2024年6月16日 (日)

老人の独り言-4 好きだった3つの歌(NO.1822)

 歌についての思い出の続きです。

 いろいろな歌を楽しみましたが、その中で一番多く歌ったのが次の3曲です。

 まず1949年に発表された「長崎の鐘」です。

 サトウハチロー作詞、古関裕而作曲で、藤山一郎が歌いました。この歌にはモデルとなる人がいました。原爆症で亡くなった長崎大学の永井隆博士です。哀調のある詞とメロディが心に響きました。カラオケのシステムが出るまえからの愛唱歌でした。

 その次は「無法松の一生ー度胸千両入り」です。

 吉野夫二郎作詞、古賀政男作曲で、1958年に出た村田英雄のヒット曲です。度胸千両の部分で曲調が変わるのが何とも言えず好きでした。

 私が歌い始めてから愛友会の仲間も何人かが好んで歌いました。三味線だけの伴奏で舞台で歌った猛者もいました。

 3っつ目は1980年に発表された、谷村新司作詞作曲、本人が歌った「昴(すばる)」です。詞にも曲にも演歌とは違った格調の高さがありました。

 3曲とも歌うことの楽しみを味わいながら歌いました。

 カラオケを楽しむ機会がなくなったことが残念でなりません。

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2024年6月 3日 (月)

老人の独り言-3 東北を歌う(NO.1818)

 1975年(昭和50年)6月から1978年(昭和53年)3月まで東京から仙台に赴任しました。

 赴任した時の年齢は38歳、それまでの私の行動の南限は鹿児島市でしたが、北限は尾瀬の燧岳でした。東北については何も知らない状態でした。ところが仕事で東北6県をカバーすることになりました。

 そしてわずか2年9か月の間に東北の魅力に取りつかれました。それから東北をうたった歌に愛着を感じるようになったのです。

・津軽海峡冬景色

 赴任期間中の1977年、石川さゆりの歌った津軽海峡冬景色がヒットし始めました。阿久悠作詞・三木たかし作曲の哀愁のこもった演歌です。石川さゆりはこの1曲でスターになりました。

 この歌は仙台赴任時代を思い出しながら歌っています。竜飛崎にはこの歌の2番の歌詞を刻んだ歌碑がたっていて、ボタンを押すと石川さゆりの歌声が流れます。

・青葉城恋唄

 仙台から東京にに戻った年に仙台で知り合った大学の後輩から「青葉城恋唄」のシングルレコードが送られてきました。「青葉城恋唄」は仙台市の風景を取り入れた失恋の叙情詞です。

 さとう宗幸が作曲し、自分で歌っています。仙台ではやっていたものをレコードに吹き込み「杜の都」を全国版にしました。私も仙台を思いながら歌っています。

・風雪流れ旅

 北島三郎の大ヒット曲です。星野哲郎作詞・船村徹作曲・北島三郎唄のゴールデントリオは数多くヒットを生みました。盲目で津軽三味線を担いで東北や北海道をさすらった高橋竹山をモデルとした演歌です。

 私が民謡仲間の愛友会の打ち上げで歌ってから愛友会のみんなも歌うようになりました。

・北国の春

 いではく作詞・遠藤実作曲・千昌夫唄の大ヒット曲です。日本だけでなく、中国や台湾をはじめアジア各国でヒットしました。

 わたしは中国語講座の発表会で中国語の歌詞の「北国の春」をうたったことがありますが、中国語では望郷の歌がラブソングの歌詞に変わっていました。

・北の宿から

 阿久悠作詞・小林亜星作曲・都はるみ唄の東北をうたった代表的な演歌です。大変歌いやすい曲で、大好きな曲です。

・みだれ髪

 福島県の塩屋の岬を舞台にした演歌です。「風雪流れ旅」の星野哲郎と船村徹のコンビが美空ひばりにささげた曲です。美空ひばりが大病から復帰した直後に唄う曲として、船村徹が歌いやすい曲を作ろうとしたのですが、ひばりはそんな配慮は不要と伝えたそうです。みだれ髪は音域の広い曲となっています。

