2021年9月18日 (土)

山の思い出-その3 北アルプス(NO.1510)

 日本アルプスの登山は20歳代に集中しています。その中でも北アルプスが強烈な思い出に残っています。私の山登りは雪山や本格的な岩登りではありませんが、短い間に結構高い山に登りました。

 1960年代は今と違って山に行く人は若い世代が中心でした。高齢者の登山姿はあまり見かけませんでした。山小屋は設備が乏しく食事も簡素、場所によっては今の避難小屋のように食料や寝袋持参の必要がありました。登山の装備もお粗末で、ザックやテントは木綿の重い生地が主でした。調理用具もガスコンロはなく、ガソリンか灯油のコンロでした。ポールやストックもありませんでした。スマホや携帯もなかったので、道に迷ったり遭難すると連絡方法はありませんでした。

 北アルプスに初めて登ったのは、三井生命入社2年目の1961年9月初旬でした。新宿駅を夜行列車で出発、松本電鉄に乗り継ぎ、島々からバスで上高地に入りました。メンバーは11名、上高地からは涸沢に入り、北穂高岳、奥穂高岳、前穂高岳を登って上高地に下りました。上高地の大正池は当時は枯れ木が数多く池の中に立っていました。初めてのアルプス縦走に怖さはなく、ワクワクしながら歩きました。

 2度目は翌年の1962年8月下旬、烏帽子岳に登り裏銀座コースを経て雲ノ平に行き、槍ヶ岳を目指しました。ところが雲ノ平で大雨に遭遇したため、槍ヶ岳はあきらめ、雲ノ平で2泊した後伊藤新道を通って湯俣温泉に下りざるを得ませんでした。雲ノ平は黒部川の源流域にあり、北アルプスの最深部で最後の秘境、雲上の楽園と言われています。

 3度目は1964年8月、立山と剣岳に登りました。富山市から電車、ケーブル、バスを乗り継ぎ、室堂に入りました。そこから立山と剣岳を登りました。立山は登りやすい山ですが、剣岳はカニノタテバイと呼ばれる岩登りの難所があります。その時のメンバーはハイキング部と言っても1人山のベテランがいましたが、他は素人集団です。よく登ったものです。山小屋からは黒部ダムまで下り、開通したばかりの関電トンネルトロリーバスで扇沢に出て帰途につきました。

 立山黒部アルペンルートが完成したのは1972年です。当時は黒部ダムまでは室堂側からは徒歩で降りるより方法がありませんでした。まだ観光客は来れなかったので、雄大で静かな黒部ダムをゆっくり見物できました。

 4度目はIBMに入社した後です。三井生命のハイキング部で一緒だったY君と2人で後立山縦走にチャレンジしました。白馬岳から鹿島槍ケ岳まで縦走する予定でした。ところが白馬岳に登った翌日、大雨に遭いました。仕方がないので鑓ヶ岳から鑓温泉小屋に下りました。雨の中の縦走は遭難の危険があります。

 そこで1泊した後、休暇を取っていたので、大糸線経由で直江津から佐渡島の小木に行きました。山から海に代わったのです。佐渡を観光して帰宅しました。若かったからこんなことができたのかもしれません。

 5度目はIBMの友人2人と英会話教室のアメリカ人の先生との4人で北アルプスの表銀座コースを縦走しました。北アルプスの女王と呼ばれる燕岳からあこがれの槍ヶ岳までの縦走です。好天に恵まれのんびり楽しみながら歩きました。槍ヶ岳の槍の穂の岩登りもみんな問題なくこなしました。帰りは槍沢を下って上高地に出ました。

 その時気の毒だったのはアメリカ人の先生が山小屋が苦手で、トイレと雑魚寝に苦労していました。たしかに当時の山小屋は快適とは言えませんでした。水洗トイレなどありませんでした。

 北アルプスの登山はこれで終わりましたが、その後観光で、黒部峡谷トロッコ電車、黒部アルペンルート、白馬山麓の栂池自然園、五竜アルプス山野草園、新穂高ロープウェイ、2度の上高地などを訪れています。北アルプスは山登りの面白さを教えてくれた思い出です。

 

 

