2021年12月 4日 (土)

海外旅行の思い出-その2 カナダとアラスカ(NO.1541)

 初めての海外旅行でヨーロッパに行った翌年、1997年(平成8年)6月から7月にかけて夫婦2回目の海外旅行でカナダに行きました。妻が両親の介護と看護に入る前の最後の旅でした。

 カナダを選んだのは、妻が習っていた英会話の先生がカナダトロント出身であったこととナイアガラの滝を見たいという理由からでした。

 近畿ツーリスト「熟年の旅カナダハイライト周遊10日間」という8泊10日のパック旅行でした。私たちの海外旅行は次に出てくるアラスカ旅行以外はすべて4月後半から7月にかけてとなっています。理由は暖かいため軽装で行けるのと、現地の日が長く遅くまで明るくて1日を長く楽しめるためです。料金は冬のほうが安いのですが、ベストシーズンは快適な旅行が楽しめます。

 カナダでのルートはトロント、ナイアガラ、ケベック、モントリオール、バンフ、カナディアンロッキー、ビクトリア、バンクーバーと東から西に移動しました。旅の仲間は11組22人の夫婦で59歳と53歳の私たちが一番の若手でした。

 カナダは英語の通用する国と理解していましたが、ケベックとモントリオールはフランス語圏でした。

 ナイアガラとカナディアンロッキーの素晴らしい景観に圧倒されました。日本ではお目にかかれない雄大さでした。ナイアガラはアメリカという理解が現地に行ってみて間違っていたと分かりました。ナイアガラのカナダ滝がアメリカ滝の10倍のスケールでした。

 アラスカに行ったのは2008年9月です。妻の両親は亡くなっていました。妻が以前からぜひオーロラを見たいというのでアラスカを選びました。

 アラスカのフェアバンクスは年間240日くらいオーロラが見られると言われています。オーロラの観光シーズンは9月から3月までです。9月は寒さがそれほど厳しくなく紅葉も楽しめるとのことだったので、クラブツーリズムの「JALチャーター直行便利用!秋のアラスカ大満喫7日間」というパックツアーを利用しました。

 フェアバンクスから100キロほど離れたチェナ温泉に3連泊し3夜続けてオーロラを見ることができました。妻はこの旅行直前に足をねんざし、痛い足を引きずりながらのオーロラ見物でした。

 北極圏までのバス旅行で、黄色一色の秋を楽しむことができました。カナダでは赤い紅葉は見られませんでした。アリエスカでは氷河クルーズで地球温暖化でおなじみの氷河が海に崩れ落ちるシーンも見ることができました。

 実は私たちは海外旅行では定番のハワイやアメリカ本土に行くことはありませんでした。私は会社のイベントでハワイに行っていますが、簡単に行けるので最後はハワイにしようと言っているうちに、二人とも足の痛みを抱えることになり、海外旅行も国内旅行もできなくなってしまいました。

 カナダとアラスカで目的は果たしたのでアメリカには思い残すことはありません。

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2021年11月27日 (土)

海外旅行の思い出-その1 夫婦での初めての海外旅行-ヨーロッパ(NO.1538)

 海外旅行の思い出を7回にわたってまとめてみたいと思います。仕事や会社のイベントで行った海外出張は省略します。

 最初は夫婦での初めての海外旅行、ヨーロッパの旅です。

 私たちの世代は新婚旅行で海外に行く人はほとんどいませんでした。定年間際のリストラで移った新しい職場での仕事がやっと落ち着いてきたので、それまで果たせなかった夫婦での海外旅行を実現したい気になったのです。

 1995年5月クラブ・ツーリズムの旅で9泊10日間、イギリス、ドイツ、オーストリア、イタリア、スイス、フランスの6か国を訪ねました。今から26年前、58歳の時です。