 塩屋岬にはこの曲の歌碑がたっていて、美空ひばりの歌声を聞くことができます。

・みちのくひとり旅

 山本譲二のヒット曲です。市場馨作詞・三島大輔作曲です。大変唄い甲斐のある演歌で、大声で歌うといい気分になります。

 なお津軽出身の吉幾三の演歌も好きですが、なぜか歌ったことがありません。理由は自分でもわかりません。

 

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2024年5月29日 (水)

老人の独り言-2 美空ひばりと八代亜紀(NO.1817)

 2024年5月29日は美空ひばりの生誕87年の記念日になります。

 美空ひばりは1937(昭和12年)年5月29日に生まれ、1989年(平成元年)6月24日に亡くなりました。52歳でした。

 私は同じ年の1月29日生まれですので、ひばりより4か月の年上ということになります。

 亡くなる約1年8か月前の1988年4月11日、東京ドームのこけら落としに美空ひばりの「不死鳥コンサート」が開催され、体調不良と脚の痛みに耐えながら39曲を歌いあげました。その後、最後の曲となった「川の流れのように」を収録、昭和から平成となった年に亡くなりました。

 「お祭りマンボ」「みだれ髪」「悲しい酒」「愛燦燦」「花笠道中」「柔」「真赤な太陽」「越後獅子の唄」などが私の愛唱歌です。「お祭りマンボ」はほかにあまり歌う人がいないので、私の十八番でした。

 「不死鳥コンサート」を収録したNHKのビデオは永久保存にしています。

 2023年12月30日に73歳で亡くなった八代亜紀の死はショックでした。あまりにも突然の死でした。八代亜紀は最後まで輝いた大好きな歌手でした。

 八代亜紀の「舟唄」「雨の慕情」「なみだ恋」はよくカラオケで歌いました。特に「舟唄」は、女性歌手の歌の中では一番多く歌ったと思います。

 2014年4月に中野サンプラザで行われた八代亜紀のコンサートが、追悼番組として民放で放送されました。そのビデオも永久保存としてとっています。

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2024年5月20日 (月)

老人の独り言-1 歌を楽しんだ人生(NO.1814)

 87年間の人生を振り返ると一番長く続いている楽しみは「お酒」と「歌」です。

 今は歌うことはなくなりテレビで歌番組を聞くだけになりました。

 2019年12月に足が痛くなって民謡の「愛友会」をやめました。タイミングを合わせたように、喉頭白板症にかかり声が出なくなりました。足の痛みがなくてもやめざるを得なかったのです。

 手術の結果声は出るようになりましたが、コロナの真っ最中です。集まりはなくなりました。民謡とカラオケは2019年の愛友会の忘年会で歌ったのが最後となりました。

 学生時代に宴会で歌ったのが始まりです。その後は、会社の宴会、高校の同窓会や大学の同窓会などの宴会で歌いました。そして本格的に歌うことを楽しんだのは退職後です。

 「愛友会」の仲間とは民謡大会の終わった後や忘年会や新年会でスナックを貸し切りでカラオケを楽しみました。柏の高齢者の会の「あけぼの会」やその他いろいろな同好会でもカラオケを楽しみました。

 歌ったのはいわゆる流行歌です。東海林太郎、田端義夫、藤山一郎、ディック・ミネ、近江敏郎などから始まって、三崎美智也、春日八郎、鶴田浩二、フランク永井などを経て、北島三郎、五木ひろしなどまでの歌手の歌です。女性歌手の歌も好きでした。 昭和歌謡が主で最近の演歌歌手の歌は知りません。

 学生時代からサラリーマンの現役時代、カラオケのシステムが出てくるまでは伴奏なしのアカペラでした。歌詞を覚えてなければ歌えないので、せいぜい2番までです。ところが「汽笛いっせい新橋を‥‥」の「鉄道唱歌」を長々と歌う人や、「ここはお国を何百里‥‥」の「戦友」を延々と歌う人がいて驚いたことがあります。会社の同僚でイタリアのカンツオーネの「オーソレミオ」や「フニクリフニクラ」などが得意な人もいました。

 平成の30年間は民謡と昭和の流行歌と演歌を十二分に楽しんだと言えます。

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2024年5月16日 (木)

老人の独り言-0 新しいシリーズを始める(NO.1813) 