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2021年9月 9日 (木)

山の思い出-その2 尾瀬(NO.1508)

 私が山に熱中したのは1960年(昭和35年)、大学を卒業して三井生命に入社し、ハイキング部に入ってからです。1964年9月には三井生命を退社していますので約4年間の間は毎月のように山に行っていました。

 その後はほとんど山には行かなくなったのですが、尾瀬はほかのところに比べて一番好きだったので、歳を重ねてからも行きました。合計5回になりました。尾瀬を代表する燧ヶ岳と至仏山には2回ずつ登っています。

 最初に尾瀬を訪れたのは1961年11月でした。尾瀬ヶ原は草紅葉が終わりかけ、秋色濃いい景色となっていました。我々は13人のパーティでしたが、人影まばらで静かな尾瀬を楽しむことができました。

 2度目は写真は残っていますが記録がないのではっきりせず、その翌年か2年後かです。その時はバスを借り切り、会社のそばから出発したのを覚えています。人数は47名で全員三井生命の社員、8割は若い女性でした。その後妻となる女性も一緒でした。

 当時は尾瀬のハイキングがブームとなっており、社内で希望者を募ったところ、あという間にバスの定員いっぱいになりました。ブームとは言っても47名の大集団は目立ちました。7月で尾瀬ハイキングには絶好の季節、ニッコウキスゲの花が満開でした。いくつかのグループに分かれて、燧ケ岳登山や尾瀬ヶ原散策を楽しみました。

 当時はまだ尾瀬の木道は整備が不十分で、自然を守るルールも徹底せず、尾瀬が一番荒れていたときだったと思います。木道をすれ違う時は、どちらかが木道を降りて草原を歩かなければなりませんでした。尾瀬沼にはエンジン付きの渡し船があったくらいです。ごみの持ち帰りが始まったのは1970年代になってからです。私たち47名も尾瀬の自然を荒れさせるのに一役買ったかもしれません。

 それから約30年後の1991年と1992年に旅行会社の尾瀬ツアーに参加しました。バスと宿泊だけ予約して、あとは自由行動のツアーです。一人で参加し、尾瀬ヶ原散策、三条の滝見物や登山を楽しみました。

 1992年に至仏山に登ったときは、早朝だったため全く人に会わず、山頂を30分以上独占したのを覚えています。

 5度目は2003年の66歳のときに、東京都中推協の仲間15名で温泉と尾瀬ヶ原を楽しみました。6月で水芭蕉が咲いていました。マイクロバスで行き、尾瀬に入る前の岩鞍温泉で一杯やるのが主な目的だったようなハイキングでした。

 数年前に妻ともう一度尾瀬に行こうかと話し合ったことがありますが、もう体がついていかないだろうと考えやめました。

 尾瀬の風景は今でも目に焼き付いています。

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2021年9月 2日 (木)

山の思い出-その1 石鎚山と富士山(1505)

 山の思い出には、登山だけでなく、キャンプ、高原散策、スキー、観光旅行などいっぱいありますが、いくつかにポイントを絞ってまとめたいと思います。

 まずは中学生で登った石鎚山と大学生で登った富士山です。

 初めて山らしい山に登ったのが、中学2年生か3年生の時の石鎚山です。家族づきあいをしていた父の友人とその娘さんとの4人で登りました。今から約70年前のことです。

 石鎚山は標高1982メートルの西日本一の高峰、百名山としても人気のある山となっていますが、当時の私は愛媛県で一番高い山で、鎖場のある上りにくい山くらいの知識しかありませんでした。深田久弥が日本百名山を選んだのは1961年ですから、私が登ったとき(1950年ころ)は百名山ではありませんでした。

 その時の写真が2枚だけ残っていますが、普通の格好で麦わら帽子に運動靴、肩掛けのカバンに杖といった格好で、ザックも持っていません。近くの山に行くといった感じです。

 途中の成就社に泊まったのを覚えています。3っつの鎖場がありました。そのあとの登山でいくつもの鎖を利用しましたが、石鎚山の鎖は違っていて、たしか太い鎖で足先がかかるようにできていたと記憶しています。

