2022年8月 8日 (月)

思い出シリーズを書き終わって(NO.1623)

 2022年8月6日、思い出シリーズを書き終わりました。

 2020年10月26日に書き始めたので、1年9か月10日かかりました。

 書き始めたきっかけは、大学受験のため1か月ほど住んでいた横浜のあまりの変わりように、今まで住んだところの思い出を書いてみようと思ったからです。かなり住んだ場所を変えています。

 書き進めていくうち、学校と職場の思い出も書いてみようと考えました。さらに80代半ばの年齢なので、いっそのこと今まで生きてきた思い出をすべてまとめてみたら自分史に近いものができるのではないか、そのチャンスは今しかないとの考えに至ったのです。書いている間に何人かの友人や知人の訃報を聞いたこともありました。

 ブログのような軽いものに、十分な準備をしないで書くのはちょっとまずいかなという感じもしましたが、「他人に誇れるような立派な人生ではなかった」と割り切って書いたのです。

 思い出をテーマごとに細かく区切ってまとめました。ブログに書くにはこのスタイルが書きやすいと思ったからです。

・住んだ場所 13回

・学校(講座、教室などを含む) 11回

・職場 10回

・趣味・嗜好 2回

・山 7回

・ウォーキング 2回

・海外旅行 7回

・国内旅行 10回

・読書 4回

・民謡 2回

・いろいろな会 3回

・思いでぼろぼろ 4回

・情報発信 3回

にまとめました。

 書けなかったことは、家族や友人や知人や恩師など、今までお世話になった方との交流です。ご迷惑になることを恐れて書ききれませんでした。人のお名前を入れるときは仮名が多く、実名はごく一部の方に限っています。

 写真は1枚も使っていません。各回1枚ごとの写真を入れたかったのですが、もともと昔の写真はなく、あったものも終活でほとんど破棄、破棄しなかった写真は顔が写ったものばかりです。デジカメで撮った写真は残っていますが、使えるのが最近に限られるため使いませんでした。写真がない文章は味わいが薄く読みにくかったことでしょう。

 思い出シリーズを書き終えて、一つの大きな終活を終えたと感じています。

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2022年8月 6日 (土)

情報発信の思い出-その3 手賀沼通信ブログ(NO.1622)

 2006年(平成18年)8月4日手賀沼通信ブログを書き始めました。

 情報発信の思い出-その2にも書きましたが、1998年に一人新聞の手賀沼通信を出し始めました。それが8年後の2006年7月に100号を迎えたのを機にブログを書いてみようと思い立ったのです。

 手賀沼通信は月1回の発行です。タイムリーに記事を書けないことがあります。また紙面がA4版の4ページだてです。ページに制限があるため十分意を尽くして書ききれないことがあります。また逆に4ページを埋めるのがしんどい時もありました。

 そこで好きな時に好きな長さで書けるブログが気に入ったのです。

 情報発信の思い出-その1でホームページのことを書きましたが、その際に使うホームページビルダーにブログ作成の機能があり、そこに利用可能なプロバイダーが載っていました。そこで以前利用していたプロバイダーのNIFTYを選びました。なじみがあったのと、大人の雰囲気が感じられたからです。他のプロバイダーは若者向きという感じでした。無料で2000MBまで利用ができ、ホームページビルダーに頼らず直接書き込をすることにしました。

 使い始めてみると写真のサイズが小さくしか載せられず、しかもぼやけることがわかりました。写真をクリックすると鮮明で大きな写真が見られるのですが、読者がいちいち写真をクリックする手間が必要でした。写真を載せたときは「写真はクリックすると大きくきれいに見られます」というコメントを入れざるを得ませんでした。この欠点は2010年2月にやっと改良されてまともになりました。

 ただ気に食わないことが1つあります。いつからそうなったか定かではないのですが、ブログに入る広告がアダルトなものがほとんどになり、ブログにそぐわないのです。もしかしたらNIFTYの管理者が変わったのかもしれません。

 ブログは現在16年間で1622回、月平均で8.4回くらい書いたことになります。アクセス数の総計は24万9600回、1日平均42.8回となっています。有名人のブログや生活に有益なブログには比べものになりませんが、それでも毎日40人に近い方が見てくださっていると思うと感激です。

 16年間には内容が随分変わりました。一番多かった旅行やウォーキングやバスハイクなどの記事がなくなりました。仲間と一緒に楽しんだ記事もなくなりました。以前は好奇心が旺盛だったため、身の回りの些細なことも書いていました。いろいろなところに出かけて、自然の美しさや季節の移り変わりの写真なども載せました。我孫子市の小さな事件も書きました。

 ところがコロナの世になって以来、コロナの記事が多くなりました。同時に足も弱ってきて出かけられなくなり、出かけた先の記事もなくなりました。寂しく思っています。

 ここまで思い出シリーズをいろいろなテーマで取り上げ思い出をつづってきましたが、これで終わりにしたいと思います。お付き合いありがとうございました。お読みくださった方に感謝感謝です。