 今は海外旅行では1つの国を回るケースが多いのですが、当時は限られた時間で多くの国の有名な都市をつまみ食いする旅行が流行っていました。

 当時のヨーロッパはEUになっていたので、入出国は楽でしたが、まだユーロは採用されてなく、国が変わるごとにその国の通貨に両替する必要がありました。1台のバスでドイツからスイスまで走ったときは、国境を超えるたびに両替所に走って行って両替しました。デジタルカメラはまだ普及していなくてフィルムをたくさん用意しなくてはなりませんでした。携帯やスマホもなかったため、家に電話するときはホテルから電話するか、公衆電話を使いました。公衆電話はコインでは足りないため、クレジットカードが利用できました。

 初めてのヨーロッパは驚きの連続でした。5月下旬だったため、10時ころまで明るかったのが最初の驚きでした。ロンドンでルームサービスを頼んだら、1皿が3人前くらいあったのが2つ目の驚きでした。水がビールより高いのも知りました。ルーブル美術館では名画の写真が撮り放題でした。

 見るもの聞くものが楽しく二人で旅を満喫しました。昼食と夕食時にはワインかビールか時には両方をいただきました。

 妻が行く前から楽しみにしていたドイツのノイシュバイシュタイン城は期待以上でした。ベネティアの素晴らしさと人の多さも驚きでした。パリのタクシーで英語が通用しないのも経験しました。各国の食事のおいしさも堪能しました。

 妻は帰国してから焼き付けた写真や頂いた資料をまとめ、訪問先の情報を調べて8冊のアルバムを作りました。今でもそれを眺めては楽しかった旅行を思い出しています。

 その後何度か行ったヨーロッパの写真はデジカメで撮ったためアルバムにはなっていません。フィルム写真もまた良きかなです。

 その後妻が両親の介護と看護の期間の中断はありましたが、この旅行を契機に私が75歳で体調を崩すまで二人での海外旅行が続きました。

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2021年11月25日 (木)

ウォーキングの思い出-その2 いろいろなウォーキングを楽しむ(NO.1537)

 1987年(昭和62年)8月小型バイクを運転中誤って転倒し、鎖骨を粉砕骨折しました。50歳のときです。約1か月間入院、それを機会に熱中していたテニスとたまにやっていたゴルフをやめました。

 50歳代は,IBMでのリストラとアコムへの転職、父母や親しい人の死去、長女の結婚などが相次ぎ、自分の趣味を追いかける暇はありませんでした。

 1996年5月、59歳になってやっと足を使う運動を始めることになりました。IBM健保が定期的にやっていたウォークラリーです。すでにIBMは退職していましたが、健保には加入していました。

 ウォークラリーは数人の仲間とチームを組み、地図に定められたコースをクイズを解きながら歩きタイムを競う競技です。この時はコースは鎌倉でした。その後、2000年5月まで合計5回IBMの同じ仲間とお台場や、調布や、横浜などでウォークラリーを楽しみました。

 60歳代から70代前半まではいくつかの会に入会したり、いろいろなイベントに参加したりしながらウォーキングを楽しみました。

 「東京都中推協余暇研究会」では各地の七福神巡りやご府内八十八カ所めぐりを実施しました。ご府内八十八カ所巡りとは東京都に点在する88の寺院を、四国八十八カ所に見立てて回ります。23区内の各地のお寺7~9カ所を日帰りで何回かに分けて回りました。各地区ごとにリーダーとなる先達を決め、先達は前もって下見をする必要があります。私も何回か先達を務めました。

 千葉県生涯大学の在校生と卒業生の「歩こう会」では大集団で歩くことがありました。たいていは20名~30名でしたが、小石川後楽園や植物園に行ったときは220名が参加、コースに当たるところの迷惑を恐れながら歩きました。泊りがけで日本平近辺を歩いたこともありました。

 70代になってからは「わいわい楽遊会」で珍しいコースを歩きました。生涯大学の同級生のKOさんが常に一人で幹事を務め、下見をして仲間に驚きのコースを提供してくれました。