 弥山(みせん)と言われている山頂に登りました。最高峰の天狗岳は当時は危険なため、中学生には登らせなかったようでした。下りは有名な面河渓谷への道を下りました。

 富士山は友人と2人で登りました。山梨県側の5合目の吉田口から登り、須走を通って御殿場口に下りました。8合目の山小屋に泊まりましたが、寝返りが難しいくらいのものすごい混雑でした。当時から富士登山は人気がありました。富士山頂から見たご来光が素晴らしかったのを覚えています。でも山に登るという実感はあまりなかったように思います。

 その後いろいろな山から富士山を見ましたが、富士山は登るより眺める山だと感じています。

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2021年8月28日 (土)

趣味、嗜好の思い出-その2 体を動かさないもの(NO.1504)

 今回は体を動かさないものの思い出です。変な言葉ですが、体を動かす趣味、例えばスポーツなどに当てはまらないその他一般の趣味や嗜好のことです。

 まず大人になってから今まで、約65年間一貫して好きなものはお酒です。学生時代や社会人の独身時代は別ですが、結婚してからはほぼ毎日お酒を嗜んできました。

 学生時代や独身時代は毎日飲むことはありませんでしたが、飲むときは飲みすぎることが多く、何度か失敗を繰り返しました。結婚してからも家内の迷惑をかけることがあり申し訳ないと思っていますが、夜会社から帰って飲む晩酌が毎日の楽しみでした。

 若い時はトリスなどの安いウィスキー、結婚してからはビール、高齢になってからは、ビール、日本酒、焼酎、ワイン、紹興酒、泡盛、ウィスキー、梅酒、レモンチェッロなどいろいろ味わっています。コロナや、脚の痛みなどであまり外出できなくなった今は、なおさら晩酌が最大の楽しみになっています。

 もう一つ生涯の友は読書です。読書の対象は年齢とともに変わっています。これについては別の機会に書きましょう。

 映画も大好きです。好きなのは小学生時代から今まで変わりませんが、現役時代は時間がなかったせいもありますが映画から遠ざかっていました。今はテレビの映画を録画して見ています。ただ、最近の映画は話題作を除いてあまり見ません。どちらかというと昔の映画を楽しんでいます。

 賭け事は学生時代にマージャン、仙台赴任時にパチンコ、アコム時代に競馬を少しやりましたが、一時的なものではまり込むことはありませんでした。パチンコは通勤時の帰りのバス停の前がパチンコ店だったため、競馬は通勤で中山競馬場の駅を通るのと部長に感化されたためでした。負けることが多く、自分にはばく才がないとつくづく感じさせられました。

 定年後多くの人が始める俳句と写真にも関心はありませんでした。私のふるさと伊予の松山は俳句の聖地です。多くの人が嗜んでいます。弟もやっています。私は俳句の代りに文章を書く方に行きました。そして定年後始めたのは情報発信です。これについても機会を改めて書きます。

 趣味としての写真は始めませんでしたが、デジカメを買ったのは早かったと思います。最初に買ったデジカメはプロッピーディスクに記憶するデジカメでした。画質が悪く容量も少なかったのですぐ市場から消えました。私のデジカメは旅行や日常の記録のためで芸術作品を取るためではありません。その後何台か新しくしましたが、常に小さくて軽くて安価な携帯カメラでした。

 パソコン、パソコン通信、無線LANなども割と早く始めました。最初はIBM製のパソコンでしたが、途中からデルになりました。今のは7台目くらいです。パソコン通信のため専用の電話回線を引いたりしましたが、これも間もなくインターネットに替わったので回線は売りました。

 ただスマホを使い始めたのは家族9人の中で最も遅くなりました。今でもスマホ入力は苦手で、パソコンのほうを愛用しています。平成31年間にわたって熱中したのは民謡です。脚と喉がおかしくなって、1昨年12月にやめましたが、愛友会で民謡を学びました。民謡の仲間とカラオケに行くのも楽しみでした。これも別の機会に書きましょう。

 コロナで自粛の毎日、楽しみは、家内の手料理とお酒、テレビ、パソコン、読書となっています。

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2021年8月21日 (土)

趣味、嗜好の思い出-その1 身体を動かすもの(NO.1502)

