2021年5月 3日 (月)

職場の思い出-その6 日本アイ・ビー・エム 研修部門(NO.1463)

 1978年(昭和53年)3月、仙台営業所から、東京新宿の高層ビル住友生命ビルの26階にある研修部門に転勤となりました。

 家族は長女の小学校4年の修了式、長男の幼稚園の卒園式を待って3月末に我孫子台マンションに戻ってきました。マンションは学生時代にお世話になった堀さんに貸していたのですが、私の転勤が決まると堀さんの引っ越し先を一緒に探し、五反田のマンションを見つけました。

 私は1965年以来のスタッフ部門への移動でした。研修部門では営業部門に入ってきた新入社員研修のインストラクターになりました。

 営業部門の新入社員はセールスとSEの卵です。当時はセールスは4月からその年の秋まで、SEは4月から翌年の秋まで研修が続きます。その間、教室でのいろいろなコースでの研修と、営業所で先輩について実習するBOトレーニングを重ねていきます。この期間を経てそれぞれ1人前のセールスとSEになることになっていました。

 研修の最後にはマーケティングスクール(MS)というコースが関門としてありました。軽井沢や苗場や山中湖などの観光ホテルで約10日間ほどの合宿コースです。生徒がIBMのセールス,インストラクターが顧客のいろいろな役職となり、実際のケースを使って顧客を説得するというロールプレイです。最後に顧客が納得して契約が取れれば無事卒業というコースでした。

 アイ・ビー・エムも今はビジネスの形態が大きく異なっているので、このような時間と手間をかけた研修は行っていないと思います。

 当時はセールスで約7~8か月、SEの場合は1年半以上、いろいろなコースで生徒と一緒になるため、生徒の上司よりもインストラクターのほうがその期間は生徒のことをよく知っていることになりました。

 研修部門には新入社員研修のほかに、セールスやSE向けの研修、顧客の役員クラスや顧客の技術者向けの研修などいろいろありましたが、私の場合は新入社員研修が一番向いていたと思っています。

 1982年6月には事業所が新宿から川崎の自社ビルに引っ越しました。通勤に2時間近くかかるようになりました。

 新入社員研修に在籍していたのは4年10か月で、1983年(昭和58年)1月からは研修企画に異動しました。研修企画では研修のコースをまとめたCCAブックの作成、研修情報システム(アドバンスドEDIS)の開発、アメリカのアイ・ビー・エムの研修部門とのパソコン通信を使ってのやり取りなどが主な仕事でした。インターネットやノートパソコンなどはまだない時代で、IBM製のごつい5550という初期のパソコンが使われ始めていました。EDIS開発では深夜まで仕事が続くことが多く、川崎の日航ホテル泊まり込みが増えました。

 1985年5月には神田ビルに引っ越し、通勤がかなり楽になりました。そして1986年には営業人事に異動になりました。営業部門の人事をつかさどる部門で、六本木の本社勤務となりました。

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2021年4月24日 (土)

3回目の緊急事態宣言が出ることになった(NO.1461)

 令和3年4月23日、東京都、大阪府、京都府、兵庫県に緊急事態宣言が発令されることに決まりました。

 3回目となります。期間は4月25日から大型連休が終わる5月11日までです。

 新型コロナウィルスの感染拡大が止まりません。大阪では連日1000人以上の感染者で東京をはるかに超える日が続いています。東京も前週の同じ曜日の感染者数を超える日が続いています。大型連休中の人出を抑制するため、急遽3度目の制限が出たわけです。

 2回目と比べて今回は厳しい要請となっています。酒やカラオケを提供する飲食店は休業、デパートやショッピングセンターなどの大型の商業施設は生活必需品を除いて休業、テーマパークや映画館も休業、野球やサッカーなどのスポーツは原則無観客となります。

 今回宣言の対象にならなかった首都圏の神奈川、埼玉、千葉の各県では、まん延防止措置対象の市が追加されました。千葉県では4月20日から対象になっていた5市に加えて、7市が4月28日ころから対象に加わります。わが我孫子市も感染者数はそんなに多くないのですが、将来拡大する恐れがあるということで対象になりました。