 

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2022年8月 4日 (木)

情報発信の思い出-その2 手賀沼通信(NO.1621)

 1998年(平成10年)4月、「手賀沼通信」を創刊、その第1号を、電子メールで10数名、郵送で60数名の方にお送りしました。

 第1号に「手賀沼通信事始め」として発刊の趣旨を述べています。その内容を要約してみましょう。

 「私はこの3月31日に61歳でサラリーマンを退職しました。3つの会社で合計38年間の会社人間でした。そして次にやることはまだ決まっていません。『何もしないとボケるよ』とよく言われます。そこで『ボケ防止に情報発信を』と考え付いたのが新聞発行でした。情報発信をすれば情報収集にもつながり、次にやることのきっかけもつかめるのではないかと思って始めた次第です。

 高知県須崎市に「土佐一人新聞」を発行されているMさんという方がおられます。この方は会社の役員でしたが、奥様と二人で風光明媚な須崎市に移住し農業を始めました。米とミカンと野菜を作り、家畜を飼い、はちみつを生産しながら、月1回の新聞を発行しています。私は2年ほど前からこの新聞を送ってもらっており、時間ができたら自分も一人新聞を作ってみようと思っていました。

 私は5年前に社会保険労務士の資格を取りました。その勉強の際に年金など高齢者の抱える問題を知ることができました。そこで手賀沼通信のテーマを『高齢者の豊かな生活のために』と決め、そのためにいろいろな情報を提供することにしました。

 『手賀沼通信』は老後のことを考える材料やヒントを提供させていただくつもりです。本や雑誌からの一般論でなく、自分の体験や取材を通して生の内容が出せればと思っています。また地域との接点も探ってみたいと思っています」

 手賀沼通信は最初はB5版4ページ、字の大きさ9ポイント、ページごとに縁取りをして毎月20日発行にしていました。その後読者の方からのご意見で、A4版の4ページ、字の大きさを読みやすい11ポイント、縁取りをなくし、毎月1日の発行に変更しました。それは今も変わっていません。

 発行部数も自分の交友範囲が広がるとともに増えていきました。読者の方から、自分の友人や知人への配布依頼もありました。

 大きかったのは読者のおひとりが読売新聞の千葉版「ほのぼのタウン」(今はこの欄はありません)のタウンレポータでしたので、「一人新聞が創刊6年、毎月発行、高齢者の生活がテーマ」として「手賀沼通信」を紹介してくれたことです。メールやFAXや電話で大勢の送付依頼がありました。

 最盛期にはメール添付と郵送と手渡しを合わせると400人以上の方にお送りしました。いまは手渡し3名、郵送16名、メール添付200名くらいに減りました。高齢化で、亡くなった方、パソコンをやめた方、原因不明で届かなくなった方などのためです。

 手賀沼通信への寄稿も多くの方から頂きました。寄稿文だけで紙面が埋まってしまうことも多々ありました。ところが最近は寄稿くださる方が少なくなりました。調べてみると、過去寄稿された方の11名の方がお亡くなりになりました。17名の方が消息不明となっています。

 手賀沼通信の内容も、私の行動範囲が極端に狭まったため、決まったものしか載せられなくなりました。旅行記などは数年前に書けなくなりました。

 創刊以来24年が過ぎ25年目に入っています。いつまで書けるかわかりませんが、ただ書ける内は何とか手賀沼通信の発行を続けていきたいと思っています。

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2022年7月21日 (木)

情報発信の思い出-その1 ホームページ(NO.1618)

 ホームページは3つ作りました。その後2つは見られなくなり、1つだけが残っています。

 最初に作ったのは「手賀沼へいらっしゃい」というタイトルで手賀沼周辺のウォーキングコースを紹介したホームページです。

 ホームページを作るきっかけは、私が入会していたNPO法人「あびこ・インターネット・博物館」が公開している我孫子宣伝のホームページに倣って、我孫子にウォーキングで来る人のために参考になるホームページを作ってみようと考えたからでした。

 ホームページの画面を作るには通常HTMLという言語を使ってプログラムを書きます。ところが私はHTMLを知りません。そこで全くHTMLの知識がなくても画面をデザインできるIBMのホームページビルダーをいうソフトを購入しました。

 ホームページは契約しているインターネットのプロバイダーのサーバーの中に保存され、ユーザーがホームページのアドレスを指定すると読みだされます。ホームページを公開するには作成したファイルをプロバイダーのJCOMに転送する必要があります。JCOMは無料で100メガバイトのスペースを提供してくれ、5つまでのホームぺージを作ることができました。

