎、山岡荘八、村上元三、横溝正史、宮尾登美子、城山三郎、新田次郎、浅田次郎、宮城野昌光、童門冬二、平岩弓枝、佐伯泰英、吉村昭、山本一力、高杉良、早坂暁、宮部みゆき、東野圭吾、池井戸潤、百田尚樹、今井恵美子、高田郁、畠山健二などです。

 一番多く読んだのは佐伯泰英の作品です。合計279冊読んでいます。ところが最近出たものは読んでいません。おそらく10冊近くあると思いますが、最近のは面白くなくなったためです。

 好きな作家はどちらかというとエンターテインメント系というか直木賞作家系で、私小説系とか芥川賞作家系は好みではありません。自分でも偏っていると感じています。

 残念なのはここ1~2年、読むスピードが遅くなり読む時間が少なくなりました。根気がなくなったのでしょう。とりあえず司馬遼太郎の「読書の終活」に専念するつもりです。

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2022年4月13日 (水)

読書の思い出-その1 中学時代から大学時代まで(NO.1588)

 読書は生涯にわたっての趣味です。一番長く続いている趣味といってもいいでしょう。

 勉学や仕事で読んだ本を除いて、趣味として読んだ本、主に小説を中心に書いてみたいと思います。

 私は読書については早熟でした。スポーツはあまり得意でなかったため、子供のころから本の虫になっていました。太平洋戦争が終わったのが小学3年でしたので、小学生時代は紙が不足していて、満足な本といえるようなものはなかったと思います。

 中学生になってから中学校の図書館で読みたい本を探して読むようになりました。どんな本を読んだかあまり思い出せませんが、パールバックの「大地」を読んだのだけは覚えています。

 高校3年は受験準備のため小説は読むのをやめましたが、高校1,2年の時は世界の文学全集などを読み漁っていました。印象に残っているのはマーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」、トルストイの「戦争と平和」です。ドストエフスキーはあまり理解できませんでした。日本の小説では、芥川龍之介、夏目漱石、川端康成などの作品を読んだのを覚えています。松山南高校でしたので、漱石の「坊っちゃん」は人気がありました。

 大学生になっても世界と日本の文学作品は読んでいましたが、一番熱中したのが推理小説、ミステリーです。偶然アガサ・クリスティの「アクロイド殺し」を読んでから、ミステリーの面白さに取りつかれたのです。アガサ・クリスティの本を読みまくりました。

 同時に、ウィリアム・アイリッシュ、ディクソン・カー、エラリー・クイーン、E・S・ガードナー、エド・マクベーンなど有名なミステリー作家の作品に手を伸ばしました。大学の同じクラスに1人ミステリーファンがいたので情報交換しながら小説を探しました。本の貸し借りもしました。

 ポケットブック版のハヤカワ・ミステリのシリーズが推理小説の宝庫でした。大学の図書館にはこんな小説はほとんどおいていません。学生でお金がなかったので、もっぱら古本屋、貸本屋を利用しました。今はなくなりましたが、当時は有料で本を貸してくれる貸本屋というのがあったのです。古本屋で買って読み終わったらまたその古本屋に売ることもしました。

 楽しかった学生時代の読書経験です。ミステリー熱はサラリーマンになると少しずつ冷めていきました。

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2022年4月 6日 (水)

国内旅行の思い出-その10 万国博覧会(NO.1585)

 万国博覧会の思い出はまず1970年(昭和45年)に初めて日本で開催された大阪万博です。

 77か国が参加し、6400万人を超える入場者がありました。私が33歳の時です。妻と2歳の長女とともに見に行きました。妹一家が京都の山科に住んでいたので、そこに泊まって大阪の千里丘陵の会場に通いました。

 大阪万博は1964年の東京オリンピックに次ぐ国民的行事として日本国中が沸き返りました。三波春夫が歌った万博音頭は今でも忘れられません。万博会場には岡本太郎がデザインした太陽の塔が聳え、中央のお祭り広場では連日多彩なイベントが開催されました。

 各国や有名企業のパビリオンが立ち並び、入場するのに何時間も待たされることがありました。私たちは2歳の子供連れだったため、待ち時間の長いパビリオンは避けて見て回ったのを覚えています。

 次に開催された万国博は1975年の沖縄海洋博です。そのころは仙台に赴任していました。遠くて行けませんでしたが、1981年に沖縄旅行をしたとき、海洋博公園を訪ねています。

 1985年(昭和60年)には茨城県の筑波でつくば科学万博が行われました。そのころは千葉県我孫子市に戻っていたので、同じ常磐線のつくば万博は気軽に行くことができました。

 余談ですが、つくば万博のおかげで常磐自動車道の未開通区間だった三郷ICー柏ICが開通し、東京方面まで常磐自動車道で行けることになりました。

 つくば科学万博は家族や一人などで6か月の間に合計6回通いました。車で行ったり常磐線で行ったりしています。万博期間中は牛久駅と荒川沖駅(いまはひたち野うしく駅)間に万博中央駅が開設され、スーパーシャトルが走りました。