 感染拡大は、病院の対応能力や3か月後に迫ったオリンピックのことなどを考えると、今回の宣言でぜひ抑え込まなくてはなりません。

 悪い例えかもしれませんが、太平洋戦争を知っている世代は、戦争中、鬼畜米英に勝つため、軍部に騙されながら、国民一丸となって戦争に協力しました。みんな同じ方向を向いていました。戦争を知らない世代は、戦後の自由を重んずる教育を受けたせいか、コロナに勝つために同じ方向を向いているようには思われません。ここは自分の楽しみを忘れてもコロナの感染を抑える方向に向く必要があると思います。コロナに勝てばまた自由を楽しめるのです。ぜひ一時的な楽しみを犠牲にして自粛の協力してほしいと思っています。

 戦争には負けましたが、コロナには勝たねばなりません。

 また、「政府は(読売新聞の社説を借りれば)、宣言期間を有効に使い、ワクチン接種や病院間の連携強化、病床や医療従事者の確保、検査体制の充実など、包括的な政策を急ぐことが肝要である」と思います。

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2021年4月22日 (木)

職場の思い出-その5 日本アイ・ビー・エム 仙台営業所(NO.1460)

 1975年6月、日本アイ・ビー・エム仙台営業所へ転勤となりました。家族は長女が小学校2年の1学期を終了した後7月25日に引っ越しました。

 仙台営業所は仙台市の中心の芭蕉の辻の安田生命ビルにありました。向かいは日銀の仙台支店、藤崎デパートのすぐ近くでした。

 私はフィールドSEマネージャーとして、七十七銀行、山形銀行、秋田相互銀行、大東相互銀行その他、東北地方の金融機関を担当することになりました。

 それまで担当した生命保険会社と証券会社では、本格的なオンラインシステムはまだでしたので、初めて銀行を担当する仙台営業所でバンキングオンラインシステムの厳しさを知ることになりました。当時は都市銀行や地方銀行にはオンラインシステムが導入されており、第二地銀の相互銀行や信金などはオンラインシステムが普及し始めていました。

 バンキングオンラインシステムは店頭やATMで直接顧客と結びついており、システムダウンが起こると大きな影響が出ます。最近のみずほ銀行のシステムダウンは社会問題となりました。

 七十七銀行では開発中の次期システムが思うようにいかず、経験者のサポートで軌道修正しました。私の知識不足、経験不足を痛感しました。

 秋田相互銀行はSEのリーダーシップで無事オンラインシステムが始まりました。大東相互銀行はオンラインシステムが動き出したばかりで初期トラブルもありましたが、SEその他関係者の献身的な努力もあって解決しました。

 当時エクセレントカンパニーと言われていたアイ・ビー・エムは、システムに必要なハードウェアを自社でカバーしようと、店頭で使われる端末やATMをすべて開発していました。他の優秀なメーカーの製品を組み合わせてシステムを作ることは考えられなかったのです。例えばIBM製のATMはアメリカでの防犯のため大型で大変重いものになっていたため、導入に際して床の補強が必要なところもありました。全国の銀行の店頭用に開発した端末は結局あまり採用されませんでした。

 仙台営業所では山形、秋田、郡山、福島、東京などによく出張しました。当時は東北新幹線や秋田、山形新幹線もなかったため、出張には時間がかかり、ホテルに泊まることもしょっちゅうでした。SEも出張が多く、顔をそろえるのは土曜日が多かったため休日出勤が増えました。

 仕事以外にも楽しみがありました。ゴルフ場の料金が関東に比べると格段に安かったため営業所の仲間でよく行きましたが、最後まで上達しませんでした。釣りには好きな仲間で女川に通いました。おそらく東日本大震災で女川のあの釣り宿も流されたのではないでしょうか。スキーにも何度か行きました。家族で出かけることも増えました。地方の営業所生活もまた楽しかったと思っています。

 1978年3月、3年弱の勤務を終えて、新入社員研修の部門に転勤になり新宿の住友生命ビルに戻ることになりました。

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2021年4月18日 (日)

職場の思い出-その4 日本アイ・ビー・エム 証券・地銀・信金担当営業所(NO.1459)

 1974年(昭和49年)7月、証券・地銀・信金担当の営業所に異動となりました。

 この営業所に所属したのは1年弱で、1975年6月には仙台営業所への転勤となりました。また1974年8月には我が家をけやき台団地から我孫子台マンションに引っ越しました。1974年にはオイルショックが始まり日本経済も大打撃を受けた年でもありました。

 新しい営業所では証券会社担当のフィールドSEマネージャーになりました。1974年にSEの組織変更がありました。それまでのSE課長を、部下を管轄するラインとしてのBOSEマネージャーと、部下はBOSEマネージャーに所属するが実質的には部下としてSEを率いるスタッフのフィールドSEマネージャーに分けたのです。