 「手賀沼へいらっしゃい」を作るには準備として

①他の観光案内のHPを調べて、ダブらないよう毎月のベストコースを設定する

②観光スポットの写真を撮る

③コース地図を描く

④リンクするHPのオーナーに了解を取る

などをしました。

 ホームページビルダーとJCOMの説明書を印刷し精読しました。地図を作成するため無料のお絵かきソフトを入手しました。準備は大変でしたが、楽しくもありました。

 苦労した結果、2005年3月ホームページ「手賀沼へいらっしゃい」の最初のバージョンを公開することができました。その後少しずつ内容の精度を高め、写真をアップデイトするなどバージョンアップしました。

 ところが2016年9月JCOMがホームページのサポートを中止しました。「手賀沼へいらっしゃい」はあえなく見ることができなくなりました。理由はわかりませんが、スマホの利用が多岐にわたるようになり、インスタグラム、フェースブック、ツイッター、ブログなど、SNSの中心が変わってきて、個人のホームページの利用が減ったためではないかと思っています。

 2つ目のホームページは「手賀沼通信」をHPで見られるようにしたことです。手賀沼通信は最初は大学の後輩のKさんが、如水会ネットの恒友会ホームページに載せてくれていたのですが、自分のホームページに載せてみようと思い立ったのです。今では恒友会ホームページと私のHPの両方で手賀沼通信が見られますが、写真の画質などは恒友会ホームページのほうが鮮やかです。

 2006年8月に「手賀沼通信バックナンバー」として立ち上げました。最初はワードで作った手賀沼通信をホームページビルダーにコピーして作ったため見栄えの悪いものとなっていました。ところが49号からはKさんの作ったHDMLのファイルをいただけたので読みやすいものとなりました。

 しかしこのHPも2016年のJCOMのサービス停止のため中止の危機を迎えました。それを救ってくれたのがまたKさんでした。ホームページの掲載をサポートとしてくれるほかのプロバイダーを紹介してくれ、手賀沼通信をPDFファイルに変換して載せる方法を教えてくれたのです。

 おかげで「手賀沼通信バックナンバー」のHPは今も続けられています。

 3つ目のHPは大学のクラス会のHPでした。2012年前後に作った「Q友会ホームページ」です。これは如水会ネットとつないで利用するものでしたが、数年後に如水会ネットと接続できなくなり、作成も閲覧も不能となりました。

 ホームページ作成はとても楽しい経験でした。いい思い出になっています。

 

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2022年7月12日 (火)

手術、入院の思い出(NO.1615)

 初めて入院し、手術を経験したのは1987年(昭和62年)8月、50歳の時でした。

 バイクに乗っていて強風にあおられバランスを崩して転倒したのです。ヘルメットをかぶっていたので頭は大丈夫でしたが、右肩をしたたか打ちました。近くの方が救急車を呼んでくれて、我孫子外科に運ばれました。診断の結果、鎖骨の粉砕骨折でした。

 入院3日後に手術、入院は1か月に及びました。ちょっとした不注意で家族や会社に大迷惑をかけることになってしまいました。妻は最初の1週間は1日に3回来てくれました。その後回数は減りましたが最後まで来てくれました。退院後もリハビリのためかなり長い間通院していたのを記憶しています。

 2度目の入院と手術は2001年4月前立腺肥大の手術のためでした。4月16日、2泊3日のツアーで友人と2人で台湾に行きました。2日目の夜までは楽しく旅行を続けていたのですが、2日目の夜台北のホテルでビールをしたたか飲んでから、排尿の出が悪くなったのです。

 翌日の台北市内観光は観光どころでなくトイレ通いの連続でした。やっとの思いで帰国し苦しい1夜を過ごした後、翌朝車で近くの東邦病院に連れて行ってもらいました。泌尿器科の先生から「なぜもっと早く来なかったの。膀胱が破裂したら大変だったよ」と言われました。1600CCもたまっていました。「前立腺肥大症」でした。それまでは小水の出が悪いなと感じながら無視していたのです。2週間ほどの入院手術でした。

 3度目の手術は心臓の冠動脈にステントを入れる「経皮的冠動脈形成術(PCI)」でした。2004年12月、近くの医院で我孫子市の健康診断を受けました。その時心電図に異常が出たため、翌年1月松戸市の新東京病院でカテーテル検査などの精密検査を受けました。そこで冠動脈の狭窄が見つかったためステントを入れることになったのです。

 手術そのものは数日の入院で済みましたが、その前後のカテーテル検査にも1日の入院が必要で、定期的な検査も含めると何回か入院しました。昨年まで検査と薬を処方してもらうため3か月に1回通っていましたが、通院がしんどくなったため今は近くのホームドクターで薬だけもらっています。

 4回目の手術は眼の白内障の手術でした。柏の柏眼科で受けました。これは1日で終わるので入院は不要です。2009年5月にまず悪い方の左目の手術を受けました。翌日右目の手術もすればよかったのですが、右目は比較的よく見えていたのでそのままにしておきました。ところが左目と右目でみえる色が違うのです。手術していない右目の色はくすんで見えます。