 読売新聞が主催する水ウォークというイベントがありました。川を巡ったり河川敷を歩いたりすることが多かったのですが、2003年3月には琵琶湖の「びわこなぎさ公園」から大阪の「中之島公園」までの90キロを3日かけて歩くというイベントがありました。それにも迷わず参加しました。しまなみ海道の1回目を歩いた年でした。3日目は足にマメを作りながら淀川の堤を歩いたのを覚えています。

 東京国際スリーデーマーチには2004年と2005年に参加しています。日本スリーデーマーチや浅川ツーデーマーチにも行きました。これはいずれも1日毎に自宅から参加するもので泊まり込む必要はありませんでした。1日のみの参加も可能でした。

 JR主催の「駅からハイキング」もよく利用しました。決められた駅に決められた日に集合し決められたコースを歩くものです。6回くらい参加しています。

 スリーデーマーチや駅からハイキングは生涯大学の同級生のKAさんとよく歩きました。KAさんの奥様が参加されたこともあります。

 我が家の近くで毎年11月に行われる「手賀沼ふれあいウォーク」には毎年のように参加していました。半周コースは10キロ、一周コースは20キロです。手賀沼はイベントと関係なく一人で歩くこともありました。

 そのほか気の向くまま日帰りで好きなところに出かけ歩きました。都内が一番多かったように思います。

 ウォーキングは75歳で体調を崩したため、心残りでしたがやめることになりました。

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2021年11月22日 (月)

ウォーキングの思い出-その1 しまなみ海道スリーデーマーチ(NO.1536)

 ウォーキングの思い出を何回かに分けて書くつもりですが、一番素晴らしかったしまなみ海道のウォーキングを最初にまとめました。

 瀬戸内海を本州と四国を結ぶルートは3つあります。1988年に開通した児島-坂出ルート(瀬戸大橋)、1998年に開通した神戸-鳴門ルート(鳴門大橋と明石海峡大橋)、1999年に開通した尾道-今治ルート(しまなみ海道)です。

 どのルートも自動車専用道路が基本ですが、瀬戸大橋は鉄道との併用です。最後に開通したしまなみ海道は自転車と人が通れる歩道がついています。

 しまなみ海道は今はサイクリングの聖地になっているようで、コロナ前は海外からもサイクリストが大勢やってきていました。しかし私が歩いたころはまだサイクリングにはほとんど使われていなくて自転車に悩まされることもなく、歩いて渡るには最高に快適なウォーキングロードでした。

 私が歩いたのは朝日新聞社主催の2003年の「第3回瀬戸内しまなみ海道スリーデーマーチ」と2004年の第4回のスリーデーマーチでした。

 しまなみ海道は広島県の尾道と6つの島と愛媛県の今治を7つの橋でつないでいます。橋は4つの吊橋とと2つの斜張橋と1つのアーチ橋です。橋は下を大型船が通るため数十メートルの高さがあります。島では一般道路を歩くため橋からの取り付け道路を上り下りする必要があります。橋からの瀬戸内海の眺めは天下一品、上り下りの苦労は全く感じられませんでした。

 スリーデーマーチは尾道市の「しまなみ交流館」から今治市の今治城までの80キロです。初日と3日目は30キロ、2日目は20キロとなっていました。

 2003年は10月3日から5日までで、高校時代の同級生のSさんと歩きました。2004年は10月1日から3日までで、私の弟と歩きました。両年とも晴天に恵まれ、瀬戸内の島々と橋からの眺めを十分堪能しました。年齢も66歳と67歳、まだまだ体力もありました。一番楽しい思い出となっているウォーキングです。

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2021年11月 3日 (水)

山の思い出-その7 スキー(NO.1531)

 スキーに初めて行ったのは1957年(昭和32年)の冬でした。

 一橋大学1年の終わりのころ、体育の出席日数不足を補うため大学主催のスキー合宿に参加したのです。四国愛媛県育ちのためそれまではスキーには全く縁がなく、初めての経験でした。場所は妙高高原にある大学の寮でした。上野から信越線の夜行で同じ合宿の仲間たちと行ったのを覚えています。スキー靴もスキー板も寮に備えていたものを使いましたが、スキー板はエッジもなく、塗料ははげ落ちてゲレンデに立っても全く滑らない代物でした。ワックスを塗ってやっと滑りましたが、初めてスキーを履くものにとっては幸いだったかもしれません。あまりスピードが出なかったからです。