 私は証券会社担当SEのリーダーになりました。なぜか松本市にある松本信金も担当することになりました。証券会社や信金の業務やシステムは全く知りません。まずは担当SEから業務やシステムについて教わることから始めました。

 大和証券と日興証券は新しいオンラインシステムへの移行、山一證券はコンピュータ売込みでユニバックとの激しい競争になっていました。営業所全体の業績は好調でしたが、証券グループはオイルショックも重なり厳しい状態でした。

 証券担当SEグループのリーダーとして営業所長とぶつかることが何度かありました。もっと証券グループの抱えている問題に関心を持ってほしいと注文を付けたこともあります。

 それが原因かどうかはわかりませんが、赴任した翌年の6月突然仙台営業所への転勤が決まりました。何のために証券担当としてその営業所に呼ばれたのか理解できず、仕事をしたという充実感も味わう時間がありませんでした。

 短い間でしたが一緒に仕事をしたセールスやSEはとてもいい仲間でした。一緒に飲みに行ったのは保険担当のときより多かったと記憶しています。六本木や新橋のバーが証券グループのたまり場になっていました。今も証券グループの集まりには必ず参加しています。

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2021年4月15日 (木)

職場の思い出-その3 日本アイ・ビー・エム 保険担当営業所(NO.1458)

 1966年(昭和41年)に製造業担当営業所から生命保険会社を担当する営業所に変わりました。通勤も神田から新宿の安田生命ビルになりました。

 当時の主な生命保険会社と損害保険会社はパンチカードシステムからのつながりで、IBMのコンピュータが大きなシェアを占めていました。ところが日本のコンピュータメーカー急速に力をつけてきて、競争が激しくなっていました。

 三井生命にはIBM7070という大型コンピュータが導入されていましたが、その後継機種の導入をめぐってNECと激しい競争をしていました。そのため三井生命とつながりある人物を探し出して担当SEにしたのだと思います。

 システム/360モデル40の売り込みに成功したあと、7070のシステムからシステム/360へのシステム移行をサポートしました。退職をこころよく受け入れてくれた上司の言葉に応えた形となりました。

 しばらくして第一生命にもシステム/360モデル65が導入されることになり、第一生命担当SEに変わりました。

 第一生命は本社機能を日比谷のGHQに使われたビルから、神奈川県の大井松田に新築した大井本社に移していました。みかん山を買い取って本社ビルと独身寮を建設し、家族持ちの内勤社員は山のふもとに建設された家族寮に移るという画期的な本社移転でした。

 コンピュータもそこに導入されました。IBMは第一生命の独身寮の1部屋を借り、SEが泊まり込みで数か月の社員教育を行ったり、サポートをしたりしました。

 保険担当営業所は新宿から住友生命八重洲ビルに変わっていました。1972年からはSE課長として三井生命や第一生命を含めて5つの生命保険会社を担当しました。この年35歳にして自動車の運転免許を取りました。

 今のIBMの業務内容は知りませんが、当時はコンピュータなどのハードウェアをレンタルするか売却することが主な収入源でした。顧客ごとにセールスマンがアサインされ毎年クオータ(わかりやすく言えばノルマ)を達成しようと頑張っていました。

 SEにはクオータはありませんが、SE課長になるとクオータが割り当てられます。そしてクオータが達成できると、海外で行われるコンベンション(祝賀会のようなもの)に出席できます。1973年は香港に出席しました。1974年はシンガポールの予定がオイルショックのため海外に行けなくなり、京都に変わりました。

 1973年4月には営業所が八重洲から六本木の本社ビルの隣のアネックスビルに引っ越しました。そして1974年7月SE組織の変更にSE組織の変更に伴い、保険担当の営業所から証券担当の営業所に所属変更になりました。同じアネックスビルの1階違いです。

 保険担当営業所には8年半ほどでしたが、SEとして、途中からはSE課長として大変充実した時代でした。良い上司、良い同僚、良い部下に恵まれました。お客様ともよい関係ができ、今でもお付き合いしている方がいます。

 SE時代に印象に残っていることは1969年に韓国IBMから望まれて、韓国IBMの三星物産(今のサムソングループの前身)系列の東邦生命へのシステム/360モデル20の売り込みのサポートに行ったことです。本来の業務とは関係ありませんが、たまたま体が空いていたため白羽の矢が立った感じでした。

