2024年7月22日 (月)

老人の独り言-8 MG5が買えなくなった(NO.1832)

 2024年7月15日、近所のウェルシアで資生堂のヘアートニックMG5を買おうとしたら、男性化粧品売り場からなくなっていました。店員に問い合わせたら店の方針で置かなくなったとのことでした。マツモトキヨシでもMG5は置かなくなったとのことでした。

 MG5は60年近く使っていました。私は1960年に大学を卒業、サラリーマンになりました。

 ネットで調べてみたら、資生堂のMG5は1963年発売、1967年には19品目、23種類に拡大し当時の男性化粧品として代表的なブランドになったとありました。

 それまでの整髪料はポマードやチックでした。油気が多くねっとりとしていました。MG5のヘアーリキッドはさらっとした液体でそれまでの整髪料の常識を変えたものでした。

 同時期にライオン歯磨から同じような整髪料のバイタリスが発売され販売を競っていました。

 私は両方の製品を使ってみましたがMG5が気に入り、すっかりとりこになりました。それ以後60年近く使っていました。使ったのはヘアートニックとヘアーリキッドだけです。

 61歳でサラリーマンを卒業してからは、ヘアーリキッドは外出する時だけになりました。その後もヘアートニックは毎日風呂上りに使っていました。それがもう使えなくなったのです。

 おそらく今の若い人はもっと新しいブランドのものを使っているのでしょう。

 MG5は発売後は盛んに広告を打っていましたが、いつの間にか広告がなくなりました。PRしなくても固定客があるので売れていて、「メーカーにとってはおいしい商品」ということを聞いたことがあります。

 しかし60年もたつと、固定客も次第にいなくなって売れなくなったのでしょう。ネットで注文すれば買うことができるようですが、300mlで800円の商品です。送料を払って取り寄せることも考えましたが、とりあえず他の商品を使ってみようと思っています。

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2024年7月18日 (木)

老人の独り言-7 高校野球の思い出(NO.1831)

 今第106回全国高校野球の夏の甲子園大会の県予選が各都道府県で行われているまっ最中です。

 2024年は甲子園球場が完成して100年になります。 甲子園で大会が開かれるようになったのは第10回大会からでそれまでは豊中球場と鳴尾球場が使われました。

 高校野球は1915年に第1回大会が開かれました。プロ野球が生まれたのが1936年ですのでその21年も前に生まれたことになります。

 高校野球というとお国自慢につながります。高校野球に興味がある人は、皆さんふるさとの県の代表高校を応援します。

 私は愛媛県出身です。最近は愛媛県代表は勝てなくなりましたが、以前は松山商業が夏将軍と言われていました。松山商業は夏の優勝が5回、春夏合わせると7回日本一になりました。

 大正、昭和、平成の各時代で優勝したのは松山商業だけです。令和で優勝するのはかなりハードルが高いですが、全国唯一の記録を残してもらいたいものです。

 先日NHKテレビで過去の名勝負ベスト10を選んでいました。

 1996年(平成8年)松山商業-熊本工業の決勝戦で10回裏1死満塁で、熊本工業の選手が高々と打ち上げたライトフライを守備固めにはいっていた松山商業の選手が矢のような送球でホームでアウトにした「奇跡の大遠投」がベスト10の中に入っていました。サヨナラ負けを防ぎ優勝しました。

 そのベスト10には、2006年(平成18年)斎藤ハンカチ王子と田中マー君の決勝戦延長15回引き分け再試合も入っていましたが、それ以前のベスト10には必ず1969年(昭和44年)の松山商業井上投手と三沢高校太田投手の決勝戦延長18回引き分け再試合が入っていました。

 なお私の出身校は松山商業ではなく松山南校です。

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2024年7月 5日 (金)

老人の独り言-6 野球を楽しんだ人生(NO.1827)

 1945年(昭和20年)8月15日、日本は太平洋戦争に敗れました。この年私は国民学校3年生、8歳でした。戦争に敗れた後、国民学校は小学校と中学校に変わりました。中等学校は高校に変わったのです。

 プロ野球の記録をひも解いてみると、さすが敗戦の年は試合をやっていません。野球どころではなかったのです。ところが、1944年までは試合を開催していました。1944年は35試合戦っています。

 そして敗戦の翌年の1946年には試合を再開し105試合行っています。私の記憶では敗戦の年、敗戦が決まってから、愛媛県の郡中町のグラウンドでプロ野球の選手が練習をしていたのをかすかに覚えています。郡中町は空襲を受けなかったためグラウンドが使えたのです。選手の名前はわかりませんが、愛媛県出身の選手だったのでしょう。

