私の戦後75年と原爆投下(NO.1374)
令和2年8月15日は「戦後75年」の終戦記念日です。まず感じたことは自分は長生きしたなということです。おそらく5年後の「戦後80年」の記念日を迎えることはないでしょう。そこで75年前のことを振り返ってみたいと思います。
終戦の年昭和20年(1945年)は8歳、国民学校3年生でした。10年早く生まれていたら戦争を戦っていた年代です。もしかしたら特攻で命をなくしていたかもしれません。10年遅く生まれていたら団塊の世代でした。
私たちの世代は戦争の苦労とまともに戦ったわけではありませんが、人によっては戦争の被害をまともに受けて人生が変わった世代ではなかったのではないかと思います。空襲で家を焼かれたり、父母や兄弟を戦争で亡くしたり、外地から引き揚げてくる途中で親とはぐれたりした世代です。
私の場合は恵まれていました。愛媛県の松山市から10キロほど離れた田舎町に住んでいたため空襲には遭いませんでした。学童疎開もありませんでした。漁港や農家も近くでしたので食べ物も粗末でしたが飢えることはありませんでした。
太平洋戦争が始まった昭和16年12月8日は4歳でしたので記憶にありません。国民学校に入った後、12月8日が「大詔奉戴日」として記念行事が行われたのをかすかに覚えています。戦争を身近に感じたのはアメリカの飛行機が日本に飛んで来るようになって、灯火管制が行われるようになってからです。今でも空襲警報のサイレンの音を覚えています。
近くの飛行場から飛び立った日本の戦闘機と米軍機が空中戦になり、海に飛行機が落ちたのであとで見に行ったら、落ちたのは日本機で、プロペラが木でできていたのを見たこともありました。松山市が空襲で焼けた時は近くの神社の森に避難しました。調べてみると昭和20年7月26日、広島に原爆が落ちる11日前のことでした。広島に原爆が落とされたのは、友達が「ピカドンが落ちたそうよ」と言っていたので知りました。広島は瀬戸内海を隔てた隣の県です。
終戦は母からラジオ放送があったと教えられました。私の実の母は昭和19年3月に4人の子供を残して結核でなくなり、翌年の20年3月に新しい母が来てくれたのです。私は母の病気が感染したのか、肺門リンパ腺炎で昭和20年4月から12月まで学校を休んでいました。戦争が終わったのは学校を休んでいる時期でした。私が長男で子供は小さかったので親せきや知り合いに預けられていました。私の戦後75年の記憶は戦争より、母や兄弟の記憶が大きく残っています。
「戦後75年」は新聞やテレビで色々な角度から取り上げられました。その1つ、今年の8月6日に放送されたNHKスペシャル「証言と映像でつづる原爆投下・全記録」を見ました。
今まで見たことのないような原爆投下後の悲惨な映像でした。そこには原爆の被害の記録だけでなく、原爆投下に至るまでのアメリカやソ連や日本のやりとりの経緯が記録されていました。そこで見たのは、アメリカの残虐さ、ソ連の狡猾さ、日本軍部のバカさです。
アメリカは投下後の被害の悲惨さを知りながら、アメリカ人の兵士の死を1人でも早くなくすようアメリカ議会からの抗議を避けるため原爆を2発も日本の都市に投じたのです。原爆の効果を知るため、それまで空襲をしていなかった都市を選びました。
ソ連は日ソ中立条約がありながら、戦勝国としての利得を得るためスターリンが原爆投下の日に合わせるように日ソ国境から進撃を始めたのです。
日本軍部は沖縄戦の敗北、原爆の投下の後も、本土決戦を目指してポツダム宣言受諾に反対したのです。
見終わったあと、やりきれない気持ちになりました。戦争は人の心をこんなにも変えてしまうのでしょうか。
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