 そこで翌20010年2月に右目の手術を受けることになりました。その時連続してやっていればよかったと後悔しました。理由は連続して手術すれば、両目で効果が実感できる、通院や目薬を入れる手間が1度で済む、メガネの変更が1度で済む、からです。手術すると裸眼の視力がよくなり眼鏡を作り直す必要がありますが、連続してやれば1度だけ作り直せばいいのです。

 4回目から6回目までの入院は手術なしの入院となりました。2016年10月8日の深夜2時にトイレに行ったら、突然おしりから大量の出血がありました。痛みはありません。便意があったのでトイレに駆け込んだのです。それが朝まで何度も続きました。妻と相談して救急車を呼びました。近くの名戸ヶ谷我孫子病院に運ばれました。その日の夕方我孫子駅の階段で転びました。てっきりそれが原因と思っていたのですが、病院の診断は大腸憩室出血で転んだのとは関係ないと言われました。高齢化で大腸の中に憩室ができ、憩室の中にたまった内容物が固くなって周囲の血管を傷つけて出血したとのことでした。

 そのまま入院で、食事は絶食、出血止めと栄養補給の点滴が続きました。出血が止まると1分がゆから始まり、100%のおかゆになると退院できます。11日目に退院となりました。

 それから2年後の2018年10月、日中にトイレで出血しました。前回の経験があるので2度目の大腸憩室出血というのがわかりました。妻に名戸ヶ谷我孫子病院に連れて行ってもらいました。前回とほぼ同じことの繰り返しとなりました。入院日数が2日伸びて13日目の退院となりました。直後に吉野熊野のツアーを計画していたのですが、キャンセルせざるを得なくなりました。血液サラサラの薬バイアスピリンを新東京病院でもらうのをやめました。少しでも出血のリスクを減らすためでした。

 ところが半年後の2019年3月、同じ病気で3度目の入院となりました。退院したのは14日目でした。その時決めたことは、宿泊を伴う旅行はやめるということです。この病気は何の前兆もなくある日突然出血が始まるのです。もし旅行中に発病したら周りにえらい迷惑をかけることになります。もう外泊はできないと実感しました。

 その後何か月か後に軽い出血がありましたが、絶食と病院でいただいていた出血止めの薬で入院は免れました。

 2020年7月、喉頭白板症のため5回目の手術と7回目の入院をすることになりました。2019年暮れから声を出すのが苦しくなったのです。名戸ヶ谷我孫子病院やがんセンターでいろいろ検査した結果、喉頭白板症と診断されました。がんが見つからなかったため、慈恵医大病院で手術をすることになりました。

 ところが2020年3月ころからコロナがはやり始め、緊急の手術以外は延期となりました。その結果7月まで待たされやっと手術ができました。そして昨年8月に全快したのです。一時は声が出なくなりましたが、今はほぼ元に戻りました。

 いま85歳と6か月なので、これから何の病気になるかわかりませんが、もう手術は受けたくなく、入院するにしてもできれば最後の1度だけにしたいと願っています。

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2022年7月 7日 (木)

PC,無線ラン、デジカメ、携帯などの思い出(NO.1613)

 初めてPCを購入したのは1994年(平成6年)12月でした。57歳の時です。日本アイ・ビー・エムやアコムの職場ではPCを使っていましたが、個人で持つのは初めてでした。

 IBMのPS/V VISIONで、本体とプリンターとモデムをあわせて約25万2千円でした。今のパソコンと比べるとはるかに機能が劣りますが、驚くほど高額でした。

 そして翌年1月にはパソコン通信専用にNTTの電話回線を6万4千円で購入しました。私がいつからインターネットを使い始めたのかはっきりした記憶はありませんが、インターネットの接続や電子メールの送受信は、NTTのISDNのデジタル回線を通じて行っていました。4月にはマイクロソフトのオフィスを入れ、マルチプラン、DOSワープロを外しています。

 PCはだんだん機能が向上し価格が安くなったので、今使っているのは8台目です。4台目まではIBM製でしたがその後IBMがPCの生産を中止したため、5台目からはデルのPCになりました。デスクトップが5台、最近は2台続けてノートパソコンです。

 最近はスマホが手軽に使えるので、パソコンからスマホに乗り換える人が増えていますが、私はパソコン派です。手賀沼通信や手賀沼通信ブログを書くにはPCのほうが使いやすいからです。

 2000年6月、テレビをアンテナからタイタス(今はJCOMになっています)のケーブルテレビに替えました。妻の希望でいろいろな番組を見るためでした。その際ネットの接続もタイタスの回線が利用できることを知りました。当時我が家は妻と長男もPCを使っていて、ネットには私と妻は同じNTTのISDNの回線を、長男は自分で回線を引いて利用していました。タイタスの回線を無線LAN経由して3台のPCとつなげば、速度は8倍以上になり回線の費用も大幅に安くなることがわかりました。