 スキーの楽しさを知ったのは三井生命のハイキング部に入ってからです。ハイキング部は冬にはスキー部に変身しました。冬山はやらなかったのです。

 スキー靴やスキー板や身に着けるものを購入、4年間、冬はスキーに行きました。志賀高原、鹿沢高原、湯沢高原、天神平などに通いました。ただ熱心なスキーヤーではなかったため、あまり上達はしませんでした。

 IBMに転職してからは、2回行ったくらいでスキーとはほぼ縁がなくなりました。

 IBM入社11年後に仙台に転勤となり、その翌年家族で鳴子温泉に行ったとき、久しぶりにスキーを楽しみました。仙台はスキー場が近く、家族で簡単に行けました。仙台赴任中は家族で2度、会社の同僚と蔵王で1度スキーを楽しみました。

 東京に戻ってからは、家族で2度、個人で1度行きました。私の最後のスキーは45歳のとき中里スキー場で終わりました。その後はテニスに変わったのです。でもスキー場の最高地に立った時のワクワク感、滑っているときの爽快感は、今でも体が覚えています。

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2021年10月16日 (土)

山の思い出-その6 仙台赴任時代と65歳前後の山(NO.1524)

 1975年から1978年まで約3年間、日本アイ・ビー・エムの仙台事業所に赴任していました。その間家族で登った山の思い出が鮮明に残っています。

 一つ目は山寺立石寺です。正確に言えば山寺は山ではないかもしれませんが、ちょっとした登山に匹敵する険しさです。仙台から山形までのローカル線の仙山線の山寺駅に降り、登山口から山道の途中途中に敷かれた合計1015段を石段を上ると立石寺があります。

 立石寺は山のあちこちに山門、根本中道、五大堂、開山堂などが散在しており、五大堂からの眺めは素晴らしいです。松尾芭蕉の句「閑さや岩にしみいる蝉の声」で有名で、参道に句碑が立っていました。

 そこに家族で3回登りました。最初下の子は4歳でしたががんばりました。秋には紅葉が見事でした。

 二つ目は仙台郊外の泉ヶ岳です。家族4人でバスを利用して1175メートルの山頂に登りました。

 1998年にサラリーマンをやめてからはウォーキングに打ち込んでいましたが、2001年から3年ほど、思い出したようにまた登山をしました。64歳になっていました。

 海外旅行で知り合ったうなぎ屋のご主人が50歳を過ぎてから登山を始め、その人に誘われたためです。

 まず日光白根山に登りました。久しぶりの登山だったため、高度に慣れず最後の岩壁では怖さを感じました。20代では平気だったところに足がすくむ感じでした。

 20代の登山と違ったのは、車で一番便利な登山口の駐車場に行き、山に登った後は駐車場に戻って帰宅するいうスピード登山になったことです。

 その後、奥日光の男体山、福島の磐梯山、安達太良山に行きました。いずれも紅葉のシーズン、安達太良山はロープウェイを使ったので日帰りでした。うなぎ屋のご主人の車でした。

 私が山に打ち込んだのは、20代のころで、山は若い人ばかりでした。そのころは、車も高速道路も新幹線もなく、山小屋や山の装備や食材などもなどもお粗末でした。今は様変わりです。高齢者になって山の楽しみを知る人が増えるというのもうなづけます。

 ただ山の素晴らしさは昔も今も変わらないと思っています。

 2017年1月号の手賀沼通信は「私と日本百名山」をテーマに書きましたが、私が登った百名山は34座です。百名山以外にも多くの山に登りました。山の思い出シリーズは再度それらの記憶をたどる旅となりました。