 当時は1ドル360円時代、円をドルに換えるには相手方のサポート依頼のテレックスを添えて申請する必要がありました。パスポートは1回限り、出入国には伝染病予防注射の証明書が必要でした。韓国は朴正煕の軍事政権で夜12時から朝4時までは外出禁止でした。入国時には持参した週刊誌を税関で1ページづつチェックされました。

 韓国IBMの売り込みは成功し、2年後にはシステム設計のお手伝いで再度訪韓しました。1回目は15日間くらい、2回目は25日間くらいソウルに滞在しました。

 なおそのころは、従軍慰安婦や強制労働などの問題は一切ありませんでした。

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2021年4月 5日 (月)

職場の思い出-その2 日本アイ・ビー・エム 営業企画・製造業営業所(NO.1454)

 1964年(昭和39年)10月15日、日本アイ・ビー・エムに転職しました。

 最初の会社三井生命は9月15日に退職していました。休職中の10月10日には東京オリンピックが始まりました。

 日本アイ・ビー・エムの職場は永田町の本社ビルの営業企画部でした。地下鉄の赤坂見附駅から徒歩5分くらいのところにありました。職場での仕事は特になく、システムエンジニアとしての研修を受けることが仕事でした。

 当時日本アイ・ビー・エムは新しいコンピュータシリーズのシステム/360を発表し、広く人材を募集してました。研修も受講生はいろいろな会社を辞めて入社した中途採用の仲間でした。椎名社長の歓迎のあいさつで「みなさんの中に3千人目の社員がいる」と言われたのを覚えています。日本アイ・ビー・エムは日本経済の高度成長に合わせて急拡大し、入社時3千人だった社員が退職するときには3万人を超えるほどになっていました。

 東京オリンピックは大会の運営に初めてコンピュータによるオンラインシステムがが導入されたオリンピックでした。日本アイ・ビー・エムがそのシステムを作りました。コンピュータも人も無料で提供したようです。私は入社したときはすでにオリンピックが始まっていたので何もできませんでしたが、あとで配属された職場にはオリンピックで活躍した同僚が何人もいたのを覚えています。

 三井生命でコンピュータを使っていたこともあって研修は楽でした。全くコンピュータ経験のない人は結構大変だったようです。

 研修が終わったあとSEとして製造営業所に配属となりました。場所も永田町の本社から神田の営業所になりました。当時東京では営業所はインダストリー別に別になっており、SEやセールスマンはアイ・ビー・エムのコンピュータが導入されている会社の担当にそれぞれアサインされていました。

 私は荻窪のプリンス自動車担当のSEになりました。それまでいた保険会社とはまったく違う自動車業界で面食らうことばかりでしたが、すべてが新鮮で勉強することばかり、大変面白い体験でした。村山工場でプリンススカイラインの製造ラインで見たことは今も鮮烈に記憶しています。仕事はお客様に導入されていた1400シリーズのプログラムを何本か作成することが主でした。

 驚いたことは、担当しているときにプリンス自動車が日産自動車に吸収合併されると発表されたことでした。

 プリンス自動車を担当したのはわずか半年で、その後保険会社を担当する営業所に転属になりました。

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2021年3月15日 (月)

職場の思い出-その1 三井生命(NO.1444)

 思い出シリーズの3は「住んだ場所」「学校」に続いて「職場」です。

 1960年(昭和35年)4月、大卒内勤社員として三井生命に入社しました。業界6位の生命保険相互会社でした。同期入社は42名でした。当時生命保険会社は、新卒として、大卒内勤社員、大卒外務員幹部候補社員、高卒事務職社員を採用していました。大卒は男性のみ、高卒は女性のみでした。

 どの生命保険会社は初任給はほぼ1万4千円、たしか都市銀行は1万5千円だったので、銀行に差をつけられていました。

 本社は日本橋にありました。1年後大手町に三井生命ビルが完成しそちらに移りました。配属は月掛保健部月掛料金課数理係で、主な仕事は保険に関する毎月の統計を取ったり、年1回の決算をすることでした。

 最初のころはIBMのパンチカードシステムのいろいろな機械を使っていましたが、新しい本社に移ってからはIBM650やIBM1401などのコンピュータを利用するようになりました。データもパンチカードと磁気テープになりました。