 2000年7月メルコ社製の無線LANの機器を買い求めました。いまの無線LANと違って、当時の製品は、エアステーション、スマートハブ、有線LANボード(私のPC用)、無線LANカード(妻と長男のPC用)ストレートケーブルからなっており、合計約7万1千円かかりました。

 最初のセットアップで機器の不具合があり、動き出すまでに機器の取り換えなど時間がかかりましたが、使い始めると無線LANは快適でした。PCは家の中どこに持っていってもインターネットや電子メールを使えました。電話回線の場合はつなぎっぱなしというわけにはいきませんでした。料金が加算されるからです。無線LANはそれを気にする必要がなくなりました。

 その後何台か取り換え今は4台目になっています。機器も本体だけでよく、プリンターも接続できます。価格も格段に安くなりました。

 デジカメは1998年4月に購入したソニーのデジタルマビカが最初です。61歳の時でした。まだデジカメが世に出始めたころで、デジタルマビカは高い買い物となりました。定価10万7千円で、41万画素、記憶媒体はフロッピーディスクでした。フロッピーは当時のパソコンの記憶媒体でいまならUSBに代わるものです。写真が直接フロッピーに撮れるのがいいと思って買ったのが失敗でした。フロッピーは記憶容量が小さかったのでとれる枚数が少なく、41万画素のため焦点ボケのような写真になりました。

 仕方なく同じ年の11月にキャノンIXYを購入しました。その後デジカメも次々といろいろなメーカーから新しいカメラが出てきて、高性能化するものと、携帯に便利な軽くて安いものとなりました。私は写真そのものの趣味はないので、旅行や日常生活を記録するのに便利な小型デジカメを愛用しています。いまのカメラは5台目です。

 携帯電話は人よりだいぶ遅く持つことになりました。東日本大震災後のことです。ガラケーでした。長男一家が仙台赴任中に被災したため、やはり携帯があったほうがいいと感じたからです。

 そして今はスマホに替えましたが、スマホを持ったのは家族9人中9番目でした。いまはスマホの使い方を孫に教わっています。

 パソコンからデジカメまでは時代の先のほうを走っていましたが、今は時代の後方から追っかけている感じです。

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2022年7月 3日 (日)

クルマの思い出 乗用車とバイク(NO.1612)

 私が自動車運転免許を取ったのは1972年(昭和47年)10月、35歳の時でした。その時代としては普通かやや遅い年齢だったと思います。妻は1981年、38歳、当時の女性としてはやや早い年齢だったのではないでしょうか。

 最初の車は三井生命時代の後輩から3万5千円で譲ってもらったダイハツのツードア4人乗りでした。その当時でも3万5千円は格安でした。免許取得直後に埼玉県新座市から立川市のケヤキ台団地までびくびくしながら運転して帰ってきたのを覚えています。当時はカーナビなんて便利なものはなかったので、前もって地図をうろ覚えに覚えて、道路標識を頼りにしての初めての運転でした。

 免許を取った後は運転してしたくてうずうずするものです。電車の倍の時間をかけて立川から羽田空港へ友人の見送りに行ったり、日本平に仕事で行ったり、家族では箱根や富士山の5合目まで旅行したりしました。

 仕事で軽井沢に行く途中、対向車線のトラックの荷台から落ちてきた小石がフロントガラスを直撃、ガラスが粉々になることもありました。事故のあった場所のすぐ前に自動車整備工場があったのでそこに預けて後で取りに行くという不思議な経験もしました。1975年6月、仙台への転勤が決まったので、その車は知人にタダで差し上げました。仙台時代は車はありませんでした。

 2台目の車は1981年(昭和56年)7月、妻が仕事で知り合った先から購入した日産サニーでした。中古車でした。

 この車での思い出は、妻が首都高の分岐点を間違えて曲がって何時間も待たされたことです。私の山中湖ホテルでの研修の仕事を終えた後、妻と長男に来てもらいホテルの近くの日本アイ・ビー・エムの山中湖の保養所に泊まって富士5湖巡りをしようと計画しました。研修に行くとき妻を乗せて行き、帰りは一人で運転して帰ってもらいました。妻は免許取得後半年しかたっていませんでした。そして10日後妻と長男が来るとき、首都高の霞が関トンネルで中央高速にいくほうに曲がらず、東名高速に行くほうに曲がったのです。首都高なので引き返すことはできません。妻は東名高速経由でも山中湖に行けることはうすうす知っていたらしく、東名高速に入ってから途中で何度も道を尋ねながら遅くなってやっと到着することができました。事故でも起こしたかと心配のし通しでした。