 

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2021年10月11日 (月)

山の思い出-その5 近くの山(NO.1522)

 山の思い出には3000メートル級の高山から、日帰りで簡単に行ける近くの山までいろいろな思い出があります。

 ここでは近くの山を3つに絞ってまとめてみましょう。

 1つ目はJR中央線や青梅線沿線の山々です。

 大学に入学した時から約18年間、途中数年間は抜けましたが、中央線沿線に住んでいました。そのため中央線沿線の山々は、家族や仲間と気軽に行ける山でした。

 一番最初は大学に入学した年に、1年生の愛媛県人会として津田塾大学の女子学生と合同で御岳山登山を行いました。

 一番多く登った山は高尾山です。三井生命のハイキング部や家族との思い出がいっぱい詰まっています。一人で高尾山から陣馬山までのんびり歩くのも好きでした。

 川苔山、大岳山、三頭山、生籐山などにも行きました。

 2つ目は丹沢です。ハイキング部で鍋割山や塔ノ岳登山、沢登やキャンプで行きました。IBMでは毎年丹沢集中登山大会がありました。初めて登ったルートでヤマビルが何匹か靴下の中に入り込み苦労した記憶もあります。

 課の旅行で鶴巻温泉に泊まって猪鍋を楽しみ、大山に登ったのも楽しい思い出になっています。

 3つ目は筑波山です。1974年に我孫子に引っ越した後は高尾山や丹沢が遠くなったため、筑波山に代わりました。

 筑波山は男体山と女体山という2つの山頂を持つ双耳峰ですが、独立峰のためほかの山はありません。ルートは2つに限られています。ケーブルカーやロープウェイが利用できます。

 筑波山は常磐線の土浦駅からか筑波鉄道筑波線を利用していました。家族や一人で行きました。ところが1987年に筑波線が廃止され、かなり不便になっていました。2005年につくばエキスプレスが開業すると、つくば駅からシャトルバスが利用できるようになって簡単に行けるようになりました。

 筑波山は茨城県にありますが、空がすんでいると山頂から千葉県を通り越してはるかスカイツリーを望むことができます。

 でも今は高齢で足が悪くなり、筑波山にも上れなくなりました。テレビで山の番組を楽しんでいます。

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2021年9月26日 (日)

山の思い出-その4 南アルプスと中央アルプス(NO.1514)

 JR中央本線で甲府を過ぎ韮崎あたりに差し掛かると、左側の車窓から頂上に尖った岩を持つ山などの山並みがが見えてきます。これが南アルプスの前衛の山と言われる鳳凰三山です。とがった岩(オベリスク)を持つ山が地蔵岳、その左の観音岳、薬師岳を合わせて鳳凰三山と呼ばれます。

 1961年7月、三井生命のハイキング部でこの山に登りました。初めての日本アルプスでした。地蔵岳の頂上からは、北岳、仙丈ケ岳、甲斐駒ヶ岳などの南アルプスの名峰の絶景が眺められ、後方には富士山が顔を出していました。反対側には甲府盆地が一望できました。

 ただこの登山には苦い経験があります。かなり険しい急坂を登る必要があるため稜線近くで足にけいれんを起こして歩けなくなり、先輩に山小屋まで負ぶってもらうという無様な姿となりました。

 その2年後の1963年には南アルプスの盟主で日本第2位の北岳に登りました。やはりハイキング部の仲間と一緒でした。そして北岳から間ノ岳を経て農鳥岳まで、日本一の天空の稜線歩きを楽しみました。

 その数年後には日本第5位の槍ヶ岳に登っていますので、1位から5位までの日本の高峰に登ったことになります。

 1961年8月には中央アルプスの最高峰の木曽駒ケ岳にハイキング部9名で行きました。

 新宿駅を土曜日夜10時45分発の長野行準急「穂高」で出発、途中辰野駅で飯田線に乗り換え日曜日朝5時10分に伊那駅着。バスに乗り換えて6時40分から歩き始めました。ところがその日は雨だったので予定を変更し途中の西駒山荘に2時15分に到着。自分たちで夕食を作りゆっくり過ごしました。