 一方高校野球のほうはもう少し長く休んでいます。戦前・戦中は中等学校の大会でしたが、1941年(昭和16年)夏の大会から、戦後の1946年(昭和21年)春の大会まで中止しています。1946年夏から高校野球甲子園大会が再開されました。

 私の野球に対する興味も敗戦後です。プロ野球は巨人ファンとなり、高校野球は地元愛媛県の高校を応援することとなりました。

 遊びとして野球を始めたのも敗戦後です。町中の道路で三角ベースをした記憶があります。セカンドベースのないゴムまりを使った野球もどきの遊びでした。ゴムまりは手で打ちました。また海岸の砂浜で布で作ったボールと棒切れのバットを使って遊んだのも覚えています。

 ところがその後は私にとって野球はやるスポーツから見るスポーツになりました。短距離走と水泳は得意でしたが、球技は何をやっても人並み以下でした。

 野球は見るスポーツとして10代から80代まで人生を通して楽しんでいます。

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2024年6月21日 (金)

老人の独り言-5 脊柱管狭窄症と夜間頻尿(NO.1823)

 87歳の老人らしくいくつかの持病を持っています。その中で毎日の生活に大きな影響をもたらしているのが、脊椎間狭窄症と夜間頻尿です。

 最近では難聴もひどくなってきましたが今回は話題から外します。

 脊柱管狭窄症は12年ほど前からいろいろな症状が出て、いくつかの整形外科で低周波、けん引、薬の服用などの治療を受け、最後は手術しかないという宣告を受けました。その時は82歳でしたので、80を過ぎてリスクのある手術は避けたいと通院はやめ、今は特に治療を受けていません。

 最初に出た間欠跛行の症状は改善しましたが、今の症状は長く歩けなくなったことと、座ったり寝ている状態から立ち上がるのに手を使う必要があることです。

 夜間頻尿は数年前から自覚するようになりました。10時に寝床に入り6時に起き上がるまで、2回~3回トイレに通います。

 夜間は6畳のカーペットの部屋に、厚手のマットレスを敷いて寝ています。日中はマットレスを2つ折りにしておいてあります。

 トイレに通うにはそのまま立ち上がれるベッドのほうが楽です。隣に息子が以前使っていたベッドの部屋が空いているのに、あえて立ち上がるのに苦労する部屋を使っているのは、今の部屋が南向きで温かく、寝ていて手が届く範囲にいろいろなものがあるからです。テレビやラジカセ、本だな、薬箱、貴重品入れ、眼鏡や飲み物などが寝たままか体を起こしたままで手が届きます。

 乱雑ですが使い勝手がいいのです。パソコン2台とプリンターもあります。着替えもつるしています。

 やせ我慢かもしれませんが、夜間トイレに通うとき、足やひざや手を使って苦労して立ち上がるのが、乏しくなった体の機能を少しでも長く保てるのではないかと思っていることもあります。 

 ところが5月15日の読売新聞に「何度もトイレ 転倒リスク」と題して衝撃的な記事が出ていました。東北大学によると夜間の排尿回数が2回以上の人は、その後5年間に転倒による骨折リスクが2.2倍、死亡リスクが1.91倍に増加するとのことです。気を付けようと思います。

 いつまでこの状態が保てるかわかりませんが、できる間は頑張ろうと思っています。

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2024年6月16日 (日)

老人の独り言-4 好きだった3つの歌(NO.1822)

 歌についての思い出の続きです。

 いろいろな歌を楽しみましたが、その中で一番多く歌ったのが次の3曲です。

 まず1949年に発表された「長崎の鐘」です。

 サトウハチロー作詞、古関裕而作曲で、藤山一郎が歌いました。この歌にはモデルとなる人がいました。原爆症で亡くなった長崎大学の永井隆博士です。哀調のある詞とメロディが心に響きました。カラオケのシステムが出るまえからの愛唱歌でした。

 その次は「無法松の一生ー度胸千両入り」です。

 吉野夫二郎作詞、古賀政男作曲で、1958年に出た村田英雄のヒット曲です。度胸千両の部分で曲調が変わるのが何とも言えず好きでした。

 私が歌い始めてから愛友会の仲間も何人かが好んで歌いました。三味線だけの伴奏で舞台で歌った猛者もいました。

 3っつ目は1980年に発表された、谷村新司作詞作曲、本人が歌った「昴(すばる)」です。詞にも曲にも演歌とは違った格調の高さがありました。

 3曲とも歌うことの楽しみを味わいながら歌いました。

 カラオケを楽しむ機会がなくなったことが残念でなりません。

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2024年6月 3日 (月)