 3台目の車は1985年8月6日に購入したトヨタカローラです。ここからは新車になりました。6日後の8月12日、買ったばかりのカローラで家族で軽井沢の保養所にでかけました。ところがその日に日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落する事故があったのです。14日に軽井沢から小海線沿いの佐久甲州街道を経由して帰ってきたのですが、御巣鷹山は街道から山一つ隔てたところだったということが後でわかりました。遺体の捜索中だったと思います。何も知らずに近くを通っていたのです。驚きでした。

 カローラには11年乗り、1996年7月に4台目のホンダシビックに替えました。カローラが時々故障するなど外れだったのでホンダに変えたのです。そのころはオートマ車が普及していましたがあえてギアとクラッチのマニュアル車で通しました。私も妻もマニュアル車が好きだったのです。そのころはやりのカーナビはつけませんでした。子供たちが独り立ちし車で旅行することがなくなったためです。シビック以後は妻が運転の主役となりました。私はゴルフはやめており、歩くのが趣味となっていました。二人での旅行はパック旅行に変っていました。

 シビックは3年しか乗らず、1999年7月には5台目の軽自動車のホンダライフに替えました。妻がスーパーで転倒して腕を痛めたため、マニュアル車の運転がきつくなり、オートマで小回りの利く車が欲しくなったためです。クルマは遊びの道具から日常生活の道具に変っていました。軽自動車に替えたため、税金や維持費が安くなり駐車も楽になりました。ところが2年後の6月に我孫子市の大粒の雹が降り、車体がぼこぼこになってしまいました。

 2001年7月同じホンダライフを購入することになりました。6台目です。色だけ変わりました。その車を21年乗り続けました。妻が免許更新をやめたため、今年の3月廃車にしました。私は昨年1月免許更新をやめていました。乗った距離は1万7千キロ、エンジンは絶好調でまだまだ乗れる車でした。

 私は1981年(昭和56年)11月スクーター型のバイクのホンダタクトを購入しました。サニーを買った年で44歳でした。もっぱら駅までの通勤用でした。

 1987年7月には同じタイプのホンダパルに乗り換えました。ところが約1週間後の8月8日に転倒し鎖骨を粉砕骨折することになりました。1か月の入院となりました。会社や家族に大きな迷惑をかけることになりました。

 回復後も乗り続けていましたが、1988年10月そのバイクが盗まれました。何ともついていないバイクです。2か月後に発見されましたが、乗る気はなくなっていました。7年ばかりの短いバイク経験でした。

 

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2022年6月28日 (火)

ペットの思い出 ロッキーほか(NO.1611)

 太平洋戦争が終わった小学生から中学生だったころ、我が家には犬と猫が1匹ずついました。

 子犬と子猫の時から飼った記憶があるので、どこかで拾ったか、もらったのではないかと思います。当時はペットなどという言葉も考え方もありませんでした。ペットフードもなく、犬も猫も残飯を食べていました。

 狂犬病の予防注射だけはしたように思いますが、犬は放し飼いで、商家だった家の中と外を勝手に行き来していました。どこでもついてきましたが、子犬のころ海に放り込んだため海が嫌いになり海に近寄るのは嫌っていました。マルという名前で、家族にも近所の人にも可愛がられていました。

 猫はミーコという名前で私たち子どもがおもちゃ代わりにかわいがっていました。当時は家の中にノミがいるのは当たり前、アメリカ渡りのDDTという粉末の薬をまいてノミ退治をしていましたが、猫の毛の中にいれたところ薬が効きすぎて猫が一時的におかしくなったのを覚えています。

 その後は結婚してからもアパート、公団住宅、マンション暮らしが続き、犬や猫を飼える環境にはありませんでした。

 ところが1982年(昭和57年)12月妻が子犬を購入しました。ヨークシャテリアの雄犬でした。ロッキーと名付け我が家のアイドルになりました。私は45歳、妻と中学生の長女と小学生の4人家族に愛犬1匹が加わったのです。

 当時はマンション暮らしだったのでペットは飼ってはいけなかったのですが、内緒で飼うことにしたのです。ところがロッキーは散歩が3度の飯より好きという張り切りボーイで、家を出たとたんうれしいため大きな声で吠えたてます。すぐにばれてしまい自治会長から苦情を言われてしまいました。何とかそっと飼うよういろいろ苦心しました。

 そして1年半後の1984年6月、若松に2世帯住宅を建て引っ越しました。やっとロッキーも晴れて散歩を楽しむことができるようになりました。休日には3回、手賀沼公園や遊歩道を我が物顔に駆けていました。

 ロッキーは小型犬ですが、大型犬並みに元気がよく、頭もよくて私たちの言葉を理解していました。(親ばかかもしれません)。

 ところが1992年8月、散歩中に発作を起こし倒れました。フィラリアのため心臓発作を起こしたのです。動物病院で室内犬だから予防薬はいらないでしょうと言われたため、フィラリア予防の薬を飲ましていなかったのです。私たちのミスでした。