 大阪万博と違ったハイテクを使ったショーや展示があったのを覚えています。

 1990年(平成2年)5月には大阪花博(国際花と緑の博覧会)に妻と行きました。花博だけに、きれいな花、珍しい花や植物を見ることができました。

 なお大阪花博はつくば科学博とともに特別博で大阪万博の一般博とは区別されています。

 2005年(平成17年)8月には愛知万博(愛・地球博)に妻と行きました。万博では初めてクラブツーリズムのパッケージツアーを利用しました。

 会場は愛知県の長久手市と瀬戸市にありました。1泊2日のツアーだったので長久手会場だけ回ったように思います。愛知万博は大阪万博と同じ一般博でしたが、大阪万博に比べると規模も国やマスコミの取り上げ方も控えめで入場者は2200万人くらいでした。時間が限られていたため、待ち時間の長いパビリオンは避けてできるだけ数多く回るようにしました。

 3年後の2025年には2回目の大阪万博がありますが、その時は88歳、もう自分の足で回るのは無理なようです。もし運よく見られればテレビで楽しみたいと思っています。

 国内旅行の思い出はこれで終わりです。海外旅行を含め、旅行は存分に楽しめたと思っています。ほとんどが妻の企画で一緒に楽しみました。妻には感謝感謝です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2022年3月13日 (日)

国内旅行の思い出-その9 沖縄(NO.1576)

 沖縄には妻と観光旅行で3回行きました。

 1回目は1981年(昭和56年)4月、日本旅行の赤い風船の3泊4日のツアーに参加しました。44歳の時です。

 沖縄は1972年5月、アメリカの統治から日本に返還されました。戦後27年たっていました。1975年7月から1976年1月にかけては沖縄海洋博覧会が行われ、沖縄旅行が静かなブームとなっていました。この旅行は旅行会社のパッケージツアーを利用する私たちの初めての旅行でした。

 那覇の西武オリオンホテルに2泊、ムーンビーチのホテルに1泊しました。ひめゆりの塔、守礼の門(2019年火事で焼けた首里城はこの時はまだ建築されていない)、玉泉洞、植物園、ムーンビーチ、万座毛、海洋博記念公園(2002年ここに美ら海水族館ができる)などで撮った写真が残っています。

 ハブとマングースの戦いのショーを見た記憶もあります。米軍基地が街の中心部にありました。日本に返還後9年たっていましたが、まだ外国の町という雰囲気が残っていたように思います。空港では洋酒が安く買えたので、外国旅行に行った時の定番のお酒3本と外国たばこ10箱を買ってきたのを覚えています。

 2回目の沖縄は2005年(平成17年)10月、阪急交通社の「美しき八重山・宮古諸島9島めぐり4日間」でした。石垣島に1泊、宮古島に2泊しました。石垣島、西表島、由布島、竹富島、宮古島、池間島、来間島、伊良部島、下地島の9島を回りました。沖縄の海と砂浜の美しさ、緑の濃さ、花の鮮やかさなどに驚きを隠せませんでした。また夫婦で泡盛のおいしさにはまってしまい、帰宅してから宮古島の泡盛「菊之露」を1箱取り寄せました。

 3回目は2年後の2007年(平成19年)3月阪急交通社の「沖縄をゆっくりじっくり 沖縄で過ごす1週間」6泊7日のパックツアーでした。沖縄本島だけを7日をかけて回りました。

 沖縄本島は26年ぶりです。1回目に行った場所はすべて再訪しました。前回なかった美ら海水族館も首里城もゆっくり見物できました。前回ごみごみしていた国際通りは見違えるほどきれいになり、市内にはモノレールが開通していました。自由時間にはモノレールを端から端まで乗りつくしました。沖縄の城跡が世界遺産に登録されており、その城跡を7カ所回りました。高速道路が整備され本島南部から中部を結んでいました。

 沖縄はすっかり変わっていましたが、26年たっても変わらないものが1つだけありました。本島の中央部を占めている米軍基地です。普天間基地と嘉手納基地は沖縄の心臓部のようなところにあります。観光バスの通る道は鉄条網で囲まれた基地をぐるりと迂回するように作られていました。

 北海道から沖縄まで、9回に分けて急ぎ足で見てきましたが、書ききれなかったところや省略したところがいっぱいあります。

 日本国内、どこも楽しく、おいしいものの思い出がいっぱい残っています。

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2022年3月 8日 (火)

国内旅行の思い出-その8 九州(NO.1574)