 また思い出シリーズに戻ります。今回は体を使う趣味、嗜好です。

 はっきりした年齢は覚えていませんが最初に熱中したのは水泳です。

 終戦は小学校3年のときですから、海で泳ぎ始めたのはそれ以後だと思います。私の家は瀬戸内海に面した愛媛県伊予市です。そのころは郡中町でした。海岸は家から歩いて数分で何もない砂浜でした。

 当時は海水パンツなどはなく、家から6尺ふんどしを絞めて海に通っていました。6月末ころから9月半ばまでは泳ぐことができました。近所の仲間や弟が一緒でした。誰かに教わったわけではありませんが、犬かきから始まって小学生の間に、クロール、平泳ぎ、背泳は泳げるようになりました。仲間の中では水泳は得意な方でした。バタフライという泳法は当時はありませんでした。大人になって試みましたが最後まで泳ぐことはできませんでした。

 そのうち砂浜が港に変わったので、一文字という防波堤でまで泳いで行ってそこで泳いでいました。飛び込みができるのが楽しみでした。高校生ころになると防波堤で泳ぐのはやめ、港から2キロほど先にあった海水浴場まで泳いで往復し、そこで泳いでいました。

 水泳はその後やめました。今は大人になって始める人も多いようですが、私は逆になりました。子供とたまに海水浴場に行くくらいでした。三井生命で部門対抗の水泳大会があり駆り出されましたが、プールで泳ぐのが初めてだったため、コースロープに沿った泳ぎやターンがうまくできず惨敗したのを覚えています。

 水泳と同時に釣りもよくやりました。防波堤から釣ったり、伝馬船を借りて小鯛やメゴチなどを釣りました。伝馬船漕ぎも得意でした。

 釣りに凝ったのはその後時間をおいて2回あります。IBMの仙台時代、同僚と女川に船釣りに通いました。カレイとアイナメ(現地ではネウ)がねらいでした。我孫子に戻ってからは手賀沼のコイ釣と山中湖でのルアー釣りでした。

 水泳の後はまったのが登山です。三井生命でハイキングクラブに入り毎月のように山登りをしていました。ハイキング部は冬はスキー部に変わりスキーをやりました。登山については別の機会を設けて詳しく書きます。

 IBMに入ってからゴルフを覚えました。ただゴルフはそれほど好きでなくうまくもなりませんでした。その後もお付き合いでほそぼそ続けていましたが、50歳のときバイクで転倒し鎖骨を折るけがをしたのをきっかけにやめました。

 45歳でテニスを始め、テニスに熱中しました。テニススクールの仲間と合宿したり、IBMの研修の仲間とテニスのため忍野村で泊まり込みをしたりしました。ただこれもバイク事故でやめざるを得ませんでした。

 その次に熱中したのがウォーキングです。肩や腕がうまく使えないなら足があると思ったのです。これも別の機会に詳しく書きます。

 そして最後に凝ったのがグラウンドゴルフです。72歳のとき友人の勧めでグラウンドゴルフのサークルに入りました。75歳で体調を壊すまで毎週のように楽しみました。高齢者にとっては体に優しいスポーツです。女性に負けるときも多かったと思います。

 人生の後半を一番輝かせてくれたのは何といっても旅行です。海外旅行、国内旅行、日帰りバス旅行などいろいろ楽しみました。妻と行った旅行が大半です。旅行についても別の機会で詳しく書くつもりです。

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2021年8月15日 (日)

手賀沼通信ブログが1500回になった(NO.1500)

 2019年8月15日この手賀沼通信ブログが1500回目を迎えました。

 このブログは2006年(平成18年)8月4日に書き始めました。15年前です。平均すると1年に100回書いたことになります。月平均約8.3回です。コロナは広がり始めてから多くなり月10回位くらい書いています。

 ブログへのアクセスの数は1日平均43.1となっています。ピーク時は60回くらいでしたが、だんだん減ってきています。

 手賀沼通信ブログを書き始めた動機は、1998年(平成10年)に出し始めた月1回の手賀沼通信に書ききれないことを、タイミングよく書くためでした。ブログは好きな時に好きなことを好きな長さで手軽に書くことができます。プロバイダーはniftyココログの無料バージョンを利用しているのでお金もかかりません。借りている2000メガバイトはまだ53%しか使っていません。年齢を考えると使い切ることはないでしょう。