 別の動物病院を探して、いろいろ手を尽くして看病しましたが、その年の12月に死にました。10年ちょっとの命でした。

 家族同様にしていたので、みんなの悲しみは大きく、妻は体調を崩してしまいました。近くの動物専門の墓地に棚の1区画を借り、小さな骨壺を飾って定期的にお参りをしました。あの悲しみが大きかったためそれ以後はペットは飼いませんでした。

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2022年6月21日 (火)

いろいろな会の思い出-その3 いろいろな会(NO.1609)

 50歳台からいろいろな会に加入しました。ほとんどは退職後の60歳台から70歳台です。すべては覚えていないので一部省略しますが、記録の残っている会についてまとめてみます。

 一番楽しんだのは「あけぼの会」です。あけぼの会は柏在住の家田さんご夫妻が立ち上げた高齢者の会です。会員は私より年長の女性が多数を占めていました。

 この会に初めて参加したのはのは2001年64歳の時でした。あけぼの会は新年会、忘年会、年1回の1泊旅行、年数回の日帰りバス旅行、K監督による映画会、歌舞伎見物、能楽鑑賞、文楽鑑賞、落語見物、ソプラノショー、講演会などを組み合わせて年間11回ほどのイベントがありました。

 1泊旅行やバスハイクでは、私にとって初めての場所が多く家田会長のこだわりが楽しく感じられました。企画、運営は家田会長おひとりで考えられ、奥様がサポートをされていました。家田さんは9歳年上だったので途中から私とKさんが運営を手伝いまた。

 会長と会員が高齢となりだんだんイベントが減ってきて、最後は2019年1月のソプラノライブショーでおしまいとなりました。入会後、創立15周年と20周年の記念文集の編集を担当したのもいい思い出になっています。

 2番目に多くかかわったのが「東京都中推協」です。この会は東京都が主催する「中高年勤労者福祉推進員講座」を卒業した人が任意で加入する会です。私はアコム在職中の1994年57歳の時にこの講座を受けています。

 中推協には1996年1月の新年会から参加することになりました。この会もいろいろな企画がありました。途中理事となったので理事会や懇親会などが多かったのですが、都内の各所や箱根、湯河原などにも足を延ばしました。

 ビール工場見学、高野山参拝や、ふるさと丸ごとの企画で山梨県豊富村、長野県望月町、新潟県安塚町、佐渡などにも行きました。七福神巡りやご府内88カ所巡りなども楽しみました。都内に四国88カ所に該当するお寺があることを初めて知りました。2014年の神田川のお花見を最後に中推協を退会しています。

 社会保険労務士の資格を取るため、日本ライセンスセンターという資格学校に通いました。資格を取った卒業生が集まる会が「JLC社労士会」です。

 1994年57歳の時この会に加入しました。この会は懇親会と勉強会と情報交換会が主な目的でした。富士市や名古屋や京都でも観光と情報交換を兼ねた懇親会を持っています。社会保険労務士の開業をあきらめたので2002年ころにこの会を退会しました。

 2004年2月、2年間学んだ千葉県生涯大学を卒業しました。この生涯大学が縁となって4つの会に参加しました。

 「生涯大学歩こう会」は在校生と卒業生合同の会でした。10回近く参加しましたが、参加人員が大勢になることが多く、200人以上がぞろぞろ歩くこともありました。イメージが合わないので卒業の翌年には参加するのをやめました。

 福祉25期A組の同期の卒業生だけの会が「七曜会」です。2004年に始まり、10年たった2014年に活動をやめました。1泊旅行やバスハイクや観劇や見学会やお花見などを企画しました。幹事は1年交代、私も1年やることになりました。

 親友のKさんに誘われて72歳の時加入したのが「ゆうあい倶楽部」です。生涯大学の卒業生を中心にグラウンドゴルフを楽しむ会です。

 私は1987年50歳の時バイク運転中転んで鎖骨を粉砕骨折した以後ゴルフはやめていました。グラウンドゴルフもゴルフはやめたからと最初は断っていたのですが、始めてみるとゴルフと違って力も要らず、手軽で面白い競技でした。女性が多く、しかも強いということが理解できました。

 柏の公園がホームグラウンドでしたが、遠くのグラウンドまで車で行ったり、泊りがけで楽しんだりしました。しかし2012年75歳の時、突然体調を崩して背中や腰が痛くなり、グラウンドゴルフをやめざるを得なくなりました。ゆうあい倶楽部は一番辞めたくなかった会でした。

 生涯大学に縁のある4つ目の会は「わいわい楽友会」です。ゆうあい倶楽部をやめる少し前に「わいわい楽友会」で、飛鳥山公園や真鶴半島に行った記録があります。この会は珍しいところに行ってウォーキングと食べることと飲むことを楽しむ会でした。メンバーはゆうあい倶楽部とダブっている人たちがいました。私は足と胃は大丈夫だったので参加できたのでした。