 翌月曜日は天気が回復、ご来光を楽しんで、朝食を作り、6時45分に出発、木曽駒ケ岳、宝剣岳に登山、濃が池を経て下山しました。帰りもバスと列車2本を利用し、新宿駅に着いたのは火曜日の朝4時45分でした。

 今ではちょっと考えられない往復とも夜行列車を利用するという山行でした。火曜日はいったん家に帰って、着替えて会社に出勤しました。

 この登山についてはアルバムに写真と記録が残っていたので、細かく書いた次第です。

 その後は南アルプスと中央アルプスに行く機会はありませんでした。

 中央アルプスは1967年に駒ヶ岳ロープウェイが宝剣岳下の千畳敷まで開業しました。これを利用すると初心者でも楽に駒ヶ岳や宝剣岳まで行くことができます。

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2021年9月18日 (土)

山の思い出-その3 北アルプス(NO.1511)

 日本アルプスの登山は20歳代に集中しています。その中でも北アルプスが強烈な思い出に残っています。私の山登りは雪山や本格的な岩登りではありませんが、短い間に結構高い山に登りました。

 1960年代は今と違って山に行く人は若い世代が中心でした。高齢者の登山姿はあまり見かけませんでした。山小屋は設備が乏しく食事も簡素、場所によっては今の避難小屋のように食料や寝袋持参の必要がありました。登山の装備もお粗末で、ザックやテントは木綿の重い生地が主でした。調理用具もガスコンロはなく、ガソリンか灯油のコンロでした。ポールやストックもありませんでした。スマホや携帯もなかったので、道に迷ったり遭難すると連絡方法はありませんでした。

 北アルプスに初めて登ったのは、三井生命入社2年目の1961年9月初旬でした。新宿駅を夜行列車で出発、松本電鉄に乗り継ぎ、島々からバスで上高地に入りました。メンバーは11名、上高地からは涸沢に入り、北穂高岳、奥穂高岳、前穂高岳を登って上高地に下りました。上高地の大正池は当時は枯れ木が数多く池の中に立っていました。初めてのアルプス縦走に怖さはなく、ワクワクしながら歩きました。

 2度目は翌年の1962年8月下旬、烏帽子岳に登り裏銀座コースを経て雲ノ平に行き、槍ヶ岳を目指しました。ところが雲ノ平で大雨に遭遇したため、槍ヶ岳はあきらめ、雲ノ平で2泊した後伊藤新道を通って湯俣温泉に下りざるを得ませんでした。雲ノ平は黒部川の源流域にあり、北アルプスの最深部で最後の秘境、雲上の楽園と言われています。

 3度目は1964年8月、立山と剣岳に登りました。富山市から電車、ケーブル、バスを乗り継ぎ、室堂に入りました。そこから立山と剣岳を登りました。立山は登りやすい山ですが、剣岳はカニノタテバイと呼ばれる岩登りの難所があります。その時のメンバーはハイキング部と言っても1人山のベテランがいましたが、他は素人集団です。よく登ったものです。山小屋からは黒部ダムまで下り、開通したばかりの関電トンネルトロリーバスで扇沢に出て帰途につきました。

 立山黒部アルペンルートが完成したのは1972年です。当時は黒部ダムまでは室堂側からは徒歩で降りるより方法がありませんでした。まだ観光客は来れなかったので、雄大で静かな黒部ダムをゆっくり見物できました。

 4度目はIBMに入社した後です。三井生命のハイキング部で一緒だったY君と2人で後立山縦走にチャレンジしました。白馬岳から鹿島槍ケ岳まで縦走する予定でした。ところが白馬岳に登った翌日、大雨に遭いました。仕方がないので鑓ヶ岳から鑓温泉小屋に下りました。雨の中の縦走は遭難の危険があります。