 いま「あの時あの場所この1枚」とタイトルで、過去の出来事を1枚の写真をそえて振り返るシリーズを書いています。

 それと並行して「老人の独り言」シリーズを書こうと思います。身の回りのことや日頃感じたことや気の付いたなどを、私の勝手な考えや意見を交えて書くつもりです。

 歩くのがつらい脊椎間狭窄症という持病があるため、旅行はもとより都内への遠出や足を使っての散歩もできなくなりました。外出はバスでの診療所通いと自転車を使っての買い物くらいです。飲み会のお誘いはすべて断り、友人とのお付き合いもほとんどなくなりました。

 情報源は読書と新聞とテレビ、パソコンとスマホに限られています。したがって「老人の独り言」も限られた情報源と妄想、空想などになるのではないかと恐れています。「老人からの提言」「老人の知恵」などとするのは恐れ多く、それほどの力もありません。「老人の繰り言」「老人の愚痴」では情けなく、書く意欲がなくなります。

 「老人のつぶやき」でもよかったのですが、「老人の独り言」を選びました。独断と偏見も出てくると思いますが、87歳の老人に免じてお許しください。

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2024年3月 6日 (水)

あの時あの場所この1枚-13 凍結した見事な摩周湖(NO.1792)

 16年前の2008年2月末ツアーで冬の北海道旅行をしました。

 ツアーの目玉は網走近辺での流氷見物でしたが、その年は予定通り流氷が岸辺までやってきていませんでした。その場合は船で流氷の場所まで行って見物することになっていましたが、強風のため出航できず、代わりの網走刑務所見物も強風で取りやめとなりました。

 伊豆のカワヅザクラ見物もつぼみ見物で終わったこともあります。季節をあてにしたツアーはあてにならないことがありますね。

 ところが素晴らしい景色を見せてくれたのが摩周湖です。なかなか全面結氷が見られるの時期に合わないとのことでしたが見事に凍っていました。裏側から見た摩周湖になります。

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 前回来たときは表側で、看板通り霧の摩周湖でしたが、今回は妻ともども見事な景色を堪能できました。

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2024年1月17日 (水)

あの時あの場所この1枚-6 神戸ルミナリエ(NO.1775)

 29年前の今日、1995年1月17日午前5時46分阪神淡路大震災が起きました。神戸を中心として6434名の死亡者が出た大震災でした。

 今は1月1日に起きた能登半島地震で被災した方々の多くは避難所などで寒さに耐えながら苦しい日々を送っています。亡くなられた方には謹んでお悔やみ申し上げ、被災された方には心からお見舞い申し上げます。

 阪神淡路大震災の追悼行事では震災の犠牲者を悼むとともに、能登半島地震の被災地をつなぐイベントがおこなわれています。

 10年前の2014年12月11日、神戸ルミナリエを見に行きました。ルミナリエは1995年12月から阪神淡路大震災の犠牲者の追悼と神戸の復興を願うためのイルミネーションが夜の神戸の街を飾りました。

 妻とツアーに参加して見事な光の祭典を楽しみました。

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 ルミナリエはコロナのため2020年から中止されていましたが、今年1月に復活し、1月19日から28日まで開催されています。

 阪神淡路大震災から力強く復興したように、能登半島地震からも一刻も早く復興が実現するようお祈りしています。

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2024年1月13日 (土)

あの時あの場所この1枚-5 台湾旅行に行ったが台北市内の観光地を覚えていない(NO.1774)

 今日2024年1月13日は台湾総統の選挙が行われます。民進党の候補者が勝つか、国民党の候補者が選ばれるか悩ましいところです。

 今から13年前の2001年4月16日から18日まで台湾に短い観光旅行に行きました。もう少しゆったりした旅行にしたかったのですが、申し込んだツアーは人数不足で催行中止となり、その旅行会社では2泊3日のコースしかありませんでした。ところがこの短い日程が幸いしました。

 この旅行中に突然排尿がストップするという事態が発生したのです。2日目の夜までは何事もなく楽しい旅行を続けていました。2日目の夜台北のホテルで同行していた牛久のウナギ屋の店主の佐藤さんとビールをしこたま飲みました。その夜中から尿の出が悪くなり、翌日の台北の市内観光の途中から完全にストップしてしまいました。