 ブログの内容は年齢とともに変わってきました。書き始めたころは69歳で行動半径も広く話題も豊富でした。海外旅行や国内旅行は必ずブログで取り上げました。今は旅行ができなくなり、身の回りのことしか書けなくなりました。趣味も少なくなりました。代わりに増えたのが病気や健康に関することです。おそらく読む方にとっては面白くなくなったと思います。

 後どれだけ続けることができるかわかりませんが、書ける間は頑張るつもりです。

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2021年7月16日 (金)

学校の思い出-その11 ふれあい塾あびこ(NO.1490)

 学校の思い出の最後です。現在も続いている唯一の学習になります。

 2007年(平成19年)5月10日、友人に誘われてふれあい塾あびこの講座に参加しました。山岳写真家の鈴木菊雄氏の「利根川の山からヒマラヤへ」という講座でした。

 それから今日までふれあい塾あびこの講座に14年間、382回参加しています。NPO法人ふれあい塾あびこが主催する講座です。この講座は2000年9月に開塾され、今までに1219回開かれています。

 コロナウィルスが拡大するまでは、月6~7回開催されておりましたが、現在は月3~4回になっています。場所はいずれも我孫子市のアビスタ、けやきプラザ、市民ホールなどで、参加費は1回につき700円(コロナ以前)、1000円(コロナ以後)で、自分の好きな講座だけ申し込めるようになっています。約2時間の講座です。

 この講座の特徴は、内容が、世界情勢、世界や日本の歴史、経済、文学、絵画、音楽、旅行、登山、自然、老舗、落語、演芸など多種多様で、プロの演奏や上演なども楽しめます。真理ヨシコさんの歌のときには一緒に唄うのが楽しみでした。

 講師も素晴らしい方ばかりで、よくこんな人を呼べたと驚くような方が登場することもありました。

 参加するたびパソコンに講演のタイトルと講師名を記入していますが、この項を書くにあたり見直しました。講師やふれあい塾ののスタッフの中には亡くなった方もおられ、14年間の歴史を感じました。

 最近は足が弱ったのとコロナのせいで、出かけるのがしんどくなったため、我孫子で行われるふれあい塾が一番の楽しみとなっています。参加できる限り続けたいと思っています。

 そしてふれあい塾の方々にはあらためて深く感謝を申しあげます。

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2021年7月 7日 (水)

学校の思い出-その10 中国語講座(NO.1485)

 2004年(平成16年)4月から2009年(平成21年)4月まで5年間アビスタでの中国語教室中級に通いました。67歳から72歳のころです。

 月3回、火曜日の12時10分から約2時間、先生は台湾出身で日本人と結婚している中年の女性でした。楽しい先生でした。

 それまでに中国に2度行き、中国語は面白いと感じていました。そしてNHKラジオ講座で中国語の初級を何年か聴講していました。あびこ広報で中国語講座の受講生を募集していたのでそれに応募したのです。

 その教室はちょっと変わっていました。中国語の発音は通常ピンインを使って習うのですが、ピンインではなく昔からある(?)特殊な発音記号を使うのです。先生はピアノとエレクトーンの達人だったので、エレクトーンのある部屋が取れた時は中国語の歌を教えてくれました。例えば「北国の春」を中国語で歌うのです。

 生徒数は多い年で20名くらい、少ない時は10名あまりでした。ピンインを使わないので途中でやめる人もいました。大変家庭的な雰囲気で、5年間同じ顔触れの人が多くいました。一度台湾への旅行がありましたが、私は都合で参加できませんでした。

 2009年4月には発表会が行われました。先生が担当している他の教室との合同で、自己紹介を兼ねた中国語のスピーチ、中国語劇、中国語の歌の独唱などでした。

 それを最後に教室をやめました。友人から誘われていたグラウンドゴルフの会が同じ火曜日にあるためでした。

 5年間の教室は楽しかったですが、あまり上達した手ごたえはありませんでした。今は中国語の世界から外れたため、すっかり忘れた感じです。言葉は使わないと忘れるということを実感しています。