 そこで1泊した後、休暇を取っていたので、大糸線経由で直江津から佐渡島の小木に行きました。山から海に代わったのです。佐渡を観光して帰宅しました。若かったからこんなことができたのかもしれません。

 5度目はIBMの友人2人と英会話教室のアメリカ人の先生との4人で北アルプスの表銀座コースを縦走しました。北アルプスの女王と呼ばれる燕岳からあこがれの槍ヶ岳までの縦走です。好天に恵まれのんびり楽しみながら歩きました。槍ヶ岳の槍の穂の岩登りもみんな問題なくこなしました。帰りは槍沢を下って上高地に出ました。

 その時気の毒だったのはアメリカ人の先生が山小屋が苦手で、トイレと雑魚寝に苦労していました。たしかに当時の山小屋は快適とは言えませんでした。水洗トイレなどありませんでした。

 北アルプスの登山はこれで終わりましたが、その後観光で、黒部峡谷トロッコ電車、黒部アルペンルート、白馬山麓の栂池自然園、五竜アルプス山野草園、新穂高ロープウェイ、2度の上高地などを訪れています。北アルプスは山登りの面白さを教えてくれた思い出です。

 

 

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2021年9月 9日 (木)

山の思い出-その2 尾瀬(NO.1508)

 私が山に熱中したのは1960年(昭和35年)、大学を卒業して三井生命に入社し、ハイキング部に入ってからです。1964年9月には三井生命を退社していますので約4年間の間は毎月のように山に行っていました。

 その後はほとんど山には行かなくなったのですが、尾瀬はほかのところに比べて一番好きだったので、歳を重ねてからも行きました。合計5回になりました。尾瀬を代表する燧ヶ岳と至仏山には2回ずつ登っています。

 最初に尾瀬を訪れたのは1961年11月でした。尾瀬ヶ原は草紅葉が終わりかけ、秋色濃いい景色となっていました。我々は13人のパーティでしたが、人影まばらで静かな尾瀬を楽しむことができました。

 2度目は写真は残っていますが記録がないのではっきりせず、その翌年か2年後かです。その時はバスを借り切り、会社のそばから出発したのを覚えています。人数は47名で全員三井生命の社員、8割は若い女性でした。その後妻となる女性も一緒でした。

 当時は尾瀬のハイキングがブームとなっており、社内で希望者を募ったところ、あという間にバスの定員いっぱいになりました。ブームとは言っても47名の大集団は目立ちました。7月で尾瀬ハイキングには絶好の季節、ニッコウキスゲの花が満開でした。いくつかのグループに分かれて、燧ケ岳登山や尾瀬ヶ原散策を楽しみました。

 当時はまだ尾瀬の木道は整備が不十分で、自然を守るルールも徹底せず、尾瀬が一番荒れていたときだったと思います。木道をすれ違う時は、どちらかが木道を降りて草原を歩かなければなりませんでした。尾瀬沼にはエンジン付きの渡し船があったくらいです。ごみの持ち帰りが始まったのは1970年代になってからです。私たち47名も尾瀬の自然を荒れさせるのに一役買ったかもしれません。

 それから約30年後の1991年と1992年に旅行会社の尾瀬ツアーに参加しました。バスと宿泊だけ予約して、あとは自由行動のツアーです。一人で参加し、尾瀬ヶ原散策、三条の滝見物や登山を楽しみました。

 1992年に至仏山に登ったときは、早朝だったため全く人に会わず、山頂を30分以上独占したのを覚えています。

 5度目は2003年の66歳のときに、東京都中推協の仲間15名で温泉と尾瀬ヶ原を楽しみました。6月で水芭蕉が咲いていました。マイクロバスで行き、尾瀬に入る前の岩鞍温泉で一杯やるのが主な目的だったようなハイキングでした。

 数年前に妻ともう一度尾瀬に行こうかと話し合ったことがありますが、もう体がついていかないだろうと考えやめました。

 尾瀬の風景は今でも目に焼き付いています。

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