 2012年4月から2015年12月の最終回までの間に10回ウォーキングやクルーズを楽しみました。

 1999年(62歳)から2002年(65歳)までかかわったのが「日本中高年生きがいづくり協会」です。なぜこの会に入ったのかは記録も記憶もありません。

 JALの退職者数人が中心メンバーとなって発足した会です。会長は我孫子在住者でした。最初の会合で配布された資料が素晴らしかったのを覚えています。主に都内で集まりましたが、長野県の木島平や熱海などでも会合を持ちました。参加者で生きがいづくりの目標や方法を話し合いましたが、結局成果の出ないうちに会も自然消滅した感じでした。

 我孫子の会は2つです。

 2004年(67歳)から2005年(68歳)までかかわっていたのが「アビコ・インターネット・ミュージアム(AIM)」という会です。これも参加した動機やきっかけは記憶にありません。10回くらい集まりました。我孫子市主催の福祉のイベントに参加したり、我孫子の美しさを示す資料を作ったりした覚えがありますが、会長が病気で亡くなったため会も消滅しました。

 いま私が所属しているのは「若松ふれあい会」ただ1つです。

 若松ふれあい会は2004年に、当時多発していた空き巣や侵入盗を予防するため若松第2自治会の有志8人が結成した防犯の会です。我が家も2001年12月に侵入盗に入られていました。ふれあい会の活動は週1回の防犯パトロールと警察の担当者による防犯ミーティングをタイムリーに開くことでした。

 若松ふれあい会はその後自治会役員の会への加入や有志の加入が増え、一時は20人以上にメンバーが増加しました。防犯パトロールも週3回になり、我孫子第一小学校の週3回の下校見守りの活動を始めました。

 あれから18年、会員の高齢化と新規参加者がなくなったことで会員は数名になってしまいました。ふれあい会のパトロールは週1回、下校見守りは週2回になりました。防犯パトロールはふれあい会から自治会へと役割が変わってきています。

 私は体調不良でパトロールは中止、週1回の下校見守りだけやっています。

 ここ30年間、自分でもあきれるほどいろいろな会に参加しました。民謡の愛友会はじめ楽しかった会ばかりでした。もう新たに会に入ることはありません。思い出しては楽しみにふけるばかりです。

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2022年6月17日 (金)

いろいろな会の思い出-その2 会社のOB会(NO.1608)

 1964年(昭和39年)9月、大学卒業後4年半勤務した三井生命を退職し日本アイ・ビー・エムに転職しました。27歳の時ででした。ちょうど1回目の東京オリンピックが行われていました。そして1993年(平成5年)6月、28年8か月務めた日本アイ・ビー・エムを大リストラで退職しアコムに入社しました。56歳の時でした。アコムは1998年(平成10年)3月に退職しました。

 アコムは縁が切れましたが、三井生命と日本アイ・ビー・エムとはまだつながっています。

 三井生命とは同期入社の会「さんご会」です。三井生命は日本生命に吸収され「大樹生命」に変りましたが「さんご会」は生きています。昭和35年に入社した大卒内勤社員42名で発足したことから会の名前が付いたようです。

 最初にこの会に参加したのはIBMを退職した年の12月のホテルニューオータニでした。その後は1泊旅行をしたり、水道橋の居酒屋で暑気払いと新年会を開いたりして旧交を温めています。

 今はコロナで休会中ですが、メンバーが半数ほど亡くなっており再開しても寂しい会になると思います。

 IBMにはいろいろな会があります。

 会社がバックアップしているのは定年退職者の親鴨会です。1993年の大リストラ(正式にはセカンド・キャリア・プログラムーSCP)では定年前に辞めましたがその時やめた人は定年退職扱いになっています。親鴨会は堅苦しい雰囲気のため2回参加しただけです。

 リストラの直後、上司でもあった世話好きで顔の広いDさんがABC会を立ち上げました。私が一番多く参加しているのがこのABC会です。ABC会のメンバーで中国の蘭州大学や西域旅行を楽しんだこともあります。

 それ以外にも多くの会に参加しました。多くが職場や職種が同じだった人の集まりです。「SEの集い」「保険OB会」「証券OB会」「研修OB会」「人材管理担当者の会」、仙台事業所勤務の「青葉会」などです。同期入社の「39会」もあります。参加者の多い「金融システムOB会」からも毎回声がかかります。多くの会は年1回集まって、飲食や会話を楽しんでいます。ゲストを招いてスピーチをお願いする会もあります。

 3つの会社を経験しただけでほかの業界や他社のことはよくわかりませんが、IBM出身者は本当に集まるのが好きな人たちだと思っています。立ち消えになった会もありますが、やはりコロナのため休会中やオンラインで実施する会が多くなっています。

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