 観光どころではありません。苦しさのあまり観光スポットに立ち寄るたびに、まずトイレに駆け込みますが小水は全く出ません。豪華な昼食もほとんど残してしまいました。

 それでも何枚か写真は撮っていました。その1枚です。

 記憶にありませんが市内の様子を撮ったもののようです。

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 帰りの飛行機ではかわいいフライトアテンダントが心配そうに声をかけてくれましたが、飲み物も機内食もすべて断りました。

 何とか我孫子までたどり着けたのは佐藤さんのおかげでした。

 翌日病院で尿を取ってもらったら1600CCも溜まっていました。前立腺肥大で排尿が止まったのです。先生から「これ以上溜まったら膀胱が破裂すとこだったぞ」と言われました。

 以前から小水の出が悪く、おかしいなと思いながらもそのままにしていました。それが台湾旅行中に症状が一気に悪化したのでした。運が悪かった思わざるを得ませんでした。早速入院して手術となりました。

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2024年1月 2日 (火)

あの時あの場所この1枚-4 手賀大橋からの初日の出(NO.1771)

 あけましておめでとうございます。2024年の元旦も好天で穏やかな1日でした。

 私は2008年から2019年まで、元旦の朝は我孫子市の手賀大橋から初日の出を迎えています。ただ2012年は曇り空で初日の出が見られなかったため、2015年は気分が乗らなかったため、出かけませんでした。それ以外の10回は素晴らしい初日の出を拝むことが出しました。

 最初のころは日の出直前に行っても大橋の上から初日の出が見られたのですが、次第に手賀大橋からの初日の出見物が人気となり、橋の上から見るには1時間近く前に橋の上に着かなければいい写真が取れなくなりました。

 市や愛好者の団体が、獅子舞や太鼓のショーを見せたり、無料の豚汁を配ったり、有料の飲食の屋台などを出すようになってきたことも人を呼んだのです。2017年には「初日の出は手賀大橋」との看板が橋のたもとに立てられていました。

 そのため最後の数年は橋の下から見ることになりました。2013年と2014年は孫娘とその母親や父親と出かけています。2016年は、東に初日の出、西に満月に近い月が出ているのを見ることができました。

 この1枚は2019年に橋の下から見た私の最後の初日の出です。

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 2021年からはコロナで中止、2024年はコロナからは解放されましたが、私の足腰が手賀大橋まで行くのは無理と教えてくれたので、手賀大橋からの初日の出見物はなくなりました。

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2023年12月22日 (金)

あの時あの場所この1枚-3 30年前の12月に世界自然遺産となった屋久島(NO.1768)

 今から6年前の2017年4月に妻と2人で屋久島ツアーに参加しました。

 日本で初めて世界自然遺産になったのは屋久島と白神山地です。30年前の1993年12月11日に登録されました。

 屋久島はは樹齢数千年を超えるスギなどの天然林があり、海岸部から山頂部に及ぶ自然植生の垂直分布が連続的にみられるということから指定されたのです。島の中央部の宮之浦岳を含む屋久杉自然林や西部林道付近など島の面積の約21%にあたる地域が自然遺産となっています。

 ツアーは傘寿のお祝いに妻からのプレゼントの旅行でした。

 屋久島は円形に近い5角形をしており、淡路島よりやや小さい全国で7番目の大きさの島です。人が住んでいるのは主に海岸線に沿った場所で、そこを一周する道路が通っています。

 私達はJR屋久島ホテルに泊まり2泊3日で屋久島をジャンボタクシーで一周しながら観光地を回りました。島で一番有名な縄文杉の観光は歩いて数時間かかるため今回のツアーには含まれていませんでした。もっと若ければ縄文杉まで行ったのですが、今回は楽なツアーを選びました。

 いろいろな滝や森やスギなどを見て回りました。「白谷雲水峡」や「ヤクスギランド」などで屋久島の自然を堪能しました。

 縄文杉の次に古い杉がこの1枚の「紀元杉」です。樹齢3000年、車の通れる道路の近くに立っていました。

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 「紀元杉」のある場所が自然遺産の場所に含まれいるかどうかは見落としました。

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