老人の独り言-3 東北を歌う(NO.1818)

 1975年(昭和50年)6月から1978年(昭和53年)3月まで東京から仙台に赴任しました。

 赴任した時の年齢は38歳、それまでの私の行動の南限は鹿児島市でしたが、北限は尾瀬の燧岳でした。東北については何も知らない状態でした。ところが仕事で東北6県をカバーすることになりました。

 そしてわずか2年9か月の間に東北の魅力に取りつかれました。それから東北をうたった歌に愛着を感じるようになったのです。

・津軽海峡冬景色

 赴任期間中の1977年、石川さゆりの歌った津軽海峡冬景色がヒットし始めました。阿久悠作詞・三木たかし作曲の哀愁のこもった演歌です。石川さゆりはこの1曲でスターになりました。

 この歌は仙台赴任時代を思い出しながら歌っています。竜飛崎にはこの歌の2番の歌詞を刻んだ歌碑がたっていて、ボタンを押すと石川さゆりの歌声が流れます。

・青葉城恋唄

 仙台から東京にに戻った年に仙台で知り合った大学の後輩から「青葉城恋唄」のシングルレコードが送られてきました。「青葉城恋唄」は仙台市の風景を取り入れた失恋の叙情詞です。

 さとう宗幸が作曲し、自分で歌っています。仙台ではやっていたものをレコードに吹き込み「杜の都」を全国版にしました。私も仙台を思いながら歌っています。

・風雪流れ旅

 北島三郎の大ヒット曲です。星野哲郎作詞・船村徹作曲・北島三郎唄のゴールデントリオは数多くヒットを生みました。盲目で津軽三味線を担いで東北や北海道をさすらった高橋竹山をモデルとした演歌です。

 私が民謡仲間の愛友会の打ち上げで歌ってから愛友会のみんなも歌うようになりました。

・北国の春

 いではく作詞・遠藤実作曲・千昌夫唄の大ヒット曲です。日本だけでなく、中国や台湾をはじめアジア各国でヒットしました。

 わたしは中国語講座の発表会で中国語の歌詞の「北国の春」をうたったことがありますが、中国語では望郷の歌がラブソングの歌詞に変わっていました。

・北の宿から

 阿久悠作詞・小林亜星作曲・都はるみ唄の東北をうたった代表的な演歌です。大変歌いやすい曲で、大好きな曲です。

・みだれ髪

 福島県の塩屋の岬を舞台にした演歌です。「風雪流れ旅」の星野哲郎と船村徹のコンビが美空ひばりにささげた曲です。美空ひばりが大病から復帰した直後に唄う曲として、船村徹が歌いやすい曲を作ろうとしたのですが、ひばりはそんな配慮は不要と伝えたそうです。みだれ髪は音域の広い曲となっています。

 塩屋岬にはこの曲の歌碑がたっていて、美空ひばりの歌声を聞くことができます。

・みちのくひとり旅

 山本譲二のヒット曲です。市場馨作詞・三島大輔作曲です。大変唄い甲斐のある演歌で、大声で歌うといい気分になります。

 なお津軽出身の吉幾三の演歌も好きですが、なぜか歌ったことがありません。理由は自分でもわかりません。

 

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2024年5月29日 (水)

老人の独り言-2 美空ひばりと八代亜紀(NO.1817)

 2024年5月29日は美空ひばりの生誕87年の記念日になります。

 美空ひばりは1937(昭和12年)年5月29日に生まれ、1989年(平成元年)6月24日に亡くなりました。52歳でした。

 私は同じ年の1月29日生まれですので、ひばりより4か月の年上ということになります。

 亡くなる約1年8か月前の1988年4月11日、東京ドームのこけら落としに美空ひばりの「不死鳥コンサート」が開催され、体調不良と脚の痛みに耐えながら39曲を歌いあげました。その後、最後の曲となった「川の流れのように」を収録、昭和から平成となった年に亡くなりました。

 「お祭りマンボ」「みだれ髪」「悲しい酒」「愛燦燦」「花笠道中」「柔」「真赤な太陽」「越後獅子の唄」などが私の愛唱歌です。「お祭りマンボ」はほかにあまり歌う人がいないので、私の十八番でした。

 「不死鳥コンサート」を収録したNHKのビデオは永久保存にしています。

 2023年12月30日に73歳で亡くなった八代亜紀の死はショックでした。あまりにも突然の死でした。八代亜紀は最後まで輝いた大好きな歌手でした。

 八代亜紀の「舟唄」「雨の慕情」「なみだ恋」はよくカラオケで歌いました。特に「舟唄」は、女性歌手の歌の中では一番多く歌ったと思います。

 2014年4月に中野サンプラザで行われた八代亜紀のコンサートが、追悼番組として民放で放送されました。そのビデオも永久保存としてとっています。

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2024年5月20日 (月)