 IBM650は真空管を使ったコンピュータで記憶容量は3Kワード(容量は間違っているかもしれません)、機械の上には直接大きな空調機がかぶさっていました。今のパソコンやスマホしか知らない人には想像もつかないと思います。

 三井生命時代の記憶は、仕事よりも、労働組合と山登りのほうが残っています。組合の執行部には入りませんでしたが、退職時には本社地区の地区部長をやらされていました。

 山登りは入社2年目にハイキング部に入り、春から秋まで月に2回は仲間と通っていました。ハイキング部は冬にはスキー部に変わり、スキーも楽しみました。私の登った百名山は30幾つですが、三井生命時代がほとんどです。

 そして1964年9月三井生命を退職しました。4年9か月足らずの在職でした。日本アイ・ビー・エムにいた叔父から転職を勧められたためです。日本アイ・ビー・エムは急拡大中で、広く中途入社の人材を募集していました。

 三井生命は日本アイ・ビー・エムの大ユーザーだったため迷いましたが、直属の上司が「アイ・ビー・エムに行って勉強してその分三井生命のために尽くしてくれればいい」と言って快く退職を認めてくれました。その言葉通り、1年後にはシステム・エンジニアとして三井生命を担当することになりました。

 三井生命勤務は短かったですが、楽しいことばかりでした。私の妻は三井生命のキー・パンチャーでした。ハイキング部で知り合いました。また、42名からかなり減りましたが、三井生命の同期会には出席しています。

 

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2021年3月 8日 (月)

学校の思い出-その6 資格学校(NO.1442)

 日本アイ・ビー・エム在職中で54歳のとき「宅地建物取引主任者(宅建)」の資格を取りました。仕事とは全く関係のない資格です。

 当時アイ・ビー・エムには45歳以上になると、何かを勉強するときにかかる費用を一定額まで補助してくれる制度がありました。

 ちょうどバブル時代、不動産取引が盛んで宅建の資格が人気でした。50歳半ば、将来のことを考える年代でした。そしてアイ・ビー・エムの制度を利用して何かの資格を取ってみようと挑戦したのが宅建の資格でした。通信講座を利用して合格しました。それが資格挑戦の病みつきとなりました。

 次に挑んだのが「国内旅行業務取扱主任者」と「一般旅行業務取扱主任者」の資格です。旅行代理店に必要な資格です。これらも通信講座で合格しました。楽しい勉強でした。

 次の目標は「社会保険労務士」の資格でした。通信教育を始めましたが、この資格は通信講座だけでとれるほど簡単ではありません。ここから資格学校通いが始まりました。56歳でアイ・ビー・エムの大リストラが発表された年です。

 大塚にある「日本ライセンスセンター」の休日を利用した講座に通いました。「集中問題解説講座」「一般常識集中講座」「直前対策講座」その他を学習しました。国仲先生の講座は素晴らしく、すっかりファンになりました。大学の授業はどちらかといえば後ろの席から埋まりますが、資格学校は前の席から埋まります。皆さん熱心に、懸命に先生の話を聞いていました。

 そして社労士試験を受ける直前にアイ・ビー・エムを退職、アコムに転職しました。転職の2週間後社労士試験があり合格しました。

 次に狙ったのが税理士資格です。相続税法の通信講座を始めました。そして松戸にある「大栄税理士学校」に通いました。しかし試験に失敗し、税理士の資格はあきらめました。社労士より数段難しい試験でした。

 社労士のほうは実務の通信講座を修了しスクーリングも終えました。日本ライセンスセンター社労士会にも入会しました。その気になれば開業することも可能でした。しかし開業するにはコネと実力が足りないことがわかりやめました。

 資格のほうはその後「行政書士」「英検準1級」「システムアドミニストレーター」などを取りました。行政書士のときは神田神保町にある「東京リーガルマインド」の「行政書士一夜漬け講座」に通いました。結局資格取得は仕事にはつながらず、趣味のようなものに終わりました。

 なお次は「職場の思い出」シリーズを書くつもりです。

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2021年2月24日 (水)

学校の思い出-その5 一橋大学(NO.1439)

 1956年(昭和31年)4月、1年浪人をして一橋大学経済学部に入学しました。

 当時の一橋大学は1学年の定員が、経済学部120名、商学部120名、法学部100名、社会学部100名の少人数の大学でした。現在は2倍近くの1学年約1000名ほどになっているようです。