 九州旅行の思い出はあやふやなところから始まります。4歳か5歳のころ祖母に連れられて別府温泉の地獄めぐりをした記憶がかすかに残っています。血の池地獄、坊主地獄、海地獄などです。国民学校に上がる前で交通費がかからなかったため、祖母が何ヵ所か旅行に連れて行ってくれたようなのですが、なぜか山口県の秋芳洞で小舟に乗ったことと別府温泉の地獄めぐりだけが頭の片隅に残っています。子供心に強い印象を受けたためでしょうか。

 1960年(昭和35年)3月、大学を卒業して帰省するとき、一緒に下宿して同じ大学に通っていた同郷のS君と東京から九州経由で遠回りして愛媛県に帰りました。卒業旅行などどいう言葉はその当時はありませんでしたが、どうせ帰るなら最後の思い出にと寄り道をしたのです。九州までの車中1泊、旅館2泊、九州内での車中1泊の旅でした。長崎、熊本、鹿児島、桜島、阿蘇山を回って別府航路で松山に戻りました。4月からはまた東京で新しいサラリーマン生活が待っていました。

 ツアーで九州を回ったのは5度です。すべて妻が企画し二人で参加しました。

 最初は1991年(平成3年)5月、54歳の時でした。3泊4日で、平戸、九十九島、長崎、雲仙、島原、熊本、阿蘇、山並みハイウェイ、別府、国東半島など、宮崎県と鹿児島県を除く5県を旅しました。

 ショックを受けたのは1991年6月3日、私たちが宿泊した島原の近くの普賢岳が噴火し大火砕流が発生しました。島原の小涌園に泊まったのは5月15日でしたから、わずか19日後のことです。そのホテルは直接に被害はなかったようですが、もし同じ日だったらどうなっていたか、その後の旅は続けられなかったかもしれません。

 2年後の1993年には同じ近畿ツーリストのツアーで、宮崎県と鹿児島県の南九州を回りました。2泊3日の日程でした。

 一番印象に残ったのは指宿温泉の砂蒸し風呂と知覧の特攻平和会館でした。特攻平和会館で海に散った若い兵士たちが残して手紙を読んだとき、涙が出てきて仕方がありませんでした。

 3回目は2014年(平成26年)喜寿の歳に妻からプレゼントされた「九州6県をめぐるご夫婦旅4日間」のツアー旅行です。ツアー名に「往復のぞみ号グリーン車 別府温泉・湯布院温泉・雲仙温泉の5つ星の宿に宿泊」というサブタイトルがついていました。

 参加者は夫婦16組の32名、鹿児島県を除く観光名所を巡りました。熊本と長崎以外はそれまで行ったことのないところばかりで楽しい旅となりました。

 4回目は2016年(平成28年)4月、阪急交通社の「阪九フェリー新造船利用 煌めくハウステンボスと軍艦島・姫路城4日間」というツアーでした。久しぶりに航空機を利用しましたが、九州地方は低気圧で大荒れ、午前中の2便は欠航でした。私たちの便は幸い予定通り出発できました。

 翌日世界遺産の軍艦島を見物しました。軍艦島は港がないので波が高いと上陸できません。幸い波が収まり上陸できましたが、昔大勢の人出にぎわっていたところが見事に廃墟となっている光景は言葉になりませんでした。その後ハウステンボスに行き、昼間と夜のハウステンボスを楽しみました。イルミネーションが見事でした。

 3日目は古い門司港を見物し新門司港から大阪の泉大津まで夜行のフェリー旅でした。戦前から1960年代までは、九州の別府から大阪までは関西汽船の豪華客船の別府航路が全盛でした。私も何度か利用しました。ところがその後航空機や高速道路が交通の主流になり、別府航路は廃止となりました。今はフェリーがそれに代わっています。このツアーの目玉の1つはそのフェリーに乗ることだったようです。ただ夜17時30分新門司港発、朝6時泉大津着のため瀬戸内海の景観を楽しむことはできません。朝6時についても観光地はまだ見物できません。そのためわざわざ兵庫県の姫路城までバスで引返すことになっていたようです。姫路城は3度目でしたが、新装なった白鷺城と見事な桜を楽しむことができました。

 5度目は2017年4月、2泊3日の屋久島ツアーでした。この時も空の便でやきもきさせられました。羽田から鹿児島空港までは無事につきましたが、鹿児島地方は雨、屋久島行きの便は前の2便が欠航、私たちの便も飛ぶかどうか不明でした。このツアーも阪急交通社でしたが、添乗員はついていません。空港にも阪急交通社の人は誰もいませんでした。不安の中で待っているうち、やっと家内の携帯に阪急交通社から連絡が入り、飛ばなかったら鹿児島で宿泊ということがわかりました。時間になって飛ぶことがわかり、風雨の中屋久島空港に向かいました。

 屋久島は1993年、白神山地とともに日本で初めて世界自然遺産に登録されました。屋久杉を始め貴重な自然が残されています。雨が多いことでも有名です。縄文杉を見に行く時間はありませんでしたが、屋久島の自然の美しさをたっぷり楽しめた旅となりました。

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