老人の独り言-1 歌を楽しんだ人生(NO.1814)

 87年間の人生を振り返ると一番長く続いている楽しみは「お酒」と「歌」です。

 今は歌うことはなくなりテレビで歌番組を聞くだけになりました。

 2019年12月に足が痛くなって民謡の「愛友会」をやめました。タイミングを合わせたように、喉頭白板症にかかり声が出なくなりました。足の痛みがなくてもやめざるを得なかったのです。

 手術の結果声は出るようになりましたが、コロナの真っ最中です。集まりはなくなりました。民謡とカラオケは2019年の愛友会の忘年会で歌ったのが最後となりました。

 学生時代に宴会で歌ったのが始まりです。その後は、会社の宴会、高校の同窓会や大学の同窓会などの宴会で歌いました。そして本格的に歌うことを楽しんだのは退職後です。

 「愛友会」の仲間とは民謡大会の終わった後や忘年会や新年会でスナックを貸し切りでカラオケを楽しみました。柏の高齢者の会の「あけぼの会」やその他いろいろな同好会でもカラオケを楽しみました。

 歌ったのはいわゆる流行歌です。東海林太郎、田端義夫、藤山一郎、ディック・ミネ、近江敏郎などから始まって、三崎美智也、春日八郎、鶴田浩二、フランク永井などを経て、北島三郎、五木ひろしなどまでの歌手の歌です。女性歌手の歌も好きでした。 昭和歌謡が主で最近の演歌歌手の歌は知りません。

 学生時代からサラリーマンの現役時代、カラオケのシステムが出てくるまでは伴奏なしのアカペラでした。歌詞を覚えてなければ歌えないので、せいぜい2番までです。ところが「汽笛いっせい新橋を‥‥」の「鉄道唱歌」を長々と歌う人や、「ここはお国を何百里‥‥」の「戦友」を延々と歌う人がいて驚いたことがあります。会社の同僚でイタリアのカンツオーネの「オーソレミオ」や「フニクリフニクラ」などが得意な人もいました。

 平成の30年間は民謡と昭和の流行歌と演歌を十二分に楽しんだと言えます。

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2024年5月16日 (木)

老人の独り言-0 新しいシリーズを始める(NO.1813) 

 いま「あの時あの場所この1枚」とタイトルで、過去の出来事を1枚の写真をそえて振り返るシリーズを書いています。

 それと並行して「老人の独り言」シリーズを書こうと思います。身の回りのことや日頃感じたことや気の付いたなどを、私の勝手な考えや意見を交えて書くつもりです。

 歩くのがつらい脊椎間狭窄症という持病があるため、旅行はもとより都内への遠出や足を使っての散歩もできなくなりました。外出はバスでの診療所通いと自転車を使っての買い物くらいです。飲み会のお誘いはすべて断り、友人とのお付き合いもほとんどなくなりました。

 情報源は読書と新聞とテレビ、パソコンとスマホに限られています。したがって「老人の独り言」も限られた情報源と妄想、空想などになるのではないかと恐れています。「老人からの提言」「老人の知恵」などとするのは恐れ多く、それほどの力もありません。「老人の繰り言」「老人の愚痴」では情けなく、書く意欲がなくなります。

 「老人のつぶやき」でもよかったのですが、「老人の独り言」を選びました。独断と偏見も出てくると思いますが、87歳の老人に免じてお許しください。

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2024年3月 6日 (水)

あの時あの場所この1枚-13 凍結した見事な摩周湖(NO.1792)

 16年前の2008年2月末ツアーで冬の北海道旅行をしました。

 ツアーの目玉は網走近辺での流氷見物でしたが、その年は予定通り流氷が岸辺までやってきていませんでした。その場合は船で流氷の場所まで行って見物することになっていましたが、強風のため出航できず、代わりの網走刑務所見物も強風で取りやめとなりました。

 伊豆のカワヅザクラ見物もつぼみ見物で終わったこともあります。季節をあてにしたツアーはあてにならないことがありますね。

 ところが素晴らしい景色を見せてくれたのが摩周湖です。なかなか全面結氷が見られるの時期に合わないとのことでしたが見事に凍っていました。裏側から見た摩周湖になります。

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 前回来たときは表側で、看板通り霧の摩周湖でしたが、今回は妻ともども見事な景色を堪能できました。

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