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2021年7月 2日 (金)

学校の思い出-その9 男の料理教室と市民カレッジ(NO.1483)

 1998年(平成10年)3月にアコムを退職した後、4月に我孫子市が主催する男性料理教室に申し込みました。61歳のときです。

 それまで料理は食べるもので、自分で作るものではないと考えていました。ところが退職して時間ができるので作ってみようと思うようになりました。退職後の生活を豊かなものにするための挑戦の1つでした。

 たまたまその時にいただいた資料が残っていました。その後時々いただいたメニューを基にときどき料理を作ったので残っていたのだろうと思います。

 希望者が定員を超えたため抽選をしています。なんとか合格し5月9日から11月21日まで12回の実習がありました。会場は昔の中央公民館の調理室、講師は私より15歳くらい年上の優しい女性でした。抽選に合格したのは30名、5名ずつ6班に分かれてそれぞれ1つの料理に取り組みました。

 先生からは手書きの謄写版刷りのメニューをいただきました。1回目は豚汁、6回目はナスの中華風サラダ、12回目はパエリヤなどとなっています。5人で役目を分担して料理を作るのが大変楽しかったのを覚えています。毎回終わった後、自分たちの作品を味わいました。

 それからときどき私が厨房に立つようになりました。教室で習わなかった料理も、料理本を見ながら作るようになりました。妻が父親の看護で忙しくなったときは週に何度か作りました。

 でも今は料理はすべて妻が作ってくれます。残された人生、やはりおいしいものを食べて過ごしたいためです。しょせんアマはプロには太刀打ちできないと感じています。

 料理教室から11年後の2009年(平成21年)にはやはり我孫子市で主催する市民カレッジを受講しました。「我孫子を知る」講座でした。72歳のころです。

 5月14日から12月10日までの12回、場所は中央公民館の後に新築された生涯学習センター「アビスタ」でした。36名が参加、4班の世話役になりました。

 内容は「我孫子の歴史」、「我孫子に住んだ文化人」、「白樺派の人たち」と白樺文学館訪問など我孫子に関すことで、最後は「我孫子の市民活動」でした。

 我孫子に住んでいながら知らないことが多く、新しい発見がありました。

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2021年6月27日 (日)

学校の思い出-その8 社会教育ゼミナール(NO.1482)

 1998年3月にアコムを退職してサラリーマン生活を退いた後、住処のある我孫子市とかかわりたいという気持ちになりました。それまでは会社と家との往復の毎日で、我孫子市はただ住んでいるだけでした。

 そこで「広報あびこ」に出ていた2つの教室に申し込みました。社会教育ゼミナールと男性料理教室です。料理教室については次の機会に触れたいと思います。1998年(平成10年)4月のことでした。

 社会教育ゼミナールは、我孫子市が高齢者福祉について学んでもらう目的のために、1年単位で毎年募集している教室です。月2回我孫子市の中央公民館で開かれました。中央公民館は今は新築されて生涯学習センター、通称「アビスタ」になっています。元の公民館は空調施設のない古い建物でした。

 クラスのメンバーは15人で前年から引き続いての人もいました。

 最初は高齢者福祉について基礎的な知識の講座が続きました。ちょうど前年の平成9年12月に日本で初めて介護保険法が成立し、平成12年4月1日の施行を目指すタイミングでした。その介護保険法の学習も大きなテーマとなりました。我孫子市の特別養護老人ホームの和楽園や久遠苑などの見学もありました。パネルディスカッションを聞いたり、年に一度の社会教育ゼミナールのイベント「老への対応を探る」への参加もありました。

 2年目からは自分たちで学習の中身を企画し、実施することが増えました。役員も務めました。

 1年単位でしたが、社会教育ゼミナールには2002年(平成14年)3月まで4年間在籍しました。務めは果たせたと感じ、あとを後任に託しました。61歳から65歳までです。我孫子市とのつながりも少しはできたと思いました。

 そしてその年の4月からの千葉県生涯大学入学につながりました。学校の思い出ではその7とその8が逆になってしまいました。

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