 私たちの学年は全員男性で、4年間の在学中別の学年に1名の女性がいただけでした。今は女性の数は大幅に増えています。

 当時は教養過程の2年間は小平キャンパス、あとの2年間は国立キャンパスで学びました。教養課程の小平キャンパスは1996年に廃止され、今は全員国立で学ぶようになりました。小平分校の後は小平国際キャンパスとなっているようです。

 一橋大学に入ってまず心を躍らせたのは、当時中労委の会長をされていた中山伊知郎、学生に人気絶大だった高島善哉、上原専禄などの諸先生の講義を聴くことができたことです。

 西武多摩湖線の一橋大学駅から2つ目の青梅街道駅近くに下宿を見つけて通いました。下宿については「住んだ場所の思い出-その5」に詳しく書いています。

 教養課程のクラス分けは第2外国語によって分けられました。私たちはドイツ語のクラスの1つでした。このクラス会は今年はコロナで集まれませんでしたが今も続いています。

 同好会を選ぶのは迷いました。体力的にスポーツは自信がありませんでした。いろいろ考えた末、親父が尺八をやっていたのでなじみがあった尺八の「一竹会」に入りました。東京女子大の琴の会との交流というおまけがついていました。一竹会の師範はのち人間国宝になって65歳で亡くなられた山口五郎先生でした。まだ結婚されたばかりの若手バリバリのころでした。

 後半の専門課程の2年間はゼミナール単位で学ぶのが一橋大学の特徴でした。近代経済学の関恒義先生のゼミを選びました。関先生はマルクス経済学にも精通されていたまだ30代の新進気鋭の先生でした。ゼミの同期は10名でした。関先生は大の酒豪、勉強よりもお酒を楽しむことを学んだと言ってもいいと思います。先生のお宅や飲み屋やゼミ旅行でよく飲んだのを覚えています。関ゼミの集まりは、各年代のゼミテンも入れて先生の傘寿のお祝いまで続きました。卒論には当時はやっていた「ゲームの理論」を選びました。

 大学の4年間はあまり勉強に励んだ記憶はありませんが、先生、同級生、先輩、後輩、下宿のおばさんとの交流などその後の人生を豊かにしてくれた4年間だったと言えると思います。

 それに何より感謝することは、あまり経済的に豊かでなかった両親が、浪人時代も含めて、学費だけでなく毎月1万円を送ってくれたことです。就職してもらった最初の給与が1万4000円だったのでその金額の大きさがわかります。弟も東京で一緒だったので、同じ期間同じ負担をかけました。さぞ大変だったことと思います。自分が子供を持った時、それがよくわかりました。両親に感謝してもしきれない学生生活でした。

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2021年2月 6日 (土)

学校の思い出-その4 予備校一橋学院(NO.1434)

 1955年(昭和30年)一橋大学の入学試験に失敗したため浪人生活となりました。そして同年7月末上京し、予備校の一橋学院に入学しました。

 一橋学院は1953年に高田馬場に開設された予備校で、主として一橋大学を目指す浪人が通っていました。まだ出来立ての予備校でした。創設者の金子泰蔵先生が英語の講座を担当していました。ネットで調べてみると、一橋学院はその後東京国際大学の傘下に入っています。

 当時の予備校は東大なら駿台予備校、私立大には代々木ゼミナールなどがありました。約10年後の予備校全盛時代の幕開けといったころだったのではないかと思います。

 下宿は西武池袋線の富士見台でした。高田馬場までは池袋で乗り換えて30数分の通学時間でした。この時は予備校と下宿を往復するだけの勉強のみの生活でしたが、勉強がつらいと感じたことはなく、ホームシックになることもありませんでした。同じ松山南高の同級生の竹田君と同じ部屋に下宿していたのと、近くに叔父一家が住んでいたので勉強に打ち込むことができました。

 予備校時代で一番印象に残っているのは、最初の模擬試験で1番になったことです。生徒の数は覚えていませんが、全校生徒一斉の模擬試験です。田舎から出てきてしかも学年の途中から入学した人間が、東京や全国から集まった浪人のなかで1番になったのは何かの間違いではないかと思いました。その後何度か模擬試験がありましたが、2度とそんな奇跡は起こりませんでした。

 大学入試はまず早稲田大学の政経学部に合格、本命の一橋大学経済学部も合格でした。努力が結果に結びつくことを知りました。その後の人生でもこれほど素直に喜べたのは、結婚した時と子供が生まれた時以外にはなかったような気がしています。

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